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福田逸の備忘録――残日録縹渺

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2020年 10月 15日

月下美人

 施設に入った母に代って世話をしている月下美人、一昨年鉢を増やし株分けなどしたせいで、元気を取り戻し、今年の夏は天候不順にも拘らず、沢山の花をつけてくれた。しかも、7月から毎月、4度目の花が咲いている。
 下の画像は今夜咲く花、一鉢で9輪の花をつけている。さぞかしいい香りだろう・・・と思うが、これだけ咲くと、香りがキツイかもしれない。他の鉢を入れると今夜13輪咲くはず。壮観だろう。
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 少々みっともないのは、夏の日光で葉(?)が日焼けして、茶色くなって葉肉の部分があちこち見苦しい・・・いずれにせよ、香りが届けられないのが残念だが、映画でもテレビでも、香りまで届ける技術だけは未来永劫出来ないのではあるまいか。
 分かりにくいかもしれないので、花に矢印を付けておきます。

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# by dokudankoji | 2020-10-15 16:20 | 自然 | Trackback | Comments(0)
2020年 09月 12日

身辺多事……拙訳等々刊行

 今夏の暑さに参っていましたが、それも漸く収まってくれそうな気配にホッとする日々です――とはいえ、8月の末には、施設にいる母(99歳)が救急搬送されたり(幸い事なきを得て施設に戻りました)、家人が足首骨折(ヒビ)で身動き取れなくなったり……この「二正面作戦」だけでも、小生にはアップアップの毎日ですが、ここにきて、愛犬が夏バテ気味、食欲もなく元気がない。動物病院へ連れて行きと、遂に三正面作戦と相成り、そうなると、半ばヤケ。居直った毎日を過ごしています。

 ところで、つい最近、拙訳ノエル・カワード著『スイートルーム組曲』 が刊行されました。実はこれ、7年越しの仕事というか、出版が思うように捗らず、今春、方針を切り替え、出直したら、あれよあれよと進展、半年で世に問うことが出来ました。版元の而立書房には感謝あるのみ。

 また、その少し前に、小生の解説で福田恆存の旧著が中央公論より文庫化されました、『演劇入門 増補版』。順番としては、こちらを先に読まれて、ノエル・カワードの戯曲を私の訳でお読みになると、舞台言語とはどういうものか、腑に落ちる…かもしれません(?) ご興味があれば。是非!

 定年以来二年余り、呑気に過ごしてきたのですが、ここのところ、これらの仕事を進める手続きやら、他にも月刊誌のインタビューや映画関連の原稿(コメント)依頼等々で、忙しい夏から秋への変わり目を過ごしており、ブログも滞りがちで、相済みません。



# by dokudankoji | 2020-09-12 16:54 | 日常雑感 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 21日

一之輔のコラム~なにやら悲しい

 産経新聞に毎週金曜日に掲載される春風亭一之輔の人気コラム「直球&曲球」。820日付は、《急患よりも「コロナが怖い」人たち》を読んで、コロナ禍以上に気が滅入った。(いや、コロナ禍で気が滅入ったことなど無いのですが……)

日本人というのは、昔からこんな情けない人種だったのだろうか。他者の不幸や危機的状況にかくも冷淡でいられるものだろうか。私自身が、同じ立場に立ったらどういう行動をとるか、勿論、偉そうなことは言えないが、おそらく一之輔と同じような行動をしたと思う。

読んでいない方も多かろうと思うので、短いエッセイ、以下にそのまま引用する(産経さん、一之輔さん、©などと仰らずに、金もうけで書いているブログではありません……)。

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先日、山手線に乗っていると、私から3メートルほど離れたところで「ドターンっ!」と大きな音。見ると女性が前のめりに倒れて痙攣(けいれん)していた。

 座席はほぼ埋まっていたのに、誰も動かない。「近くにいるのに誰も何もしないの?」と思いつつ、とりあえず駆け寄り「大丈夫ですかっ!」と声をかける。頭は動かさないほうがいいだろう…くらいは分かるのだが、後はどうしたものか…。

 数回声がけをしても反応がないが、呼吸はあるようだ。スマホで119番した。誰かが非常停止ボタンを押したのだろう。電車が止まる。

 電話がつながった。今、山手線のどことどこの駅の間なのか、何両目付近なのか、女性がどのような様子なのか、を電話口で聞かれ、「次の駅のホームに着いたらその人を降ろしてください」と言われた。

 電話を切ると、遠くの方から年配の女性が近づいてきて、「マスク外してあげたほうがいいんじゃないかしら?」。慌ててその女性のマスクを外すと、とたんに近くの乗客が何人か席を立った。

 もう1人、男性が近づいてきて、女性の脈を取り始めた。「ちょっと速いですね」と男性。電車が駅に着いた。

 3人でソロリソロリと女性をホームに下ろす。年配女性が倒れた女性のカバンを渡してくれたが、「ここでごめんなさいね」と電車に乗り、数十秒後に電車は発車した。

 遠くから駆けてくる駅員。「おーいっ!こっちこっちーっ!」。私のデカい叫び声に周りのお客は驚いた顔で振り向く。駅員さんに引き継ぎをし、救急車が来て女性は運ばれていった。

 夕食のとき「人が倒れたら普通すぐ動くよなぁ」と家内にこぼすと「コロナが頭にあるから、みんなすぐには駆け寄れなかったんじゃないの?」と言う。そうかあ? そうなのかなあ。人命が懸かってるのにそれに関わるのを躊躇(ちゅうちょ)してしまうほどに『ソーシャル・ディスタンス』なるものが身に染み付いてしまったのか。

 そうだとしたら、とても切なくて怖いことだ。

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大袈裟に言えば衝撃的な話だ。

問題点は二つ。

ひとつ。一之輔が言う通り、人が倒れた時、普通、動くだろう、駆け寄るだろう。これが電車内ではなかったら、今の日本人は倒れている人の傍らを素通りするのだろうか。放っておくのか。

車内で見ず知らずの人が急に倒れる――確かに、一瞬固まって動けないのも分からなくはない。しかし、ひと呼吸おいて、人は助けに動くものではないのか。

もう一点は、マスクを外したからと言って、飛びすさるように席を立って「逃げる」ヤカラ。コロナが怖い? コロナだから倒れたのかもしれない? で、自分は罹りたくないから逃げる? この連中が私には一番情けない。

確率からいっても、1億2千数百万人の人口の我が国で、今のところ分かっている罹患者は約60,000人ほど。半年を越えるコロナの「蔓延」でも、死者が1,150人余。インフルエンザでも毎年3,000人が死ぬというのに、コロナでの死者は半年余りで、その三分の一。

何が、怖いのか。死が? 重症化が? 後遺症? しかし、人口から考えると、罹患率は小数点以下にゼロが3つついて、次の桁が1にしかならない割合。

もしも罹患の危機を感じたというなら、逃げまどうよりは、手助けして次の駅で降り、宝くじでもお買になったら? と、与太の一つも飛ばしたくもなる。

さて、一之輔は、この話を「そんなにコロナが怖いのだろうか」と優しく書く。しかし、内心は違うだろう。帰宅後奥方に「人が倒れたら普通すぐ動くよなぁ」と零したことからしても、大袈裟に言えば「人の道」を踏み外している多くの乗客を、寂しげな目で眺めている。最後の、「そうだとしたら、とても切なくて怖いことだ」という言葉がいい。厳しくも優しい一之輔の、この目線が私は好きだ。

そして、くだんの女性のマスクを外してやろうと言った婦人、脈を取った男性。彼等は、きっと、直ぐに動けなかった自分を恥じ、その恥をそそぎたかっただろう。何より、一之輔の孤軍奮闘に勇気づけられて行動を起こしたに違いない。これらの人々の真面目も私は好きだ。そういう人がいたことに、救われる思いがする……そうだ、そういう人が、他にもきっといたに違いない。何かしたいとは思っても、直ぐには体が反応せずに、タイミングを逃して何もしなかった、そういう人々が他にもいたと思いたい。

ましてや、コロナへの罹患を怖れて知らぬ顔をしていたなどと想像したくはない。もしもこの国が、危急の折に取るべき行動を取れない人間の集合体であるとしたら、行く末は暗い。無気力と無責任と無関心との先に見えるものは、無意味や無価値でしかあるまい。不気味なことだ。



# by dokudankoji | 2020-08-21 21:29 | 我が国 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 19日

昔のブログ

 調べてみたら、最初にブログを書き始めたのは2005年3月下旬、実に十五年以上前のこと。自分で驚いている。FacebookやTwitterに完全移行して、ずっと外からは読めないようにしておいた。

 で、今回、タイトルも「福田逸の備忘録~残日録縹渺」と改めて、再スタートしたのを機に、少しずつ以前のものも読めるようにした。余りにもその時のみの話題やリンク先が消えているものなどは除外、半分近くの記事だろうか、遡って読めるようにした。

 時間のある方は、ご一読を。呆れたことに、現在でも書きたいことを、既にかなり書いている。こうなると当ブログ、もう書くことは何もないか・・・あとは沈黙、ってか? 最近引っかかる言葉遣いについて、気が付いたら10年以上前に既にゴチャゴチャと文句を付けている。こうなると、もう、戦意喪失、書く気を失う・・・?



# by dokudankoji | 2020-08-19 16:54 | 日常雑感 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 18日

福田恆存著『演劇入門』

父の著書が文庫化されました。中公文庫版『演劇入門』
近日中に書店に並びます、ご興味のある方、是非お手にとってご覧下さい。
解説を書きました、少しでも皆様の読書の一助となればよいのですが。


# by dokudankoji | 2020-08-18 23:17 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 10日

やっぱりキツかった八ヶ岳 その三(2日目・赤岳へ)

7月31日(金)

行程

二日目:赤岳天望荘(2710m)赤岳(2899m)(文三郎道経由)行者小屋(2345m)美濃戸(1720m


赤岳天望荘を出て、小やみになった雨の中、霧だけは相変らずで20メートル先が見えない。本来なら、赤岳頂上までの道もおおよそ見えてきてもいいはずだったが、昨日同様、自分がどこを歩いているか、何一つ景色は見えない。この尾根は樹林帯をはるか下にして、南アルプスから北アルプスまで見渡せるはず、当然富士山も見えてよい。眺望絶佳といえる尾根筋に私はいるはずなのだ、が、霧、霧、霧。なぁ~んにも見えない。

小屋から暫くは比較的緩やかな登り、勿論森林限界も越え、切れ立った尾根筋ゆえ、吹き付ける風がものすごい、小屋で聞いたら、風速は10メートルくらいでしょうかとのことだったが、瞬間的な突風は怖かった。

10分もしないうちに、尾根の道がいつの間にか道というより岩場に変化、相変らずの霧の中で、行く手があまり分明でない。先がどうなっているか、目標がどこか、何を目印に進めばいいか分からぬというのは、気分のいいものではない。

そうこうするうちに岩場は、登るのが難しいというほどではないのだが、いよいよ傾斜も険しくなり緊張が増す。ふと頭をよぎる、「これって、晴れた日で見通しが利けば、何ひとつ緊張も不安もないんではないの・・・?」 今までの山の経験で、ここまでの緊張感はなかったと思う。「もしも晴れていれば」の条件と、もう一つは、気付かぬうちに私自身が老いてきている、そういうことだろうか。

やがて、先に天望荘を出発した、空身で頂上往復の男性と行き違ったが、彼はこれから小屋まで降りて荷物を拾い、横岳の岩場を北上するという、元気一杯。頂上までのことを聞きたかったが先を急ぐ彼の邪魔をしたくないし、何しろ強風で互いにウェアのフードを付けているので、大声でないと聞き取れない。そこそこに互いの無事を祈って別れる。

このあたりの画像でもあるといいのだが、一日目同様、霧に包まれていて、目の前の岩場しか被写体がなく、写してもなにも面白くない。出発も大分遅れていることもあって、一切写真を写さなかった。代わりに、ネット上で見つけた画像を上げておく。正面が赤岳頂上、手前の建物が赤岳天望荘。すべて風力発電らしい。

