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福田逸の備忘録――残日録縹渺

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2020年 06月 25日

メジロの置き土産

四月初旬のことだったろうか、風が異様に強い日だったが、犬の散歩の折、生活道路ではあるが二台の車が余裕をもって擦れ違える道端を歩いていた。前方から車が来た。比較的広い道路にしてもスピードの出し過ぎだと感じられた。その車が私の横を通り過ぎる刹那、路の反対側の雑木から二羽のメジロが飛び立ち、道を横切った。

先の一羽は高く舞い上がった。遅れた一羽が普通なら考えられない軌跡を描いた。その日の強風に抑え付けられたのだろう、飛び立った枝より低く舞い降りるような弧を描いてしまったのだ。私の真横で、車はコツッという音を残して走り去り、路の向こう側にメジロが落ちていた。

思わず駆け寄り拾い上げた小動物は温かかった、外傷はないものの、半分開けた片方の目に血が滲み、嘴をぱくぱくさせ、片脚を藻掻かせ続ける。助からぬことは一目で分かるが、何か手当はできないものかと、私はあたふたとその場から家に引き返しつつ、「死ぬな、死ぬな」と心に繰り返した。普段から庭に設えた餌場に来る小鳥を眺めるのが好きな私は、時の経過の感覚を失っていた。一瞬の後か数分の時が過ぎたのか憶えていないが、メジロの嘴と脚の動きが止まる、気のせいか目もさらに閉じられた気がした、その瞬間からそれこそ急激に小鳥の体温が失われていった。

私は自分の掌の中で冷たくなっていく小鳥の、偶発的かつ突然の「死」を受け止めきれずにいた。「死」というものに、この時ほど衝撃を受けたことは、この三十年程なかった。ただ、それだけの話だが、このメジロの死のリアリティを超える死を最近私は経験していない。

  *       *       *

もう半世紀近く前のこと、父方の祖母が家の廊下で倒れ、意識を失つた。寝たままの祖母に付き添ったり、祖母を病院に入れるか、家で看病するか、これは主に両親が喧嘩腰で議論していた。父は病院に任せるといい、母は自分が面倒を見ると言い張る。私には二人の思うところが痛いほど分かった、どちらの味方もしかねた。どちらにも、理があった。

三日が経過、祖母は下顎呼吸を始めた・・・もう、誰も何も言わなかった。いよいよという時、掛かり付けの医者を呼び、待つ間、私は祖母の右手を握って脈を確かめていた。まだ医者が到着せぬうちのことだったが、その脈が痙攣のような微妙な乱れを見せたかと思うと、すぅーっと弱っていき、止まった。その時の感触をメジロが思い出させてくれた。

そして、三十年程前に父を病院で見送った折、やはり父の右手を握っていた。この時は最後の脈は医者が確認したが、その前後の父の顔や目から生気が失われていくさまも、まざまざと思い出した。たかだか一羽の小さなメジロだが、私には有難い置き土産をして立ち去ったわけだ。

今、メジロは私の仕事場の先の庭で草花に囲まれて眠っている。猫が掘り返したりせぬように、墓石代わりとも思って、我が家の石灯篭から天辺の擬宝珠を失敬して、置いてある。



# by dokudankoji | 2020-06-25 16:40 | 生か、死か、それが問題だ
2020年 06月 23日

他人事と自分事・・・

 以前書いていたブログ(福田逸の「独断と偏見」)で、丁度10年前に「他人事とは思へぬ!」(2010・06・15)という記事を書いている。ほとんどの記事は外から見えぬようになっているが、これを含めて幾つか読めるようにしてある。できれば、ここから先を読む前に、その10年前の6月の記事を読んでいただきたい。

 ここでは他人事の読みは「ヒトゴト」であって、「タニンゴト」ではないという前提で話を進める。

 言葉の乱れ・混乱は恐ろしい。もはや、「他人事」の読みに文句を付けている場合ではないのかもしれない――というか、時代も言葉も劣化の一途、私がブログで何を書こうと2000%(!)無意味という状況なのだろう。というのも――