やっぱりキツかった八ヶ岳 その三(2日目・赤岳へ)_d0007247_22181506.jpg

赤岳までの登りは淡々と岩場をよじ登る印象。中でヒヤッとしたのは、足を載せた岩が一度崩れ落ちた時。真直ぐの登りなので、人が下にいたら大変。落としたと思った瞬間、大声で「落石で~す!」と一声。しかし、考えて見りゃ、昨日から今日の登りで人とすれ違ったり、追い越したり追い越されたりはほとんどなかった。でも、危険を知らせる注意喚起は必要だろう。

昨年の今頃のことだが、中央アルプスの千畳敷カールを乗越浄土へと、ヒーヒーいいながら登っている時――あそこも相当の急傾斜で、10メートルほど上を登る人が落石を起こし、岩は私の肩先を風を切って落ちて行った。こぶしより大きい石だった。やはり、これは怖い。それもあって、今年はヘルメットを付けた。(この山行のために買った。行者小屋が開いているとレンタルでき、帰路のルートによって、行者小屋か系列の赤岳鉱泉小屋に返却できる、それを借りるつもりが、コロナ騒動で小屋が閉まっている、全く、ナント迷惑な! とんでもない臨時出費だった。)

今回の赤岳への登りで私が落とした石というのは、比較的薄い石だったが面積は靴底くらい、下に人がいたら、とんでもないことになるわけで……コースも人気のコースで季節と曜日と天候によっては、かなり人出は多いところ。これだけは悪天候とコロナに感謝かもしれない。

そうこうするうちに小屋らしきものが霧の中に一瞬チラと見えた。赤岳頂上山荘(閉まっている)だろう。漸く頂上か。が、時計を見れば、天望荘を出発してから既に一時間近く経過している。やはり、ペースは落ちたまま、速い人なら3040分で来るらしい。

頂上直前で後から来た単独行の女性がいともたやす気に私を追い抜きながら、「こんにちは~」と声を掛けてくれる。追い抜いて振り向いた女性の顔もガスにかすんでいる(従って美女だった)。頂上がどこなのか戸惑っていた私は、つい聞いてしまった、「頂上、どっちですかぁ?」。「こっちで~す、あと五分くらい」。何度も来ているらしい。この日の行程ですれ違ったり追い越されたりは、天望荘で一緒だった男性を含めて総計7人のみ、やはりコロナ自粛なのか。

頂上で記念撮影、以下の如し。何も見えぬ、霧の中。何を書いても、霧の中と書くしかない。絶景を画像でお見せすることもできず残念、半分自棄で加工の――とにかく「赤岳に登って来たぞ画像」をどうぞ。

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頂上では15分ほど休憩(これも長すぎる)。チョコレートなどでエネルギー補給。しかし、とにかく寒い。赤岳の頂上に近づくに従い、幸い雨は上がったが、曇り空で強風のため、気温が下がってくるのが分かる。

従って空気は冷たく、体感はさらに冷たく感ずる。何よりも困ったのは、眼鏡が冷やされ、そこに霧が付くこと。拭いても拭いても霧滴が付くので、足元が見えない。これには往生した。登りは足を滑らせても、通常、尻餅をつく程度でそれほどのことは起きないが、下りは何が起こるか分からない。山の事故の多くは降りで起きるというし……。

先を急がないと、まだ行程の、距離にして五分の一、時間にすると七分の一にもならないのではないか。小休止の後、早速クサリや岩に書かれた白い矢印丸印を頼りにガレた岩場を降り始める。霧に濡れて滑る。眼鏡は曇る。(ここで動画をアップしたかったのだが、サイズが大きすぎた。)

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そこから後は、ただひたすら斜度30度(?)くらいだろうか、岩場を右に左に、時に直線で上の画像のようなところを下降。何度も足場に迷い、眼鏡を拭い、這いつくばり、20分ほど頂上直下の急な岩場を急降下、漸く岩場を抜けて阿弥陀岳に向かう御小屋尾根に出る。

直きに右の文三郎道への分岐点に到着、そこまで頂上から30分弱だった。健脚(普通)だったら20分弱だろう、常にコースガイドの時間より大幅に遅れていく我が身の不甲斐無さを笑いつつ、文三郎尾根を上から眺めて、息をのむほど驚いた。

これは降りたくない。出来れば、エスカレーターを設置してくれ() 誰がこんな道を開拓したんだ!(多分、文三郎さん)

降りるのヤダ、と、内心駄々を捏ねたくなった。とにかく、エスカレーターの一語、これが一番分かりやすい説明になるのではないか。急な尾根道が(普通ならジグザグに道が付いていてもよいのに)一直線に遥か下まで階段状で続いている。少しも曲線を描かず、ひたすら真っ直ぐ。この画像を残すべきだったが、心の余裕がなかった。

降りの一歩を踏み出す。少し降って気が付いた――「アレ? 下まで見下ろせるではないか」。霧がなくなっている。見上げると、空に一瞬の青空。レインウェアの上着だけ脱ぐ。気分も明るくなる。昨日今日で初めての青空――ほんの一部にしても空の青がこんなにホッとさせてくれるものとは思いもよらなかった。

で、さらにエスカレーター道を降っていき、立ったまま一息入れて見渡すと、なんと初めて八ヶ岳の一部がシルエット状で幻想的な姿を見せてくれた、感動。本当は行くはずだった横岳や硫黄岳がぼんやり見える。


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更に降りると、青空がどんどん広がる。これは日程を一日間違えたということだろう。要は長梅雨が明ける境目だったのだ。文三郎道はエスカレーター尾根というほか説明のしようもないところで、尾根の階段が終る頃に、一度足を階段の金網に引っ掛け転倒しそうになったが、瞬時に状況判断(?)、無理に踏みとどまらず、傍の這い松の上にふんわり受け止めてもらうことにして、優雅に倒れ込んだ(帰宅後ウェアに松脂の付着を発見)。

その頃から時間の余裕はないのだが、心のゆとりができて、顔を見せ始めた主峰赤岳の岸壁の荒々しさなどを眺めて楽しむ。

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 上の二つ目の画像、中央が本当は行くはずだった横岳(中央)と左のなだらかな傾斜の先、雲の中が硫黄岳。右端の急な傾斜が赤岳への登り。まさに梅雨明け直前の空。


今更ながら、好天の中を登りたかったが、もし、この八月の酷暑の中だったら、私は確実に一日目の登りで熱中症を起こしていただろう。「五里霧中」も考えよう一つかもしれない。雨と霧と低温が幸いしたともいえる。

山頂からあまり遠くなく、そして降りきらぬうちに姿を見せてくれた八ヶ岳の峰々は、「よく頑張りました」の褒美ではないかとすら思った青空と山々の姿だった。

次の画像は文三郎尾根から見下ろした行者小屋。

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「エスカレーター道」を下り樹林帯に入り、行者小屋に着いたのが12時ころ。健脚なら1時間半程らしき行程に、私は二時間半以上掛かっている。情けないというか、我ながら脚力体力の無さ、わが身の非力を痛感する。そして、この後、美濃戸までの最後の降りが気に掛りだした。

30分以内に昼食を済ませて降りようと思ったのだが、なんだかんだで気が付けば行者小屋の河原を出発したのが13時。一時間近く休んでしまったことになる。二日間の疲労もピークだったのかも知れない……と言っているうちは、まだよかった。美濃戸への降りは、行きに登った道で見当がついていたのだが、思った以上に長い。行けども行けども延々と降りる。体力の前に気力が萎えたといった感覚。歩くのが億劫になりだした。


帰宅後に調べ直したのだが、美濃戸←→行者小屋と、行者小屋←→赤岳山頂の距離と高度をそれぞれ比較すると、高低差は前者がやや大きく、距離も前者が遥かに長い、つまり、より大きい高低差の道を、急ではなくても、より長く延々と降らなくてはならないわけだ。しかも二日の行程の最後で、疲労が蓄積していることも考慮すべきだった。

それを、文三郎道へ行くつもりがなかった私は、出発前に調べることをサボっていた。それが災いしたというか、とにもかくにも「主峰赤岳に登った!」気分になったことと、危ない岩場と急降下の文三郎尾根を無事に降りて行者小屋まで辿り着いて、「さぁ、危険なところは終わったぞ」と少々気が抜けて、あとはなだらかな道を降っていくだけと、心のどこかで無意識に気が弛んだのだ。心のどこかでタカを括ったのだろう。


細かくは書かぬが、行けども行けども美濃戸には行きつかない。脚が相当にバテてきて、地面を踏みしめて降りを足早に歩くだけの筋力が残っていないのだ。速い人なら、1時間40分ほどで行者小屋から美濃戸まで行ってしまうらしい。事実、降り始めて直に私を追い抜いた屈強な若者たちの足取りは半分走っているようにすら感ぜられた。

河原沿いは気分も明るく、まだよいのだが、これが完全な樹林帯に入ると、気分が塞ぐ。沢の要所要所に掛けられた金属の支柱や手すりに板を敷いた安定した橋も、渡るたびに、これが最後だったよなと、自分に都合のよい思い込みをして、また、次々と現れる橋に失望、無意識のうちに思考が完全に負のスパイラルに入っていた。


で、漸く美濃戸に到着したのが、呆れたことに、ナント16時半! 行者小屋から、実に3時間半掛かっていた(涙) ルートマップの100分に対して、小休止のみで降りたにもかかわらず、210分掛かっている。ルートマップなどには休憩時間は入れていないにしても、倍を超えている。

二日続きで寝不足、全般に天候が悪くて気勢を削がれたにしても、そして幾ら疲労が溜まりに溜まって来ていたにしても、これでは、今後の山行が思い遣られるというか、今後の山行の可能性が狭まると考えざるを得ない。


負け惜しみに初めて書いておくが、子供の頃に股関節の病気で一年間右脚にギプスの生活――右脚が弱く、1センチほど短いというハンディがある。それでも一応はスキーもやれば水泳もやる。最初に書いたように若いころはあちこちの山にも登っていた。

しかし、70歳を越して、私の山行も最早ハイキングに切り替えた方がいいのかもしれない。

子供でも登る八ヶ岳――年寄りの私には「やっぱりキツかった八ヶ岳」――の恥ずかしながらの山行報告を以上で終わる……これから毎日ジョギングでもするか!? (するわけないな。)

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(その日は、どこかで夕食を取り、車で帰宅のつもりだったが、疲れた。ネットで宿を探し、なんと、白樺湖畔のペンションに空室を見つけオジイサン一人で宿泊!=部屋が空いているのもコロナのお陰か、感謝、感謝。相客は子供連れの若い夫婦二組、おばさん二人組、どういうわけか30歳くらいの男が所在無げに一人泊まっていた。山ではない、口など利くものか。)



# by dokudankoji | 2020-08-10 22:27 | 山行 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 09日

やはりキツかった八ヶ岳 その二(山小屋にて)

さて、2日目だが、その記録を始める前に、赤岳天望荘のことなど。(有難かったのは、開いていて泊まれたこともさることながら、スキー宿並みに乾燥室が完備、雨と汗に濡れたレインウェアからズボンやシャツまで、しっかりと乾かせたこと。)この山小屋の経営者は複数の山小屋を経営している。美濃戸にある美濃戸山荘、さらにその手前の美濃戸口にある八ヶ岳山荘、そして硫黄岳(赤岳・横岳の北方)からさらに北に行った夏沢峠にあるヒュッテ夏沢も経営しているらしい。

たまたま、前日の美濃戸山荘の食後に食堂のテレビで見たのだが、あちこちの山荘がコロナ騒動で閉鎖している中を、一人気を吐き(?)小屋を開けてくれている。そのおかげで今回の八ヶ岳登山も実行できたわけだが、それはさておき、スゴイのが、商魂逞しいのか、エライのか、やることが徹底している。天望荘で以前は15人入れていた相部屋を2段ベッドの配置を工夫して、10人に減らして「密」を避け、250人定員の小屋を今年は100人定員にしている。そして、(一日目にも書いたが)ベッドのシーツ、枕カバー、掛布団の襟カバーを全て毎日使い捨ての紙製で清潔を心がけたコロナ対策の徹底ぶり。ほかの小屋が閉鎖の中、さぞかし客を集めているかと思いきや、長梅雨とコロナで30日に関しては閑散としていた。