 「他人事」問題を越えて、今や「自分事」問題が発生している。私が何を言おうとしているか、お判りだろうか。分からない方々に、私は一種の「絶望」を感じるとともに、この国の(「我が国」などと呼べるものか、という気分)、そう、この「にほん」とやらの国語教育の荒廃のなれの果て、行きついた姿が「自分事」なのだ。

 ここまでで「自分事」って何? と思った方がいてくれるなら、涙が出るほどうれしい、と申し上げておく。そうではなくて、「他人事」の反対に自分の事を意味してるんでしょ、と思った方とは・・・・・・

 要は「ジブンゴト」などという言葉はなかったということ。小学館日本国語大辞典の第一版にも第二版にも広辞苑にも掲載はない。つまり、ごく最近使われ出した言葉だということである。いったい、どうして、そんな言葉が出現したか。以下、私の推論を書く。

 おそらく、「ヒトゴト」を耳ではなく文字から「タニンゴト」と読んだ人がいて、その仲間がウィルスのように増殖した。やがて、漢字で「他人事」という文字列に接するうちに、誰かの脳内に漢字の「自分事」という文字列が浮かんで、「ヒトゴト」の反対語として、「ワガコト」ではなく「ジブンゴト」と発音して使う「先進的」な「先駆者」が現れたのではないか。

 それを耳にした誰彼が無意識に(ウィルスは無意識に拡散される!)「ジブンゴト」と口にする。そして、今や、多くの人は「ジブンゴト」と耳にしても、違和を感じない。いや、違和感を感じないというより、言葉に関する感性や繊細さを育てたり学だりする機会に恵まれなかったのかもしれない。

 先日、何の媒体か忘れたが「自分ごと」という表記すら目にした。こうなると確信犯であろう。こう表記した心理(?)は、おそらく次のようなものではないか。つまり、「他人事」を「タニンゴト」だと100%思い込んだ人物が、その反対語を使おうとした時、「他人←→自分」と考え、「他人事」があるから、当然「自分事」も使える、使っていいと決め込んだのだろう。しかも、(おそらく何か引っかかって)「自分事」とはせずに、「こと」を平仮名表記にしたのではあるまいか。

 言葉は自分勝手に使うものではない。日本の歴史が育んだ日本の言葉は自分一人のものではない。今一時代のものではない。我々の父祖が我々に引き継いでくれたものであり、我々はそれを次世代に、子孫に毀たずにそっと渡していかねばならない。今のように、乱暴に、ぞんざいに言葉を扱っていると、やがて我々は「日本人同士」でも意思の疎通ができなくなる、そういう時代を生み出すだろう。あるいは、我々は既にそういう時代のただ中に佇んでいるのかもしれない・・・。

 「自分事」などという自分勝手な言葉をでっち上げなくとも、我々は「己がこと」あるいは「わがこと」という、まともな言葉を使っていた。「わがこと」なら、「我が国」にも「我が家」にも「我が友」にも「我が意」にも、「我が儘」にも(!)繋がる意識を持てるではないか。「己がこと」なら「己がじし」や「己がでに」を忘れぬためのよすがにさえなろうが。

 ふと、思う。こんなことを書いて、結局は多くの読者をイヤな気分にさせるのではないかと――それならそれまでのこと、私には私に書けることしか書けない。読者の気持ちはヒトゴトとして、我関せずと言っても許される年齢ではないかと思う日々を過ごしている。

 (追記)お気づきの方もあろうが、今回、ブログ再開に際して、現代仮名遣いを使っている。思うところあっての「実験」なのだが、そのうち「正仮名遣い」に戻すかもしれない。その方が時間の短縮にもなれば、思考の混乱も少なくなるのだが……取りあえず。



# by dokudankoji | 2020-06-23 17:09 | 言葉、言葉、言葉、
2020年 06月 19日

ブログ再開に当たって

 「独断と偏見」のタイトルでこのブログを書いていたのが、平成17年(2005)3月から平成25年(2013)7月まで――その後、諸々の事情で時間が取れなくなり、自然消滅的に書かなくなってしまった。 

 それからほぼ七年の歳月が過ぎ、私の身辺にもそれなりの変化があった。当然、七歳、歳をとったわけだが、一番大きな変化といえば、やはり芝居・演劇の世界から足を洗い、すっかり遠ざかったことだろう。「足を洗った」については、いつか書くこともあるかもしれないが、それはともかく、その後、他人様(ひとさま)の舞台もとんと見なくなった。歌舞伎からも遠ざかった(これは、近年、時たまに観るようにもなったが、このコロナ騒ぎで二月に玉三郎・仁左衛門の『道明寺』を見たのが最後。その時も、既に東京の街や劇場の密集に、何となく緊張していたが。)

 また、三年前に『父・福田恆存』を上梓したことも自分に大きな変化をもたらしたような気がする。あの本、というか、父の晩年の衰えに纏わる、父と私の愛憎半ばする葛藤を書き連ねるのは、その愛憎と葛藤を再体験することに他ならず、原稿を書き終えゲラの校正を終えて出版する頃には、私は抜け殻とまではいわぬが、大袈裟だが人生でやることはすべてやり尽くしてしまった気分に襲われ、何もする気が起こらなくもなっていたに等しい。知盛ではないが、「為すべき程の事は、為しぬ」で、「今は呆けん」というところだった。

 もう一つ、大きな変化と言えば、一昨年の春(平成30年3月末)で明治大学を定年退職したことだろう。退職して思った。30年近く私ごときを雇ってくれた明治大学には感謝しかないということ。ゼミなどで学生と接するのは実に面白い。こちらが学ぶことも多いし、変化していく社会を、その場その時にまざまざと体感できる。その機会を失ったことは、何とも無念……。  

 とは言い条、自分が縛られている人間関係や事柄から、ある意味で完全に解き放たれるということは、一方で、なんとも痛快なことではあった。なんといっても、時間が――何ものにも拘束されず――いわば「無限」にあって、しかも、そのほとんどの時間が自分の自由になる。何をしていても、どこからも文句は来ない。といって、この二年余り、何か充実した仕事をしたというわけではなく、退職した時、自分に課したことといえば「何もしないこと」、それだけだった。この「目標」はほぼ「達成」したが、その間、用件や仕事がらみで人に会うこともあまりなく、会うとすれば、単なる雑談や久闊を叙するための酒席だけに限った。 

 しかし、それも徐々に減らし、私が結局「戻って」行ったのは読書の世界だった。大したものを読んでいるわけではないが、目についたもの、知人から贈られた新刊、たまには月刊誌に載った(滅多にないが)この人の文章なら是非、といったものばかりである。しかし、それもどこか物足りなく、これからは古典と呼ぶにふさわしいものを、系統立てたりせず、目に触れたもの、思いついたものから読んでいこうかと考えている。三月から一月余りで『カラマーゾフの兄弟』を読んだ、その前が『ゴリオ爺さん』。今、頭に浮かんでいる候補は、読み止しになっている「古事記」。そして、一年余り前に再読した「ソクラテスの弁明」「クリトン」に続いて、未読の「パイドン」も近々手に取るつもりでいる。それと、東西を問わず未読の小説や近現代の思想書辺りだろうか。 

 というような次第で、読書に比重が掛かると、一方で、自分の中から発散・発信もしたくなる。もっとも、これは読書した「から」というより、生まれつきかもしれないが、おしゃべり・喋りたがりの私には常に自分から外に向かって発信・発言をしたいとう「欲求」とでもいうようなものがあるらしく、この三年近く、その種のことから離れていて、徐々にその「欲望」が「肥大」してきたようである。勿論、小さな原稿依頼などは幾つかあったが、自分から書きたいことだけを勝手に書くという方が性に合っているというか、何より、自由でいい。自分の言いたいことを、言いたいことだけを、何ものにも捉われずに書いてみたい。 

 ならば、ということで、このブログを改めて「発信」の場として、再開しようと思ったわけである。以前の「独断と偏見」時代と似たものになるのか、まったく別のものになるのか、始めて見なければ分からない。同じ人間のやること、まぁ、同じようなものになるのが落ちかもしれない。ただ、空白の七年の歳月が私にもたらした変化も、僅かながらあるのではないかと思う。それは、私自身にとっても興味津々のところではある。文体・テーマもアレコレ試行錯誤を重ねたいと思っている。  