どのくらい閑散としていたかというと……コロナ対策で100人限定のところに、たった10人の宿泊客・・・。二人は60代半ばだろうか女性の2人組。そして若者5人組(男3・女2)――若者といっても、私から見たら二十歳ぐらいにしか見えぬが、多分、三人とも30歳に近いのではないか。あとは私も含め単独行の年配男性3人。一人はむっつりと機嫌の悪そうな80歳にも見えかねない(多分70代半ばになろうかという)男性。もう一人は気さくに声を掛けてくる60代後半と思しき男性、そして、御年72歳の私。

若者は全員茶髪系。中の一人(多分リーダー)は廊下や談話室でもにこやかに笑いかけてくれ、天気や、翌日の予定のコースの話題や天気予報のことなど、積極的に教えてくれるしっかり者。あとの4人が、声を掛けても知らん顔をしている中で、何の衒いも、構えるところもなく、大人びた対応をしてくれる。私なぞ、茶髪(金髪)であるだけで、若者を偏見で塗り固める偏屈爺さんだが、この茶髪のしっかり者、私の偏見を見事にひっくり返してくれた、人を見かけで判断してはなりませぬ……。翌朝の会話から察するに、この若者は八ヶ岳から近い住まいなのではないかと思われた。八ヶ岳には何度も来ているという。

そうだ、思い出した、天望荘に泊まった連中で、談話室に来た人、若者5人とオッサン二人。反省! マスクをしていたのは若者たち、オッサン二人は、山でマスクなんかしてられるか組なのだろう。少なくとも、私はそうだった、大いに、反省。

気さくに声を掛けてきた60代後半と判断した男性は、おそらく若い時から登山(またはスポーツ)をしてきたと察せられる。そして、60歳か65歳の定年を機に、多い時には週に一回近いペースで山に登っているらしい。今年の4月だか、残雪(といっても純白の世界)の谷川岳に娘を連れて、アイゼンを付けて行って来たと言って、スマホでキレイな画像を見せてくれた。

話しを戻すと、天望荘での夜は、美濃戸山荘での寝不足もあり、少しは眠れたが、それでも10時頃から3時頃まで、5時間ほどで目覚める。というのも、夜中からすさまじい風(風が吹き抜けるような尾根筋の小屋)で、その音と、窓に叩き付ける雨の音もあって目を覚ましてしまった。そのあとは眠ろうと思っても眠気もなく4時過ぎまで暗闇でまんじりともせずに待った感じ。前夜の消灯は9時ジャスト、全館真っ暗になるから後は自己責任にてヘッドランプで対応せよと言われ、9時が近づいたら、一瞬照明が消え再び点き、それが合図で、数秒後に完全なブラックアウト。そして、朝は闇の中で雨音を聴いていたら、4:30丁度に点灯。直ぐに服を着て、冷たい水道で顔を洗い、5時に食堂へ。

食事は美濃戸山荘も天望荘も、決してウマイものではない、というか、疲れていると唾液が出ない。(逆説的に?いうと、唾液が出るほどウマイ食事ではない。)当然ほとんどが冷凍されてヘリで空輸されるのだろう。味付けもなく、何のソースもかかってない鶏の腿肉、パサパサ一口呑み込むのがようやく。夕食も朝食も豚汁にご飯を放り込み掻き込んで食べるしかなかった。朝食など、それを二度お替りして腹ごしらえ。

食事の後、急いで荷物を片づけてザックに詰めたのはいいのだが、風も雨も止んでくれない。

そもそも、私は、本来の予定では、昨日のうちにこの小屋に到着したら、空身で赤岳を往復して、2日目の今日は北に縦走し、横岳の岩場やお花畑を楽しみつつ硫黄岳に至って、そこから赤岩ノ頭を通って赤岳鉱泉へ(下の地図、赤線)、そして出発地の美濃戸まで降りるはずだったのだが……。ここまで来て、八ヶ岳の主峰が目の前にある(はずだが霧で姿を拝めもせず)、登りもせずに北上するのか? 北上して横岳・硫黄岳と進むためには、(昨日の自分のペースから判断しても)赤岳を往復している時間はないと思わざるを得ない。やるなら、すぐにも出掛けなくてはならぬが、雨風に阻まれた。

いや、風雨にメゲた。昨日一日の登りで疲労もある程度溜まってもいる。しかも、また霧の中で何も見えぬルートを延々とやるのか思うと、登ってきたルートをすごすごと降りてしまいたくなる。文三郎尾根には行くつもりがなかったが、小屋の人々のところに行き、天候の変化の選択肢を問うと、それぞれに違う。メゲているなら、昨日登ってきて勘のある道を戻った方がいいかもしれないと言いう人もあれば、文三郎道を降りるのも面白いし、第一「赤岳に登らないのは、もったいないですよねぇ」という至極当然の意見もある。

実は文三郎尾根、延々と続くはずの急傾斜で一直線の下降は避けたいし、赤岳山頂から文三郎尾根までの岩場を降るのも億劫で、当初からそのルートは「忌避」して計画を立てていたのである。下の青線です。

やはりキツかった八ヶ岳 その二(山小屋にて)_d0007247_18441078.gif


談話室に戻ると、若者5人組は登る準備をして待機、雨の上がるのを待っている。昨日の予報ではもっと早くに酷い雨は上がりそうだったのだが、朝方まで残ってしまった。

談話室にはもう一人、例の愛想の良い男性もいた。その山好きの男もあまりの風雨に、出発をためらっているという。ただ、彼の迷いは、私とは大違い。出発のタイミングもさることながら、昨日、既に往復した赤岳にもう一度登って来てから、北へ横岳・硫黄岳と縦走するか、赤岳を諦めて直接北上するか、にあった。

私はあくまでもメゲて、「来た道降りたい、雨の登りはもうごめん」、赤岳を越えて文三郎尾根を降るとなると、尾根の下りが剣呑でもあるが、それよりも何よりも、赤岳頂上までの岩場と、そのあとの文三郎道に出るまでの、頂上から時計回りに捲くように降りていく岩場の危なさもあるしな、、、と、「もうどうでもいいや、やっぱりスゴスゴと来た道、か~えろ」の気分になりつつあった。

5時に朝メシ、荷物を作って談話室に来たのが6時過ぎだったろうか――既に一時間余りをその男性と今までに登った山の話をしたり、お互い、さて、どうします?と、同じ問いを繰り返すのみ。若者たちは7時頃だったろうか、雨と風の中を横岳硫黄岳の方面に北上するといって雨と強風の中を出て行った。

やがて男性が、やはり未練だと赤岳を空身で往復してから縦走路へ行くといって小屋を出て行った。なんのことはない、最後まで軟弱でメゲたままの私一人が取り残されたわけである。

そうなってみると、突然欲が出た。ここまで来て、しかも多分二度とここまで来ることは無いだろう、だのに、八ヶ岳に行ってピークを一つも登らず、尾根筋にある山小屋からスゴスゴ帰ったでは話にならんだろうが……。

決めた。赤岳に登る。危なくても登る。怖くても登る。すごすごと引き返して地蔵尾根を降る謂われはないだろうが! よっしゃ、通ったことのない道なんていっても、昨日一日通ったことない道を来たではないか。それなら、赤岳頂上からの岩場がどうであれ、文三郎尾根の下りが危なかろうが、その選択肢しかない、そうなると、直ぐにも出発した方がよかろうとばかり、小屋に挨拶して出かけたのが既に8時近くだった。雨風のためがあったとはいえ、人から笑われそうな優柔不断ぶり――この結論は見えていたはず。(ちなみに、この昨日からのこのコース、子供連れで登っている人もいるのです……。)(続く)



# by dokudankoji | 2020-08-09 18:40 | 山行 | Trackback | Comments(0)
2020年 08月 08日

やはりキツかった八ヶ岳 その一(1日目)

2020730日(木)

行程 一日目:美濃戸(1720m)―行者小屋(2345m)―地蔵ノ頭(2710m)―赤岳天望荘(270m・泊)

 山登りは母親の影響で小学の頃からあちこち連れて行かれた。南アルプスの鳳凰三山が最初の本格的な山行だったろうか。いや、その前に妙高山に行っていたと記憶する。

 高校時代は山岳部で、地の利というか、近くて便利だったので丹沢山塊は西部を除くとほとんどの峰も尾根も歩いている。夏合宿は南アルプスの白根三山が印象深い。というより、登りがキツかった。50年以上前の装備というと、ザックからテントから、何もかも重かった。それだけに稜線に出た時の爽快感は今でも忘れない。白根三山とは北岳・間ノ岳・農取岳を言うが、北岳は富士山に次ぐ日本で二番目に高い山。間ノ岳がいつの間にか三位になっているらしいが、多分この50年に隆起したのではないか。登った頃には、そんな話は聞かなかった。富士山は、やはりその山岳部時代の思い出で、参加希望者による夏休み中の登山のサポート役で、いざという時の余分の水などを担いで登っているから、日本の標高一位から三位まで制覇したことにしておく(?)

 高校を出てからはほとんど山には行かなくなったが、一度だけ大学院の頃、友人達と出来心で北アの雲の平まで行った。これもキツかったが、久しぶりの山行ということで、一月前からジョギングで鍛えた。それでも、キツかった。以後、忙しさもあったが、キツいことはやめて山は無縁のものとなっていた。

が、4年近く前、ちょっとしたきっかけで山行再開。以来、冬場を除いてあちこちに行っている。この八ヶ岳はその十九回目の山行である。

ただし、これもキツいことは避けて、車かロープウェイで登れるところまで登り、出来るだけ短く簡単なルートを周回してくるか、ピストンで元のところに戻るかという、かなりズルイ山行ばかりで。といっても、磐梯山、安達太良山、中央アルプスの宝剣岳・木曽駒ケ岳、至仏山などにも、一応は登っている。一方、菫を見たくて高尾山で気楽なハイキングをしたり、ということもあった。

 さて、今回の八ヶ岳――今年の異常気象など予測もできず、7月末なら、梅雨も明けているだろうとタカを括って山小屋の予約を早々と入れてしまった。実はここも、たいていの場合、一つ下の美濃戸口から歩く人が多いのだが……。これまた、少しでも楽をしようと、車がSUVであるのをいいことに、ラフロードをもうひと登りした美濃戸にある美濃戸山荘まで車で上がってしまった。(下の図、どなたかのブログだったかな、お借りしました、©などと仰らず、お許しあれ。)


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この美濃戸の標高がおよそ1700メートル――高校の頃、よく歩いた丹沢山塊はどの峰も精々1400メートルだから、関東圏の方なら丹沢山塊(大山が1200メートルほど)を眺めてそれより約300メートル高い中空に車で登ってしまっているところを想像すると、スゴイというか、中空に車を浮かべてみると、その高さといい、何やら面白くはあるまいか。(もっとも乗鞍にしても2千数百メートルのところまでスカイラインで行けるのだが。)

 この小屋と次の赤岳天望荘に関してはコース取りから都合の良い小屋を見つけて、電話で予約したのだが、これが後から知った幸運(両方とも同じ経営者の小屋)なのだが、コロナ騒ぎのお陰で、小屋数の多い八ヶ岳でも今どき営業している数少ない山小屋だった。というか、美濃戸山荘の夜のテレビで偶然やっていた番組で知ったのだが、山荘の持ち主が「山の文化を絶えさせたくない」と考えて敢えて閉鎖せずに頑張っているとのこと。シーツや枕カバー、布団の襟などは毎回替える使い捨ての紙のカバーという気の使いよう。おかげで宿泊客の立場としては、気持ちよく使えて有難かった。

 

ついでに書いておくが、この美濃戸山荘、その日は私一人・・・夜遅くに着く客がもう一人いるとのことだったが、小屋の人件費や電気代の方が高く付いたのではあるまいか・・・。(ちなみに、下山してきた時には、鍵が掛かり営業していなかったから、おそらく予約客が入っていなかったのだろう、それもこれもコロナと長梅雨のせいだろう。)