 この半年の新型コロナウィルス騒ぎは、もはや、どうでもいい。何か書くかもしれぬが、余りにも「通俗的」ではないか、と白けている次第。第二波が来ようが自分が死のうが、コロナ騒ぎは、もう古い、もはや、どうでもいいといった感覚である。  

 以上、ブログ再開に当たっての御挨拶代わり、乞御期待!? (次回更新、いつになるやら、それは期待なさらぬよう・・・。)


# by dokudankoji | 2020-06-19 11:18 | 日常雑感
2012年 12月 10日

「絶対」と「孤独」――幕の降りたあとに 

 まづは現代演劇協会主催公演『明暗』にお出で下さつた方々に御礼申し上げる。とはいへ、このブログを訪れる方でお出で頂けたのはごく限られた方だらうと思ひ、公演のパンフレットに書いた「演出ノート」をここに載せておく。会場にお出での方を前提にしてはゐるが、そのまま掲載。(なほ、これを書いたのは十一月の六日の夜と記憶する。)以下、転載。

**************************************

 この「明暗」といふ戯曲を私は今までに何度読んだことだらう。上演の可能性を探るため、あるいは文藝春秋社から刊行された福田恆存戯曲全集編纂に携はつた時、この三十年ほどの間に折に触れて読んだが、今回の上演に関る以前に、既におそらく十回を超えてゐるのではないか。

 そして、「詩劇」と銘打たれたこの作品に紡がれてゐる言葉の美しさ、逞しさ、繊細なそして時に凝りに凝つた言ひ回しに、いつも心惹かれ、酔はされた。俳優に挑戦してくる、まるで日本語を破壊しかねないフレージングと、いつか格闘してみたいと漠然とだが思つてゐた。従つてこの生誕百年記念に何を取り上げるか考へた時、私は躊躇ふことなくこの作品を選んだ。選んで、夏前に稽古の準備に入り本格的に読み直し、正直慌てた。自分の頭の中にほぼ組み立てられてゐると思ひこんでゐた構図の陰に何かが見え隠れする。そのちらつきが気になりだして、私は戸惑ひ混乱した。考へてゐた以上に曖昧な科白も多い。そこからの私の格闘はさておいて――

 この戯曲を観客の前に提示する時、作り手の私たちがまづもつて留意すべきことは、この戯曲のサスペンス劇としての側面を絶対に失つてはならないといふことだらう。起承転結を踏まへた四幕の構成の鮮やかさも印象付けられねばならないし、スリリングな筋の運びに、いささかの遅滞があつても舞台は失敗する。潔癖と言つてよいほど完璧な科白術と演技、リズムとテンポ、それらが劇的サスペンスを支へて運ぶ。それを生の役者の肉体を通して具体化しなくてはならない――

 今もし幕の開く前にこれをお読みなら、ここまででこの雑文を読むのをお止めになつて、取敢へずはサスペンス劇とその物語の展開に身を委ね、存分に楽しんでて頂くのも一法かもしれない。後は幕の閉じた後、帰宅の途次あるいは帰宅なさつてから、読んで頂いた方が良いかもしれない。

 さう、戯曲の主題だとか作者の意図などは、実は「観劇」といふ行為とは無縁だ、恐らく福田恆存自身がさう考へてゐるに違ひない。私もまた、芝居を観るのにテーマだ主題だと、野暮なことは言ひなさんなと思つてゐるし、さういふ近代以降の「トリヴィアリズム」も「教養主義」も好きにはなれない。が、この作品を本気で読み込みだすと、サスペンス的な構成だけでは、舞台を造り上げる芯が足りず、そこに福田恆存がおそらく生涯抱へてゐた最大のテーマを読み取らざるを得なくなつたといふのが、この夏以来の私の戸惑ひなのだ。お前、気が付くのが遅いと言はれるかもしれぬが、十六年前の劇団昴による再演の舞台にも、その主題の問題はちらとも感じ取れなかつた。文学座の初演がどうであつたのかは知る由もない。が、実は、私はそれすらも疑つてゐる。