 で、その美濃戸を、(あまり眠れぬ一夜の後)朝食が6時なので、7時には出ようと思っていたら、相当の雨の降りよう、一時間近く小屋で様子を見たが、雨の止む気配もなく、ママヨとばかりにレインウェアで出発したのが8時前。しばらくは樹林帯の中を雨に打たれ、樹々から滴る水滴にウンザリしつつ二時間ほど歩くうちに、有難いことに雨もやみ、道も明るく広い河原沿いの道を徐々に高度を上げながら登って行く。何度か沢を渡渉しなくてはならず、長雨と前夜来の大雨のせいで増水していて、2カ所ほど渡渉に難儀というか、どこを渡るか迷いに迷った。幸い靴の中に水が入るような目にも合わず無事通過。

最後に渡渉箇所を選ぶのにウロウロした挙句に無事に広い河原状の沢を渡って、おそらく足の速い人の倍近い時間を掛けて行者小屋に辿り着いたのが12時を過ぎていた。速い連中はここを2時間半掛けずに来るというのに、私は見事に倍の時間をかけたわけで、大いに先が思いやられた。

ここからは急な尾根に取り付くため、小一時間の昼飯休憩とした。これも時間の掛け過ぎだが、出発しようとした矢先に、ほぼ土砂降り。雨の上がるのを待つこと20分だっただろうか。その日のうち、上の小屋に到着して、荷物を預けて、空身で赤岳(主峰・2899㍍)を往復するつもりの予定が大幅に狂った。上がらぬ空模様を恨んだ休憩となる・・・。

弁当は泊まった山小屋で作ってくれたもの。中華チマキだが、余り食欲ナシ。何とか最低限を食べて、行者小屋の手洗いを借り、雨のせいもあって、結局、出発は13:20。大袈裟だが落石に備えてここからヘルメット着用。

地蔵尾根の樹林帯を少し登ると徐々に傾斜が急になり、一時間ほど登ると岩稜帯に。ここからが大変。梯子や階段が設置されているので、ある意味安全だが、急傾斜、それなりに緊張する。と思っていると地蔵の頭が近づいたと思しきあたりからは完全な岩場。本来なら、画像を添付したかったのだが、スマホを出したり写したりするには、少々足場が不安定なのと、なにしろひどいガスで何も見えない、足許や目の前の岩(地面?)を写してもサマにならない――精々1015メートル先がぼんやりと見える程度で、自分が登っている道がどうなっていくのかも不明なうえに、周囲はまるで雲の中。

そんな状況で二度ばかり、ルートの選択に迷うこともあった。一度目はいわゆるクサリ場でクサリに従って行けばいいのだが、そのルートがかなり急傾斜な上に、朝からの雨や霧でかなり濡れていて、急傾斜は歩きたくないなと思ったところに、左の方にクサリとはだいぶ離れているがスリップの危険もなさそうな踏み跡が道になっている。そちらに進む誘惑にかられるが、進んだ先がどうなっているのか、これが深い霧のため全く見通しが利かない。迷った挙句、やはりクサリ場はクサリのあるところがルートなのだからと、そちらを信じて進む(結局それでよかったのだが)。

さて、その「難所」を通り過ぎて、少ししたら、一瞬きりが切れた時に右上前方に小屋が見える。間違いなく今日泊まる山小屋だ。あの高さまで、もうひと登りということは間違いない――が、今度は、上の尾根筋(地蔵の頭)までの、30メートル程は岩場をほぼ垂直に登って行くと思われる、結構厳しそうな岩場が待っていた。その岩場に幾つもルートが出来ていて、ここはもはやどのルートを選べばいいか全くわからないと同時に、どのルートでも尾根に出られそう……一瞬、浮かんだイメージは、5、6人の仲間が互いに「俺はこっちへ行く」「俺はあのルート」と競って幾つものルートを作ってしまった、とでも言いたくなるようなもので、それぞれのルートが、こっちへ来いと誘っているかのよう。

同時に、どのルートも先の方がは霧で見通しが利かない。ただ、問題は、どのルートでも私の体力と技量では「難所」と思われること。ここも、ママヨとばかりに登り易そうに見えたところを這い上がり、何とか無事に地蔵ノ頭に辿り着いた。

行者小屋からのこのコース、転落はもとより、滑落の危険性もほとんどないと感じたには違いないが、雨に濡れている足場と霧ゆえの見通しの悪さは、常に不安の種だった。自分の選択が間違っていないか、ルートを見失って身動きできぬ場所に出てしまいはしないか、気分的にキツかった。天候の良い時に登っていれば、先ずこんな不安を感じるようなところではない。見通しが利かないということが、どれだけ心理的に不安を感じさせるか、思い知らされた次第。

この地蔵ノ頭からは、尾根筋といっても岩場というより、比較的平坦な道を5分で、この日の宿、赤岳天望荘(美濃戸からおよそ1000m高い)に行ける。ほっとしているところへ、やはり単独行の登山者が通りがかり挨拶を交わす。その人物に頼んで写してもらった私の「雄姿」が以下の画像。顔は遊んでおきました(笑)


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で、本来なら、この日宿泊の天望荘にザックを置いて、空身で主峰赤岳の往復をする予定だったのだが、小屋到着が15:30を過ぎていたのと、まるで視界が利かず、しかも、赤岳への道も岩場で、往復少なくとも一時間半は掛かると思われ、無論、疲れていたこともあって、この日は諦める。

夕食は5時、消灯は9時。9時には小屋がすべての照明を落とすので、それまでに食事と、明日の作戦と、着替えや洗顔等々を済ませる。あとはヘッドランプを頼りに雑用を済ませて、眠れるわけのない時間に寝た!? 翌日の朝食が5時というから、とにかく布団に入る。

普段が夜更かし朝寝坊の私が、まだ宵の口に寝ろと言われても、たとえ前の美濃戸山荘で寝不足であろうが、9時消灯、翌日5時朝食など、どうやったって出来る芸当ではない。ここは明日のためにもと睡眠薬のお世話になって、それでも4時間余りは熟睡した。(続く)



# by dokudankoji | 2020-08-08 17:28 | 山行 | Trackback | Comments(0)
2020年 07月 28日

困ったもんだの外来種?

 庭のオクラに見慣れぬ蝶がとまっていた。最初に見た時にはアサギマダラ(浅黄斑)かと思いましたが、翅の下の方に赤い斑点があります。早速スマホをかざすと・・・アカボシゴマダラ(赤星胡麻斑)というのだそうです。これは人為的にこの国にもたらされたもので(北限として、奄美諸島での生息が確認されているそうですが)初めて見ました。

 

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 外来生物と言えば、植物では大嫌いなセイタカアワダチソウ(背高泡立草)。我が国の田舎の秋の風情を一変させたのは、もう40年も前でしょうか。実際に来日あそばしたのは明治の頃らしいのですが、それは植物園だか研究所だか忘れましたが、園芸用に限られていたそうで……それが、昭和になって急激に繁殖して、一時期は空き地という空き地に、東海道線などその線路沿いに延々と。とにかくけばけばしい黄色い花が、まさにその名の通り背高く波立つようにけばけばしく目に飛び込んできます。

 

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 昔の日本の秋といえば、ススキの穂が風にそよいで涼しげでしたよね。風情がありましたそれこそ日本の情趣、日本の秋でした。

 尤もそのセイタカアワダチソウ、一時期ほどの勢いはなくなったような気がするのは私一人の思い込みでしょうか。ご意見、ご感想、あったら、お聞かせください。

 そういえば、大御所の某シナリオライターの手になる連続ドラマで、戦前の田舎のあぜ道というか、風景のバックに、このセイタカアワチダソウが、見事に黄色く鮮やかに、それこそ画面いっぱいに咲いていましたっけ。作者が気が付いたか否か不明ですが、気が付いたらお怒り遊ばすタイプの方で、気性としてもお怒り遊ばすタイプの出来事。昭和の、しかも戦前には、まさに「籠の鳥」ならぬ、「垣の花」とでもいうか、観賞用として栽培されてなく、自然界にはなかった。愚生は戦後の生まれで田舎育ち、田んぼや山道が遊び場でしたが、セイタカアワダチソウの姿を見たことも無ければ、名前も知らなかった・・・意識したのが、どんなに早かったとしても、間違いなく平成の初め頃でした。垣根から戸外へと急激に広がる前に、徐々に領域を広げ始めたのは恐らく昭和の終わり頃だったのでしょう。

        

 だから、何だという話ですが、それだけのことです・・・ついでに、だから何だ、をもう一つ。ガビチョウ(画眉鳥)をご存じですか? これも外来種で、まさに字の通り、目の周りに眉を描いたような印象の白い筋があります。

       

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 私はこの記事では生物の名を意図的にカタカナ(漢字)で表記していますが、実は漢字派です。画眉鳥なんて、漢字だとそのままイメージが出来るでしょう。よく、お考え下さい。私が漢字を付けていなかったら、ガビチョウて鳥か蝶か判断つくでちょうか? (あるいはセイタカアワダチソウって、読みやすいですか? 意味が直ぐに分かりますか? 背高泡立草なら、読んで字の通り、背が高く泡立つがごとく波立つがごとく大ぶりの花茎を付ける、ご覧になった方は「なるほど」と思うはず。この記事を読んで、「あ、あれが背高泡立草なのか」と思った方もいらっしゃるかもしれない。)

 画眉鳥に話を戻します。鳴き声を聴いた方、いらっしゃるでしょうか。これは一度聞くと面白い。尤も、外来種で、ペットが逃げ出したか放鳥されたかで許せないと怒る人も中にはいますが、放たれてしまったものは、もはやどうしようもない・・・。怒る人は、その鳴き声にまでケチを付けるのです、啼き声がウルサイと仰る。

私にはこの鳴き声が面白くて仕方ないのです。なんだか陽気な幼児が舌っ足らずに意味のない音を陽気に発声しているようなさえずりで愉快です。時に、鴬(ウグイス)や沓手鳥(ホトトギス)の鳴きまねまでしてくれます。それがまた完ぺきではなく舌足らずで、愛嬌がある。本人(本鳥?)には何のつもりもないのでしょうが、自然に真似する個体と、全然真似しないで本来の(?)啼き方をする個体といろいろです。延々と囀り続けるので、関東圏ではよく聞きますので、ちょっと郊外に出た折には春から夏にかけて耳を澄ませていると運よく聞けるかもしれません。(いや、都会でも雑木の多いところでは啼いているかも? 経験のある方は是非コメントを。)

 ここに、啼き声の動画を入れたかったのですが、私の「技術」では(今日は時間もないし)今のところ、添付出来なかった。Youtubeで簡単に検索できます、幾つも出てますので、。啼き声、聴いてみてください。

 と、まぁ、今日はそれだけの話ですが。外来種にケチを付ける人にケチを付けるつもりで書いたのではありません(ケチ付けてるか・笑)。と、まぁ、それだけの話。

 いや、それだけで終わらせては詰まらないですね――外来種が日本の生態系を荒らすという大きな問題があります、それは確かですよね? となるとですよ、コロナ禍でグローバリゼーションは息の根を止められたかもしれませんが、それはさておいて――「人間」という「種」においても、日本で外来種が日本の生態系を荒らすということは、ある・・・のでしょうか!? どなたか、御教示願いたい。


 (注とお詫び:アカボシゴマダラ以外の画像はネット上の画像を拝借してますが、どなたのものと説明はつけませんでした。著作権もあるかもしれませんが、ここはどうかお見逃しを! こうして人口に膾炙することでよしとお考え頂きたい。何卒よろしくお願い申します!)