 さて、では作者がこの戯曲を書く時、何を考へてゐたのか、主題に据えたものは何か。キーワードは「道徳」。さらに言へば、「日本人の道徳観を支へ、その道徳を要請=強要してくるものは何か」といふテーマを恆存は考へてゐるのだ。昭和二十八年からの一年に亙る米英滞在と、殊に英国でのシェイクスピア劇体験が恆存に与へた影響はここではおそらく計り知れないものとならう。シェイクスピア劇に立ち現れる無数の背徳、それを描いたカトリック的なシェイクスピア――恆存は考へる、西欧の世界、キリスト教の世界には、人々に道徳を要請=強要する背後に、つまり、物事の是非善悪を規定する背後に神が存在する、と。では、日本人に背徳と道徳の別を要請するのは世間態なのか法律なのか、日本人にとつて西欧の神に代はるものは存在するのか、と(玉川大学出版部刊『福田恆存対談・座談集』第七巻収録の「現代人の可能性」参照)。

 確かに、日本民族は西洋的な意味での信仰も宗教も持たない。さうだとすると、我々の道徳心はどこから来るのか、世間態や法律などは持ち出す意味すらなからう。「明暗」の主題とは関連のないところでだが、恆存は「いつそのこと日本はキリスト教(信仰)も持ち込んでしまへばよかつた」とも言ひ、また晩年「最近は汎神論のことを考えたい」と言つてゐたともいふ。疑ひもなく恆存は自己存在の根底に据ゑるべき宗教を探し求めてゐたと言つてよからう。

 これらのことを頭において「明暗」を読み返すと、「罰の下らぬ世界」とか「なにもいはなかつた女のうへに下された罰」といつた科白が気になり始める。過去が現在を規定する世界の、その過去の出来事が現在を破滅させるといふ構図が、背徳に対して下される罰を浮かび上がらせる。不義密通を犯した人々がすべて劇中で死ぬ。いや、犯した人々のうち、それを罪と感じた人々には死が待ち受けてゐる。そして、幕切れでは、その背徳を黙つて見てゐるばかりで何も言へず行動もできなかつた杉子と祥枝は現在に立ち竦み、過去の沈黙へと遡及する。一方、背徳の世界に反逆した洋子にも未来が開けてゐるわけではない、あるとすれば、現在の自分の孤独のみであらう。

 神を求めるものは自己を神の前に晒さざるを得ぬ、従つて孤独に直面する。耐へる耐へられぬという言葉の埒外にある孤独のみが孤独と呼ぶに値するのだらうが、この孤独こそがおそらく「明暗」の作者が生涯抱へてゐたものに違ひない。幕切れの洋子に作者の姿を思ひ浮かべるのは演出家の読み込み過ぎだらうか。

 日本人の道徳の背後にあるのは何か、作者が抱いたこの疑問は平成の時代を生きる私たちが抱へてゐる命題でもあるのではないか。そこに、絶対を見てしまつた時、我々は恆存と同じ孤独を見据ゑずにはゐられないのではないのか。

# by dokudankoji | 2012-12-10 22:49 | 芸術
2012年 08月 08日

上方の言葉に思ふ

 政治家と文化・芸術について書いた7月31日の記事に「くゎんさい人」さんから≪住大夫師匠は、「が」と「ぐゎ」の発音を区別できる、純粋上方弁の遣い手としても人間国宝なんです。早くお元気になりますように。≫といふコメントを頂いたので、こちらに移して簡単に書く。

 福田恆存が確か『私の國語教室』の中で、かう言ふことを書いてゐた。「新仮名遣い」が決められた時、上方の知人が、≪なぜ「扇ぐ」を「アオグ」と書かなくてはいけないのか、なぜ「アフグ」と書いてはいけないのか、私は実際に「アフグ」と言つてゐるのに≫と歎いてゐたと。

 新仮名を違和感なく使つてゐる皆さんに、ここで一先づ立ち止まつて考へて頂きたい。フとオの表記の違ひだけではない。扇子でアフグ行為を「アオグ」と表記し、「扇」は「オオギ」と表記する。これが現代仮名遣ひだが、「フ」・「オ」の問題だけではなく、同じ語なのに品詞が変ると、最初の一音が「ア」から「オ」に変つてしまふことにお気づきだらうか。名詞の時は「オ」で、動詞になると「ア」になるのはドウシテか説明できる方はゐるのだらうか。(目が「潤む」のが、名詞になったら目の「ウルミ」ではなく「オルミ」とでもするやうなもの。名詞の「扇」も書き言葉としてアフギと書いて、発音する時は音便が生じ「オオギ・オーギ」に似た発音をするだけのことで、地方によつてはそのままアフギ・アフグと発音するといふことである。)