# by dokudankoji | 2020-07-28 11:07 | 自然 | Trackback | Comments(0)
2020年 07月 12日

武漢ウィルス(俗にいう新型コロナウィルス)に思う

 隔月刊の雑誌『表現者クライテリオン』の増刊号(別冊?)にこのウィルスに纏わるエッセイを書いた。発売は近々のことと思うが、丸ごと一冊「新型コロナウィルス特集号」のようなものらしい。雑誌のことはともあれ、重複になる恐れはあるが、私がこの問題に絡んで最近思うところを書いてみたい。

 実は76日付の産経新聞の「正論」欄に阿川尚之氏が書いたエッセイに触発されて、という言い方もできる。というか、氏の考え方が私に似ているのに、「ああ、やっぱり同じ世代だな」と感慨を深くしたこともある。氏の書かれたことを詳述するつもりはないが、自分の思っていることに触れつつ、氏の言葉も引用していくことになろう。

 今回の出来事で私が一番考えたのは、「死」についてということになる。このウィルスの不気味なところは、あらゆることが「未知」だという、憂鬱になるような現実ではあるまいか。最悪は「死」に至る病だということ。殊に高齢者で基礎疾患がある者は重症化や死の可能性が高いという。私もわずかではあるが高血圧と言われている。自分では基礎疾患などとは認識していなかったが、娘に言わせると十分に「有資格者」らしい。

 もう一つ、私がイヤだなと思うのは、この疫病、仮に治癒しても、呼吸の苦しさや味覚障害が残る場合があるというところ。しかも、これなどは若者にも起こりうる症例だという。必ずとは言えなくとも、そういう後遺症の症例が、事実、あるというのは気持ちのいいものではない。

 そして・・・日々更新される感染者数を眺めていても、どこかヒトゴトと思うところもあったのだが、先日(79日)知人が濃厚接触者と判断されてPCR検査を受けたと聞いた。結果は陰性で事なきを得たのだが、ジワリと包囲網を狭められた気分になったのも半面の真理と言えなくもない。

 ワクチンの開発と普及には、未だ道遠し。確実な治療薬も勿論存在しない。罹患した場合、症例もまちまち。「敵さん」がどこに潜んでいるか、全く手掛かりはない。こうなっては、人々が過度の不安に捉われるのも尤もだろう。

 しかし、欧米のパンデミックの状況からすると、我が国の「民度」の高さゆえか「ファクターX」故か全く不明だが(おそらく総合的なものなのだろう)、現段階(7月上旬)の感染者と死者を見ると、見ようによっては、故山本夏彦翁に「何故あっての大騒ぎ?」とでも笑われかねない。

 阿川氏の「正論」から孫引きをさせてもらう。日本人の年間死亡者数(年間):癌=374千人、心疾患=20万8千人、老衰、脳血管疾患、肺炎、それぞれ=10万人前後、交通事故=4千人(昔はこれが2万、3万人台だった……)。現在の我が国の死者数を見る限り、比較にならぬではないか。となると、この数ヶ月のメディアを筆頭にしての大騒ぎは一体何事か、ということになりはしまいか。

 氏の言葉を借りれば、「コロナ後の世界が大きく変わるとしても、変わらない、変えてはいけないこともあるはずだ。世の中が変化に対応しようと前のめりになっているのには、多少違和感がある。」 その通りだろう。キャッチフレーズになってしまった「新しい日常」にしても、率先してやらねばならぬことでも、是が非でもやらねばならぬことでもあるまい。精々が、前から既にあったオンライン会議などオンラインが頻繁になると言ったことに過ぎず、人間の生き方の本質が「新しく」なろうはずもない。

 私の知人は、テレワークが定着して、子供二人が家で仕事をしている、二人とも良き伴侶に巡り合う機会がいよいよ減ってしまったと嘆いている。これなどは、或いは「新しい異常」かもしれない。しかし、それを言うなら、仲人が当たり前だった時代にはありもしなった「婚活サイト」なるものが、コロナ以前から世を賑やかしているではないか。そういう意味では人間は、太古の昔から常に「新しい日常」を生み出し、徐々に変化し、変質し続けてきた。

そして、本質はおそらく変わらない。いや、変わらないから本質と呼ぶのであって、人間はその普遍の本質に基いて生きてきたのではないか。「新しい本質」などというものは勿論存在しない。

 慌てることは無い、変化していく世の中を、一歩下がって眺めてから自分の進むべき方向を見つけるのも、一つの生き方に相違ないと思う。阿川氏の言の通り、「前のめり」になる事は少しもない。

 ところで、その本質の最も核になるのは何か。おそらく、それこそが「死」の「存在」であろう。人は死ぬ。みんな死ぬ。人類も、生きとし生けるものすべてが平等に「神」から与えられているのが、生あるものは必ず死ぬという運命である。そこにおいてのみ、人類はすべて平等なのだ。「いや、苦しんで死ぬのと何の苦しみもなく大往生を遂げるのは圧倒的に違う、若くして死ぬのと人生を謳歌して後に老いて死ぬのも違うではないか」と言う人もいるかもしれない。が、それは死に付随する諸々の事象に囚われているにすぎず、「死」という一点においては全ての人間が迎える「死」が、「死」という一個の同じ概念であることに変りはない。

 阿川氏は、それをこう書いている。「人が突然感染して死んでしまうという点でコロナは衝撃的であるが、死は本来平等に訪れる。歳をとれば順番に死ぬ。この認識が古来日本人の死生観、宗教観を形成してきた」と。その通りだろうし、衝撃的ではない死など殆どないと言ってよい。年老いた親の年相応の大往生でも、「死」という現実が我々に突きつける衝撃は変わらないと思う。

 ふと、ハムレットのせりふを思い出した――「一羽の雀が落ちるのも神の摂理。来るべきものは、今来なくとも、いずれは来る――いま来れば、あとには来ない――あとに来なければ、いま来るだけのこと――肝心なのは覚悟だ。」(福田恆存訳)――レイアーティーズとの御前試合の前にホレイショーに語る言葉だ。

 そう、必ず、いつか一度は訪れるもの、万人に等し並みに訪れるのが、この「死」というやつなのだ。とすると、病であれ、事故であれ、いかなる原因によるものであれ、実は何も変りはないのではないか。

 その事実を意の腑に落ちるように納得できていれば、今般の疫病に対しても、もう少し我々は冷静になれるのではあるまいか。突然の未知の事態の到来に慌てふためくのも当然ではあるが、もうそろそろ、冷静にこの事態に対処してもよい時期なのではあるまいか。

 阿川氏は先のエッセイの最後を、「コロナが原因であってもなくても先に逝く我々には、コロナ以後の社会を担う若い世代に、希望と勇気と力を与える責任がある」と結んでいる。名言である。ただ、私には、その「責任」をいかなる形で果たせばよいのか、今はまだ見えない。今はただ、その若い世代を信頼してこの国を託す、と言うほかない。

(付記:私がタイトルに「武漢ウィルス」としたのには、それなりの考えがある。皆さんは「スペイン風邪」という名称をご存じだろう。そして、多くの方はこれがスペインに発生したインフルエンザと思っていらっしゃらないだろうか。そうではない、発生源は不明。第一次大戦中の世界的パンデミックの中で大流行や罹患者を公正に報道したのがスペインで、そのため「スペイン風邪」という不名誉な名前を付けられた。

 が、今次の疫病は、明らかに武漢発の、しかも中国の隠蔽ゆえのパンデミックである、「武漢ウィルス」もしくは「武漢肺炎」と呼ぶべきと考えている。)



# by dokudankoji | 2020-07-12 14:10 | 生か、死か、それが問題だ | Trackback | Comments(0)
2020年 06月 25日

メジロの置き土産

四月初旬のことだったろうか、風が異様に強い日だったが、犬の散歩の折、生活道路ではあるが二台の車が余裕をもって擦れ違える道端を歩いていた。前方から車が来た。比較的広い道路にしてもスピードの出し過ぎだと感じられた。その車が私の横を通り過ぎる刹那、路の反対側の雑木から二羽のメジロが飛び立ち、道を横切った。

先の一羽は高く舞い上がった。遅れた一羽が普通なら考えられない軌跡を描いた。その日の強風に抑え付けられたのだろう、飛び立った枝より低く舞い降りるような弧を描いてしまったのだ。私の真横で、車はコツッという音を残して走り去り、路の向こう側にメジロが落ちていた。

思わず駆け寄り拾い上げた小動物は温かかった、外傷はないものの、半分開けた片方の目に血が滲み、嘴をぱくぱくさせ、片脚を藻掻かせ続ける。助からぬことは一目で分かるが、何か手当はできないものかと、私はあたふたとその場から家に引き返しつつ、「死ぬな、死ぬな」と心に繰り返した。普段から庭に設えた餌場に来る小鳥を眺めるのが好きな私は、時の経過の感覚を失っていた。一瞬の後か数分の時が過ぎたのか憶えていないが、メジロの嘴と脚の動きが止まる、気のせいか目もさらに閉じられた気がした、その瞬間からそれこそ急激に小鳥の体温が失われていった。

私は自分の掌の中で冷たくなっていく小鳥の、偶発的かつ突然の「死」を受け止めきれずにいた。「死」というものに、この時ほど衝撃を受けたことは、この三十年程なかった。ただ、それだけの話だが、このメジロの死のリアリティを超える死を最近私は経験していない。

  *       *       *

もう半世紀近く前のこと、父方の祖母が家の廊下で倒れ、意識を失つた。寝たままの祖母に付き添ったり、祖母を病院に入れるか、家で看病するか、これは主に両親が喧嘩腰で議論していた。父は病院に任せるといい、母は自分が面倒を見ると言い張る。私には二人の思うところが痛いほど分かった、どちらの味方もしかねた。どちらにも、理があった。

三日が経過、祖母は下顎呼吸を始めた・・・もう、誰も何も言わなかった。いよいよという時、掛かり付けの医者を呼び、待つ間、私は祖母の右手を握って脈を確かめていた。まだ医者が到着せぬうちのことだったが、その脈が痙攣のような微妙な乱れを見せたかと思うと、すぅーっと弱っていき、止まった。その時の感触をメジロが思い出させてくれた。

そして、三十年程前に父を病院で見送った折、やはり父の右手を握っていた。この時は最後の脈は医者が確認したが、その前後の父の顔や目から生気が失われていくさまも、まざまざと思い出した。たかだか一羽の小さなメジロだが、私には有難い置き土産をして立ち去ったわけだ。

今、メジロは私の仕事場の先の庭で草花に囲まれて眠っている。猫が掘り返したりせぬように、墓石代わりとも思って、我が家の石灯篭から天辺の擬宝珠を失敬して、置いてある。



# by dokudankoji | 2020-06-25 16:40 | 生か、死か、それが問題だ | Trackback | Comments(0)
2020年 06月 23日

他人事と自分事・・・

 以前書いていたブログ(福田逸の「独断と偏見」)で、丁度10年前に「他人事とは思へぬ!」(2010・06・15)という記事を書いている。ほとんどの記事は外から見えぬようになっているが、これを含めて幾つか読めるようにしてある。できれば、ここから先を読む前に、その10年前の6月の記事を読んでいただきたい。

 ここでは他人事の読みは「ヒトゴト」であって、「タニンゴト」ではないという前提で話を進める。

 言葉の乱れ・混乱は恐ろしい。もはや、「他人事」の読みに文句を付けている場合ではないのかもしれない――というか、時代も言葉も劣化の一途、私がブログで何を書こうと2000%(!)無意味という状況なのだろう。というのも――

 「他人事」問題を越えて、今や「自分事」問題が発生している。私が何を言おうとしているか、お判りだろうか。分からない方々に、私は一種の「絶望」を感じるとともに、この国の(「我が国」などと呼べるものか、という気分)、そう、この「にほん」とやらの国語教育の荒廃のなれの果て、行きついた姿が「自分事」なのだ。

 ここまでで「自分事」って何? と思った方がいてくれるなら、涙が出るほどうれしい、と申し上げておく。そうではなくて、「他人事」の反対に自分の事を意味してるんでしょ、と思った方とは・・・・・・

 要は「ジブンゴト」などという言葉はなかったということ。小学館日本国語大辞典の第一版にも第二版にも広辞苑にも掲載はない。つまり、ごく最近使われ出した言葉だということである。いったい、どうして、そんな言葉が出現したか。以下、私の推論を書く。

 おそらく、「ヒトゴト」を耳ではなく文字から「タニンゴト」と読んだ人がいて、その仲間がウィルスのように増殖した。やがて、漢字で「他人事」という文字列に接するうちに、誰かの脳内に漢字の「自分事」という文字列が浮かんで、「ヒトゴト」の反対語として、「ワガコト」ではなく「ジブンゴト」と発音して使う「先進的」な「先駆者」が現れたのではないか。

 それを耳にした誰彼が無意識に(ウィルスは無意識に拡散される!)「ジブンゴト」と口にする。そして、今や、多くの人は「ジブンゴト」と耳にしても、違和を感じない。いや、違和感を感じないというより、言葉に関する感性や繊細さを育てたり学だりする機会に恵まれなかったのかもしれない。