 今でも住大夫師匠ならずとも、上方にはこの種の語感は残つてゐる。実は八月の初めに大阪の文楽劇場へ行つた。師匠が休演になる前に切符を買つてあり新幹線も予約してあつたので、三味線野澤錦糸や住大夫の弟子達に会つて話しを聞いて来ようと思つたこともあり、大阪まで行つたら京都に寄る癖がつき、宿も取つてあつたからだが、住大夫休演の文楽の味気なさを存分に味ははせてもらつた。橋下徹のお陰と思つてゐる。同時に、やはり、文楽協会がその役割を果たしてゐないことも確かで、住大夫の病の発端が協会にもあることを確信した次第だが、これは横道。

 さて、京都に移動して、馴染みのHといふ祇園の「飲み屋」(「お茶屋」ではないのでかう書いておく)に行つた。ここの主人が芸達者といふか、祇園の名物男、三味線を弾きながら都々逸・小唄・端唄に清元、義太夫から、歌舞伎のセリフまで何でもござれ。事実、歌舞伎の役者や芸者たちが教へを乞ひに来るほどの腕前なのだが、たまたまその日、上七軒(五花街の一つ)の料理屋の旦那が二人連れで、芸者を二人伴つてやつて来た。

 その旦那の一人に店の主人Hが端唄「青柳」を催促、その旦那が「青柳ぃの~」と唄ひ始めた途端に、Hが三味線の手を止めてかう言つた。≪「アオヤギ」ぢやない、「アヲ」(「アウォ」)。「アオ」ゆうたら「あほ」に聞こえる。≫件の旦那、不愉快な顔一つ見せず「アヲヤギノ」と唄ひ直してゐた。つまり、京都にはまだ、本来の発音が残つてをり、青は「アヲ」と発音するのが当然と考へる人々がゐるといふことだ。(もちろん歴史的仮名遣ひでは青は「アヲ」と書く。)

 仮名遣ひとは単に表記法の問題ではない。今なほ、発音の問題としても考へなくてはならないといふ例が目の前にある、そのことに私は驚くといふか感動に近い思ひを抱いた。店の主人も客の旦那も、仮名遣ひのことなど毛ほども頭に浮かんでゐないだらう。ただ、正しい姿、本来の姿はどうかといふ基準が物事にはあるのだといふ常識があるだけであらう。直す主人が主人なら、受けて学ぶ旦那も旦那、見上げたものと感心して、さほど上手くはないその端唄に聴き惚れた。

 ちよいと、「粋」な話をお読みいただいたが、後は蘊蓄。「青柳」には端唄のほかに小唄でも「青柳の糸より」といふものがある。両方の歌詞を上げておく。端唄は「青柳の影に 誰やらゐるわいな 人ぢやござんせぬ 朧月夜の え~影法師」、この後、色々な替へ歌がある。小唄の方は―― 

 青柳の糸より 胸のむすぼれて
 もつれてとけぬ 恋のなぞ
 三日月ならぬ酔月の
 うちの敷居も高くなり
 女心のつきつめた
 思案のほかの無分別
 大川端へ流す浮名え~

 こちらの方は、明治に実際にあつた事件が元になつてゐる。その頃、評判の刃傷沙汰、この事件をもとに幾つかの戯曲が書かれた。川口松太郎も昭和十年に『明治一代女』といふ芝居を新派のために書いてゐる。

 ある遊女が、成り行きで恨んだ男(遊女の惚れた歌舞伎役者の付き人)に、(その付き人が持ち主になつてしまつた)自分の勤めてゐた茶屋(酔月楼といつた)に出入りを禁じられ、その男を大川端で出刃包丁で刺した。「うちの敷居も高くなり」とは出入り禁止のこと、「つきつめた」は包丁で突き刺したこと、と解して読むと小唄の情緒も増すだらう。

# by dokudankoji | 2012-08-08 20:52 | 言葉、言葉、言葉、