 先日、何の媒体か忘れたが「自分ごと」という表記すら目にした。こうなると確信犯であろう。こう表記した心理(?)は、おそらく次のようなものではないか。つまり、「他人事」を「タニンゴト」だと100%思い込んだ人物が、その反対語を使おうとした時、「他人←→自分」と考え、「他人事」があるから、当然「自分事」も使える、使っていいと決め込んだのだろう。しかも、(おそらく何か引っかかって)「自分事」とはせずに、「こと」を平仮名表記にしたのではあるまいか。

 言葉は自分勝手に使うものではない。日本の歴史が育んだ日本の言葉は自分一人のものではない。今一時代のものではない。我々の父祖が我々に引き継いでくれたものであり、我々はそれを次世代に、子孫に毀たずにそっと渡していかねばならない。今のように、乱暴に、ぞんざいに言葉を扱っていると、やがて我々は「日本人同士」でも意思の疎通ができなくなる、そういう時代を生み出すだろう。あるいは、我々は既にそういう時代のただ中に佇んでいるのかもしれない・・・。

 「自分事」などという自分勝手な言葉をでっち上げなくとも、我々は「己がこと」あるいは「わがこと」という、まともな言葉を使っていた。「わがこと」なら、「我が国」にも「我が家」にも「我が友」にも「我が意」にも、「我が儘」にも(!)繋がる意識を持てるではないか。「己がこと」なら「己がじし」や「己がでに」を忘れぬためのよすがにさえなろうが。

 ふと、思う。こんなことを書いて、結局は多くの読者をイヤな気分にさせるのではないかと――それならそれまでのこと、私には私に書けることしか書けない。読者の気持ちはヒトゴトとして、我関せずと言っても許される年齢ではないかと思う日々を過ごしている。

 (追記)お気づきの方もあろうが、今回、ブログ再開に際して、現代仮名遣いを使っている。思うところあっての「実験」なのだが、そのうち「正仮名遣い」に戻すかもしれない。その方が時間の短縮にもなれば、思考の混乱も少なくなるのだが……取りあえず。



# by dokudankoji | 2020-06-23 17:09 | 言葉、言葉、言葉、 | Trackback | Comments(0)
2020年 06月 19日

ブログ再開に当たって

 「独断と偏見」のタイトルでこのブログを書いていたのが、平成17年(2005)3月から平成25年(2013)7月まで――その後、諸々の事情で時間が取れなくなり、自然消滅的に書かなくなってしまった。 

 それからほぼ七年の歳月が過ぎ、私の身辺にもそれなりの変化があった。当然、七歳、歳をとったわけだが、一番大きな変化といえば、やはり芝居・演劇の世界から足を洗い、すっかり遠ざかったことだろう。「足を洗った」については、いつか書くこともあるかもしれないが、それはともかく、その後、他人様(ひとさま)の舞台もとんと見なくなった。歌舞伎からも遠ざかった(これは、近年、時たまに観るようにもなったが、このコロナ騒ぎで二月に玉三郎・仁左衛門の『道明寺』を見たのが最後。その時も、既に東京の街や劇場の密集に、何となく緊張していたが。)

 また、三年前に『父・福田恆存』を上梓したことも自分に大きな変化をもたらしたような気がする。あの本、というか、父の晩年の衰えに纏わる、父と私の愛憎半ばする葛藤を書き連ねるのは、その愛憎と葛藤を再体験することに他ならず、原稿を書き終えゲラの校正を終えて出版する頃には、私は抜け殻とまではいわぬが、大袈裟だが人生でやることはすべてやり尽くしてしまった気分に襲われ、何もする気が起こらなくもなっていたに等しい。知盛ではないが、「為すべき程の事は、為しぬ」で、「今は呆けん」というところだった。

 もう一つ、大きな変化と言えば、一昨年の春(平成30年3月末)で明治大学を定年退職したことだろう。退職して思った。30年近く私ごときを雇ってくれた明治大学には感謝しかないということ。ゼミなどで学生と接するのは実に面白い。こちらが学ぶことも多いし、変化していく社会を、その場その時にまざまざと体感できる。その機会を失ったことは、何とも無念……。  

 とは言い条、自分が縛られている人間関係や事柄から、ある意味で完全に解き放たれるということは、一方で、なんとも痛快なことではあった。なんといっても、時間が――何ものにも拘束されず――いわば「無限」にあって、しかも、そのほとんどの時間が自分の自由になる。何をしていても、どこからも文句は来ない。といって、この二年余り、何か充実した仕事をしたというわけではなく、退職した時、自分に課したことといえば「何もしないこと」、それだけだった。この「目標」はほぼ「達成」したが、その間、用件や仕事がらみで人に会うこともあまりなく、会うとすれば、単なる雑談や久闊を叙するための酒席だけに限った。 

 しかし、それも徐々に減らし、私が結局「戻って」行ったのは読書の世界だった。大したものを読んでいるわけではないが、目についたもの、知人から贈られた新刊、たまには月刊誌に載った(滅多にないが)この人の文章なら是非、といったものばかりである。しかし、それもどこか物足りなく、これからは古典と呼ぶにふさわしいものを、系統立てたりせず、目に触れたもの、思いついたものから読んでいこうかと考えている。三月から一月余りで『カラマーゾフの兄弟』を読んだ、その前が『ゴリオ爺さん』。今、頭に浮かんでいる候補は、読み止しになっている「古事記」。そして、一年余り前に再読した「ソクラテスの弁明」「クリトン」に続いて、未読の「パイドン」も近々手に取るつもりでいる。それと、東西を問わず未読の小説や近現代の思想書辺りだろうか。 

 というような次第で、読書に比重が掛かると、一方で、自分の中から発散・発信もしたくなる。もっとも、これは読書した「から」というより、生まれつきかもしれないが、おしゃべり・喋りたがりの私には常に自分から外に向かって発信・発言をしたいとう「欲求」とでもいうようなものがあるらしく、この三年近く、その種のことから離れていて、徐々にその「欲望」が「肥大」してきたようである。勿論、小さな原稿依頼などは幾つかあったが、自分から書きたいことだけを勝手に書くという方が性に合っているというか、何より、自由でいい。自分の言いたいことを、言いたいことだけを、何ものにも捉われずに書いてみたい。 

 ならば、ということで、このブログを改めて「発信」の場として、再開しようと思ったわけである。以前の「独断と偏見」時代と似たものになるのか、まったく別のものになるのか、始めて見なければ分からない。同じ人間のやること、まぁ、同じようなものになるのが落ちかもしれない。ただ、空白の七年の歳月が私にもたらした変化も、僅かながらあるのではないかと思う。それは、私自身にとっても興味津々のところではある。文体・テーマもアレコレ試行錯誤を重ねたいと思っている。  

 この半年の新型コロナウィルス騒ぎは、もはや、どうでもいい。何か書くかもしれぬが、余りにも「通俗的」ではないか、と白けている次第。第二波が来ようが自分が死のうが、コロナ騒ぎは、もう古い、もはや、どうでもいいといった感覚である。  

 以上、ブログ再開に当たっての御挨拶代わり、乞御期待!? (次回更新、いつになるやら、それは期待なさらぬよう・・・。)


# by dokudankoji | 2020-06-19 11:18 | 日常雑感 | Trackback | Comments(0)
2012年 12月 10日

「絶対」と「孤独」――幕の降りたあとに 

 まづは現代演劇協会主催公演『明暗』にお出で下さつた方々に御礼申し上げる。とはいへ、このブログを訪れる方でお出で頂けたのはごく限られた方だらうと思ひ、公演のパンフレットに書いた「演出ノート」をここに載せておく。会場にお出での方を前提にしてはゐるが、そのまま掲載。(なほ、これを書いたのは十一月の六日の夜と記憶する。)以下、転載。

**************************************

 この「明暗」といふ戯曲を私は今までに何度読んだことだらう。上演の可能性を探るため、あるいは文藝春秋社から刊行された福田恆存戯曲全集編纂に携はつた時、この三十年ほどの間に折に触れて読んだが、今回の上演に関る以前に、既におそらく十回を超えてゐるのではないか。

 そして、「詩劇」と銘打たれたこの作品に紡がれてゐる言葉の美しさ、逞しさ、繊細なそして時に凝りに凝つた言ひ回しに、いつも心惹かれ、酔はされた。俳優に挑戦してくる、まるで日本語を破壊しかねないフレージングと、いつか格闘してみたいと漠然とだが思つてゐた。従つてこの生誕百年記念に何を取り上げるか考へた時、私は躊躇ふことなくこの作品を選んだ。選んで、夏前に稽古の準備に入り本格的に読み直し、正直慌てた。自分の頭の中にほぼ組み立てられてゐると思ひこんでゐた構図の陰に何かが見え隠れする。そのちらつきが気になりだして、私は戸惑ひ混乱した。考へてゐた以上に曖昧な科白も多い。そこからの私の格闘はさておいて――

 この戯曲を観客の前に提示する時、作り手の私たちがまづもつて留意すべきことは、この戯曲のサスペンス劇としての側面を絶対に失つてはならないといふことだらう。起承転結を踏まへた四幕の構成の鮮やかさも印象付けられねばならないし、スリリングな筋の運びに、いささかの遅滞があつても舞台は失敗する。潔癖と言つてよいほど完璧な科白術と演技、リズムとテンポ、それらが劇的サスペンスを支へて運ぶ。それを生の役者の肉体を通して具体化しなくてはならない――

 今もし幕の開く前にこれをお読みなら、ここまででこの雑文を読むのをお止めになつて、取敢へずはサスペンス劇とその物語の展開に身を委ね、存分に楽しんでて頂くのも一法かもしれない。後は幕の閉じた後、帰宅の途次あるいは帰宅なさつてから、読んで頂いた方が良いかもしれない。

 さう、戯曲の主題だとか作者の意図などは、実は「観劇」といふ行為とは無縁だ、恐らく福田恆存自身がさう考へてゐるに違ひない。私もまた、芝居を観るのにテーマだ主題だと、野暮なことは言ひなさんなと思つてゐるし、さういふ近代以降の「トリヴィアリズム」も「教養主義」も好きにはなれない。が、この作品を本気で読み込みだすと、サスペンス的な構成だけでは、舞台を造り上げる芯が足りず、そこに福田恆存がおそらく生涯抱へてゐた最大のテーマを読み取らざるを得なくなつたといふのが、この夏以来の私の戸惑ひなのだ。お前、気が付くのが遅いと言はれるかもしれぬが、十六年前の劇団昴による再演の舞台にも、その主題の問題はちらとも感じ取れなかつた。文学座の初演がどうであつたのかは知る由もない。が、実は、私はそれすらも疑つてゐる。

 さて、では作者がこの戯曲を書く時、何を考へてゐたのか、主題に据えたものは何か。キーワードは「道徳」。さらに言へば、「日本人の道徳観を支へ、その道徳を要請=強要してくるものは何か」といふテーマを恆存は考へてゐるのだ。昭和二十八年からの一年に亙る米英滞在と、殊に英国でのシェイクスピア劇体験が恆存に与へた影響はここではおそらく計り知れないものとならう。シェイクスピア劇に立ち現れる無数の背徳、それを描いたカトリック的なシェイクスピア――恆存は考へる、西欧の世界、キリスト教の世界には、人々に道徳を要請=強要する背後に、つまり、物事の是非善悪を規定する背後に神が存在する、と。では、日本人に背徳と道徳の別を要請するのは世間態なのか法律なのか、日本人にとつて西欧の神に代はるものは存在するのか、と(玉川大学出版部刊『福田恆存対談・座談集』第七巻収録の「現代人の可能性」参照)。

 確かに、日本民族は西洋的な意味での信仰も宗教も持たない。さうだとすると、我々の道徳心はどこから来るのか、世間態や法律などは持ち出す意味すらなからう。「明暗」の主題とは関連のないところでだが、恆存は「いつそのこと日本はキリスト教(信仰)も持ち込んでしまへばよかつた」とも言ひ、また晩年「最近は汎神論のことを考えたい」と言つてゐたともいふ。疑ひもなく恆存は自己存在の根底に据ゑるべき宗教を探し求めてゐたと言つてよからう。

 これらのことを頭において「明暗」を読み返すと、「罰の下らぬ世界」とか「なにもいはなかつた女のうへに下された罰」といつた科白が気になり始める。過去が現在を規定する世界の、その過去の出来事が現在を破滅させるといふ構図が、背徳に対して下される罰を浮かび上がらせる。不義密通を犯した人々がすべて劇中で死ぬ。いや、犯した人々のうち、それを罪と感じた人々には死が待ち受けてゐる。そして、幕切れでは、その背徳を黙つて見てゐるばかりで何も言へず行動もできなかつた杉子と祥枝は現在に立ち竦み、過去の沈黙へと遡及する。一方、背徳の世界に反逆した洋子にも未来が開けてゐるわけではない、あるとすれば、現在の自分の孤独のみであらう。

 神を求めるものは自己を神の前に晒さざるを得ぬ、従つて孤独に直面する。耐へる耐へられぬという言葉の埒外にある孤独のみが孤独と呼ぶに値するのだらうが、この孤独こそがおそらく「明暗」の作者が生涯抱へてゐたものに違ひない。幕切れの洋子に作者の姿を思ひ浮かべるのは演出家の読み込み過ぎだらうか。

 日本人の道徳の背後にあるのは何か、作者が抱いたこの疑問は平成の時代を生きる私たちが抱へてゐる命題でもあるのではないか。そこに、絶対を見てしまつた時、我々は恆存と同じ孤独を見据ゑずにはゐられないのではないのか。

# by dokudankoji | 2012-12-10 22:49 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
2012年 08月 08日

上方の言葉に思ふ

 政治家と文化・芸術について書いた7月31日の記事に「くゎんさい人」さんから≪住大夫師匠は、「が」と「ぐゎ」の発音を区別できる、純粋上方弁の遣い手としても人間国宝なんです。早くお元気になりますように。≫といふコメントを頂いたので、こちらに移して簡単に書く。

 福田恆存が確か『私の國語教室』の中で、かう言ふことを書いてゐた。「新仮名遣い」が決められた時、上方の知人が、≪なぜ「扇ぐ」を「アオグ」と書かなくてはいけないのか、なぜ「アフグ」と書いてはいけないのか、私は実際に「アフグ」と言つてゐるのに≫と歎いてゐたと。

 新仮名を違和感なく使つてゐる皆さんに、ここで一先づ立ち止まつて考へて頂きたい。フとオの表記の違ひだけではない。扇子でアフグ行為を「アオグ」と表記し、「扇」は「オオギ」と表記する。これが現代仮名遣ひだが、「フ」・「オ」の問題だけではなく、同じ語なのに品詞が変ると、最初の一音が「ア」から「オ」に変つてしまふことにお気づきだらうか。名詞の時は「オ」で、動詞になると「ア」になるのはドウシテか説明できる方はゐるのだらうか。(目が「潤む」のが、名詞になったら目の「ウルミ」ではなく「オルミ」とでもするやうなもの。名詞の「扇」も書き言葉としてアフギと書いて、発音する時は音便が生じ「オオギ・オーギ」に似た発音をするだけのことで、地方によつてはそのままアフギ・アフグと発音するといふことである。)

 今でも住大夫師匠ならずとも、上方にはこの種の語感は残つてゐる。実は八月の初めに大阪の文楽劇場へ行つた。師匠が休演になる前に切符を買つてあり新幹線も予約してあつたので、三味線野澤錦糸や住大夫の弟子達に会つて話しを聞いて来ようと思つたこともあり、大阪まで行つたら京都に寄る癖がつき、宿も取つてあつたからだが、住大夫休演の文楽の味気なさを存分に味ははせてもらつた。橋下徹のお陰と思つてゐる。同時に、やはり、文楽協会がその役割を果たしてゐないことも確かで、住大夫の病の発端が協会にもあることを確信した次第だが、これは横道。

 さて、京都に移動して、馴染みのHといふ祇園の「飲み屋」(「お茶屋」ではないのでかう書いておく)に行つた。ここの主人が芸達者といふか、祇園の名物男、三味線を弾きながら都々逸・小唄・端唄に清元、義太夫から、歌舞伎のセリフまで何でもござれ。事実、歌舞伎の役者や芸者たちが教へを乞ひに来るほどの腕前なのだが、たまたまその日、上七軒(五花街の一つ)の料理屋の旦那が二人連れで、芸者を二人伴つてやつて来た。

 その旦那の一人に店の主人Hが端唄「青柳」を催促、その旦那が「青柳ぃの~」と唄ひ始めた途端に、Hが三味線の手を止めてかう言つた。≪「アオヤギ」ぢやない、「アヲ」(「アウォ」)。「アオ」ゆうたら「あほ」に聞こえる。≫件の旦那、不愉快な顔一つ見せず「アヲヤギノ」と唄ひ直してゐた。つまり、京都にはまだ、本来の発音が残つてをり、青は「アヲ」と発音するのが当然と考へる人々がゐるといふことだ。(もちろん歴史的仮名遣ひでは青は「アヲ」と書く。)

 仮名遣ひとは単に表記法の問題ではない。今なほ、発音の問題としても考へなくてはならないといふ例が目の前にある、そのことに私は驚くといふか感動に近い思ひを抱いた。店の主人も客の旦那も、仮名遣ひのことなど毛ほども頭に浮かんでゐないだらう。ただ、正しい姿、本来の姿はどうかといふ基準が物事にはあるのだといふ常識があるだけであらう。直す主人が主人なら、受けて学ぶ旦那も旦那、見上げたものと感心して、さほど上手くはないその端唄に聴き惚れた。

 ちよいと、「粋」な話をお読みいただいたが、後は蘊蓄。「青柳」には端唄のほかに小唄でも「青柳の糸より」といふものがある。両方の歌詞を上げておく。端唄は「青柳の影に 誰やらゐるわいな 人ぢやござんせぬ 朧月夜の え~影法師」、この後、色々な替へ歌がある。小唄の方は―― 

 青柳の糸より 胸のむすぼれて
 もつれてとけぬ 恋のなぞ
 三日月ならぬ酔月の
 うちの敷居も高くなり
 女心のつきつめた
 思案のほかの無分別
 大川端へ流す浮名え~

 こちらの方は、明治に実際にあつた事件が元になつてゐる。その頃、評判の刃傷沙汰、この事件をもとに幾つかの戯曲が書かれた。川口松太郎も昭和十年に『明治一代女』といふ芝居を新派のために書いてゐる。

 ある遊女が、成り行きで恨んだ男(遊女の惚れた歌舞伎役者の付き人)に、(その付き人が持ち主になつてしまつた)自分の勤めてゐた茶屋(酔月楼といつた)に出入りを禁じられ、その男を大川端で出刃包丁で刺した。「うちの敷居も高くなり」とは出入り禁止のこと、「つきつめた」は包丁で突き刺したこと、と解して読むと小唄の情緒も増すだらう。

# by dokudankoji | 2012-08-08 20:52 | 言葉、言葉、言葉、 | Trackback | Comments(0)
2012年 04月 23日

明治天皇観漁記念碑~その2

 一月に数葉の写真と共にかういふ記事を書いた。まづご覧いただきたい。明治天皇が江戸にお上り(お下り!?)の途次、大磯の海辺で漁師たちの仕事をご覧になられた経緯を記した記念碑。
最近訪れた折に写した写真を載せる。
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 緑が美しい季節だが、この通り、既にススキが繁り始め、荒れ果てた姿を晒してゐる。そして、ススキが秋にどれほど美しい風情を見せてくれようとも、「雑草」としての逞しさはこの通り凄まじいものがある。以下、四枚、台座の石組を破壊し敷石を持ちあげる、その逞しさには美しさなぞ微塵もない。
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 ところが、ふと気が付いたのだが、一枚目の写真をよく見て頂きたい、明らかに人が掘り起こしススキを根こそぎ取り除いた跡が窺へる。以前にはこんなことはなかつた。また、専門の造園業者や重機を入れての作業だつたら、もつと徹底してやるはずだ。しかも、
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 記念碑から少し離れた場所には、明らかに人が他の樹の根を残して、ススキだけ取り除いたと思はれる一角があるのだ。これには参つた。どなたか分からぬが、恐らくは大磯の住人が少しでもと、手入れをし始めたのではと推察する。黙つて一株のススキを抜くことの方が、かうしてブログなどを書くことより大事に思へてくる。尤も、私が一月に書いた記事が切つ掛けになつて、どなたかが「蟷螂の斧」と思ひつつ除草したのなら、ブログの意味もあつたのかもしれない。

 あちこちに手を広げ過ぎの私にどれ程の時間が取れるか、偉さうなことは言へぬが時間を見つけて、一株でも二株でも、ススキの根を私も抜かう。五月の晴れた日、自宅にゐたら、一日でも二日でも鍬とスコップを担いで王城山に登らう。と、心に決めた私だが、在宅の日で晴れる日がどれほどあるか、あつてもすぐメゲル自分への戒めのつもりで、以上記しておく、タイトルも備忘録なのだから。

 なほ、この記念碑は前に書いた通り安田善次郎が建てたものだが、恐らくこの山の南側はいまでも所有は変つてゐないのではないかと思はれる。記念碑のある頂上へ至る道のところどころに地蔵や布袋様等があるが、これらも安田家が建立したものと私は推測してゐる。一年に一度旧安田邸として公開される別荘は、私たちが子供のころ、当時の富士銀行の寮として海水浴に来る行員(?)の保養所として使用されてゐた。

 今ではいかめしく門を閉ざし、少しでも無断で入らうものなら守衛(?)だか管理人だかに咎められる。以前は、正倉院を模した校倉造の倉のほとりの桜を楽しみ、池で蛙の卵やお玉杓子を捕まへて楽しんだし、内門と外門の間は殆ど子供の遊び場と化してゐた。小学生の頃ちよつとしたソフトボールをした記憶もある。

 私の記憶はさておき、町の観光協会にでも聞けば山の所有者や管理者も分かるのだらうか。管理が町だつたら、はつきり言つて絶望的。わが日本国と同じ、増税しても歳入歳出の帳尻が合はないこと、火を見るより明らか。また、文化や歴史には全くの興味も理解もないこともこの国と同じであることは保証しておく。大磯町の町長・町議・お役人、このブログ読みなさい! で――先程からこの駄文を書きながら、明治安田生命や町のホームページを見たりしてゐるのだが、今のところ管理等については全く分からない。町に聞く気も起らないといふのが一町民の正直な感想。自然を守るなぞと人聞きのいい団体はあるが、ご覧のとおりの体たらく、私は信頼してゐない。

 と、イカッテみたところで、面白いブログや(とんでもない)写真を見つけた。絵葉書のやうだが、まづはこの写真を。
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 大げさだが少々ショックを受けてゐる。記念碑の前には私の記憶にある限り、つまりおよそ六十年近く、東屋もベンチもなかつた。こんなに広々としてもゐなかつた。おそらく樹木が生い繁る前だつたことと、それこそ手入れが行き届いてゐたからだらう。

 大正時代の絵葉書だらうか。今に時間をスライドして考へるとよく分かる気がする。平成の時代に先帝・昭和天皇の行幸の碑があつたら、幾らなんでも、例へ大磯町の如き人非人ならぬ町非町であつても、もうすこし手入れをしてゐるだらう。といふことは、昭和記念公園も何も、あと百年もすれば……さうは考へたくはない。

 それにしても、碑を囲む石柵がどうであつたか、私の写真と見比べて頂ければ、私が二度もこのことを話題にしたくなる気持ちも分かつて頂けようといふもの。

 この絵葉書(小千畳と書いてある)を載せてゐるブログは「言葉に恋して 温故知新。」。いいブログを見つけた。もう一つ、寝ぼけてゐても歩ける私の散歩道を「命からがら」下つた方の記事がこちら。大分悪い印象をこの方はお持ちのやうだが、頂上への直近のルートを登らず別の自動車も通るルートを登つて、直近ルートを下らうとすると、これは道が段々狭く険しくなる印象には違ひなく、命からがらと言う不安な気持ちも分かる気がする。しかし、高々百メートルもない山なのだがな。(山で遭難したら、降らずに登れといふ、いはば鉄則がある、山が深ければ深いほど下り出したらどこへ向かふか分からないが、登れば必ず尾根筋や山頂に出る、そこには必ず人の通る道があるはず~エベレストなどもこの範疇かどうかは自己責任でどうぞ。)

 う~む。この二つのブログ等々を見ては明日にでも鍬とスコップを持つて……いやいや、明日は、幸か不幸か一日雨とのこと……。明後日は関西方面に出張つてゐるし……。

# by dokudankoji | 2012-04-23 00:52 | 日常雑感 | Trackback | Comments(5)
2012年 04月 17日

尖閣諸島

 石原都知事が、尖閣諸島(の一部?)を都が買ひ上げると言つたさうだが、私自身、よくぞやりました、といふ気持ちが大いにある。

 だが、一つ、気になる。外務省や民主党に何の期待も持つてはゐない私でも、「一応」沖縄県に属する土地を他の都道府県が「買ふ」と、そこは沖縄県なのか、他府県なのか、そこにはなんら法的齟齬はないのだらうか。そも、沖縄県にはかういふ発想はなかつたのだらうか? どうですか、仲井眞知事?

 沖ノ鳥島や尖閣諸島に(できるなら竹島や北方領土にも)自衛隊の駐留可能な施設を作つてしまへといふ乱暴な意見の持ち主の私であるから、一義的には石原支持なのだが、何だかピンと来ないので、備忘のために記しておく。法律に詳しい方の教へを乞ひたし。

# by dokudankoji | 2012-04-17 16:46 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 02日

承前(その3)~『世相を斬る』≪ドイツ編≫

 グスタフ・フォスといふ名前を記憶していらつしやる方は今の時代にどれ程ゐるだらうか。私と同じ団塊の世代までだらうか。神奈川の栄光学園の初代校長で後に理事長を務めたドイツ人であり、栄光学園を育てた教育者、神父である。1933年に来日し、一度米国に留学、戦後再び来日(1990年逝去)。

 そのフォス神父と教育評論家の鈴木重信と恆存との鼎談「日本の教育・七不思議」も是非、現代の親たちに読んで欲しくて『世相を斬る』に収録した。これなど、文字通りそのまま現在の教育論、親論になる。例によつて引用を中心に記しておく。主にフォス神父の言葉であるが。

 ≪教育は明治の時代から政治のために利用され、場合によっては悪用されてきた。物質的に考えれば、その結果日本は近代化に成功しました。わずか百年の間に、あれほどの成績をあげたというのは、やはり人類の歴史上初めてだったと思います。しかし日本人はそこでずっと背伸びしてきたわけですから、例えばヨーロッパ文明の裏にある精神的なものを考える余裕がなかったのと同時に、日本の伝統的な文化に対しても関心を持たなくなってしまった。戦前は伝統的な価値がまだあったけれど、戦後になりますと、修身もダメ、教育勅語もダメということで、近代化に役立った物質的な考え方だけが残ったわけです。そういうところに入ってきた米国の民主主義は、あたかも一つの道徳、あるいは贋(にせ)宗教であるかのように信じられたということではないでしょうか。≫

 これに応じて、少し先で恆存が、「戦後教育では、国家意識を否定しなければ西洋流にならないというふうに思ったことは事実でしょう。国家を戦前の軍国主義と混同してしまって、国家という概念は古くて危険なものだというわけです」と応へる。昭和54年の鼎談だが、うんざりするほど、現代の発言だとしてもをかしくない。爾来30年余り、日本の伝統的文化は衰滅の一途を辿つて来たことは誰の目にも明らかだらう。

 この国では未だに国歌斉唱や国旗掲揚に纏はる議論が喧しいが、フォス神父に言はせれば、「私は今までいろんな国を歩きまわったけれど、国旗掲揚しない国は一つもない。ソ連だって当たり前のこととして揚げます。それとおかしいのは、例えば今、日本の高校の教科課程をみますと、国史という科目は自由選択です。取らなくてもよろしい。こんなことがあっていいのでしょうか(中略)米国なんか、私はカリフォルニアにいましたが、米国史を教え、またその州の歴史も教えます」と、つまり、自国の歴史は強制的にたたきこんで当然だといふわけだ(もちろん、自虐史観ではなく。私なんぞ、自分の国の歴史は思い切り美化してよいと思つてゐる!)。

 この国旗掲揚の話は、フォス神父が初代校長だつた昭和24年に高松宮殿下が栄光学園をお訪ねになられた時のエピソードとして語られるのだが、そのいきさつを鈴木氏が少し詳しく説明してゐる。

 ≪国旗を掲揚する、「君が代」を歌わせるということをフォス校長が言われたとき、職員会議で日本人の職員が難色を示した。占領下の今そんなことをすれば問題が起るというわけです。するとドイツ人である校長が、日本人の教育をやるのに国旗を揚げ国家を歌って何が悪いかと言って、非常な勇断をもっておやりになった。ところが、高松宮がみえるというので臨席していたデッカーという、横須賀に駐在していたアメリカの海軍司令官が、今の妙なる調べは何だという質問をしたわけです。あれが「君が代」という日本の国歌だと言うと、実に荘厳な立派な音楽だといって賞賛した。そして沢山の列席者の中で戦後久しく聞かなかった「君が代」を聞き、日の丸を見て一番感動して泣いたのが日本人の父親たちだった。日本人がやるべきことをドイツ人のフォスさんがやって、日本人が泣き、アメリカ人が感激した。これは象徴的な出来事ですよ。国家とか国旗とか言うと何か犯罪であるかのような意識が戦後ずっと、あったけれど、国歌を考えないところに一体民主主義はあり得るのだろうか。≫

 さう、今でも国歌や国旗が犯罪だとでも言はんばかりの言説が巷に流布され、大きな声で「君が代」を歌へる日本人は殆どゐない。爽快ですぞ、高らかに「君が代」を斉唱すると……。

 サッカー選手が君が代を歌つたとかなんとか言ふが、私に言はせれば、あの連中、まるで腰が引けてゐる。恰も正に罪悪ででもあるかのやうに、心もとない顔で口をもごもごさせてゐるだけ。その気が引ける分を誤魔化すのだらうか、左胸の日の丸(のつもりか)、あるいは日本サッカー協会のシンボル・マーク、八咫烏(やたがらす)のワッペンに敬意を表したやうな恰好で、左胸に手を当てたりシャツを掴んだり。実にすつきりしない。スポーツ選手だらうが、もつと正々堂々としろぃ、と言ひながら私はテレビでサッカー観戦をしてゐる。

 ついでに、大相撲の優勝力士、5年ばかり日本人が出てゐないのだから仕方がないが、日本人が優勝した時にはマイクから聞こえるくらゐの声で君が代を歌へ、お前の優勝を寿いでゐるのだぞ、国技の勝者よ。さもなくば、そろそろ国技の看板を下ろしたがよからう。と、言葉も荒く苛立つたところで、少々恥ぢながら(?)フォス神父の言葉に戻る。

 ≪言葉というのは心を育てるのです。ですから国語を軽んじれば、やはり日本の心というのは死んでしまうのです。≫

 心にしみる言葉だとは思ひませぬか。このフォス神父の言葉は国を守るといふ文脈で語られるが、前後の出席者の発言を並べる。「伝統を尊重することこそ、国民の教育として大事」「自分の国を尊重することができない人間に、よその国を尊敬したり尊重したりできるか」「自分は日本人だから日本が好きなのだという素朴な気持ちにどうしてなれないのか」「愛国心というのは結局自国の言葉を愛すること」等々。

 これらのことを自明のことと思へぬ人間が政治の世界にゐることが私には理解できない。教養とか知性とか、そんな大げさな理窟ではなく、素朴な市井の人間の感覚こそかくあるべきでもあらうし、逆説的に言へば、市井の人々にこそ知性も教養も備わつてゐるのだと私は思ひたい。それを破壊したのが戦後教育であり、国語政策であり、その結果、鈴木氏に「4、50年前の文学作品を読めないような国語教育をどこの国がやっているだろうか」と言はしめる。

 最後に鼎談の締めくくりになるフォス神父の言葉を引用する。

 ≪……子供の権利だ、権利だと騒がれるけれど、一般に日本では一つだけ権利が守られていない。それは子供には叱られる権利があるということです。≫

 この重み、如何ですか。フォス神父の著書「日本の父へ」は今や絶版ではあるが、ネットで古本を入手できる。子育てに悩む親世代に是非読んで頂きたい良書である。良書といふより、道標にすらなるのではないか、新潮文庫だつたと思ふが復刊を望む。

# by dokudankoji | 2012-02-02 18:42 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 01日

承前(その2)~『世相を斬る』から―大韓民国編

 昭和56年12月号の「Voice」に掲載された対談だが、相手は国会議員、申相楚(シン ソウソ)。ちなみに対談のタイトルは「日韓両国民への直言――相互嫌悪をどう越えるか」。当時のかの国の人々は皆、日本語はぺらぺら、そして複雑な気持ちを抱きつつも、私の付き合つたかぎり大の親日家が多かつた。申氏とは会ひ損なひましたが、氏も親日家の筆頭と思はれます。今からおよそ30年前、敗戦からおよそ35年後の言葉として噛みしめて下さい。

 申氏の言葉。≪私が痛感するのは、現在の日本があまりに平和に慣れすぎて国家の体をなしていないということです。「これでも国家だろうか」と私はしばしば思うんです。先年日本へまいりました時、京都産業大学を訪れたところ、学長がおっしゃったのですよ。「うちの大学は、祝日には日の丸を公然と掲げることを誇りにしております」とね。そんなこと、あたりまえじゃないでしょうか。わが国では、国旗はどこの学校でも毎日掲揚しております。教室の中にも、黒板の上に国旗があります。日本の国旗を日本の大学で掲揚する、そのあまりにもあたりまえな事をやるのが、どうして「誇り」なんでしょうか。国家のシンボルとしては、国旗のほかにもう一つ国歌がありますが、日本人は国歌を歌わないようですね、戦争アレルギーの一つなんでしょうが、全く不可解ですね。≫

 いかがですか、ただ「耳が痛い」といふ外ないとは思ひませんか? 今もつて何も変つていない。さらに氏は続けてかうおつしやる。

 ≪もう一つ不思議なのは、現代の国家は、要するに武力を独占している集団でしょう、ところが、日本は実際に武力を持っていながら、持っていないということになっている。日本国の憲法を見れば「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」と書いてあって、それが国家成立の前提になっていますが、目下地球上には、公正と信義を信じられるような国家よりも、そうでない国家のほうが多いんだから、国家成立の前提自体がなっておらないと思う。少なくとも、武装しているということを公然と言えないような国家は国家ではない、と思いますね。≫

 耳が痛いのを通り越して、屈辱すら覚えませんか? しかも、30年後の今も何一つ状況は変化してゐない。

 昨日ブログで紹介したアメリカの記者にしても、この韓国の国会議員にしても、我々日本人よりも遥かに日本のことが好きなのではないかとすら思へるのです。好きだからゆゑの苦言直言ではないでせうか。そしてこれが正論でせう。否定、反論のしようがない。

 申氏の言葉を続けます。恆存が、日本ではソ連は脅威なりや否やの議論をしてゐるが、韓国では「北朝鮮は脅威か否かなんて議論やっていないでしょう」と水を向けたのに対して――

 ≪いやあ、ああいうバカな議論はやらんですな。あす攻めてくるか、あさって攻めてくるか、それが問題なのですから、脅威か脅威でないかなどということは誰も問題にしておりません。ところが日本は、平和に慣れすぎているために、そんな空疎な議論をやっているんじゃないでしょうか。ソ連軍に北海道ぐらい占領されたら、目が覚めるのでしょうが、そういうことがない限りは、まず駄目ではないかと思いますね。≫

 溜息が出ます。外国の人にここまで言はせてしまふ我が国はなんなのでせう。いや、これは昔の話で今は違ふとは言へないのが更に情けない、さうは思ひませんか? 尖閣問題・竹島・北方領土……全て奪はれても何も言へない、何も出来ないのがこの国なのです。北海道を奪はれ、沖縄までシナに食指を伸ばされても、恐らく「目が覚める」ことはないのでせう。

 ついでに更に辛い申氏の発言。≪……福田信之さんは西ドイツの例をひいて、「西ドイツの成長率がいまや鈍っているのは、西ドイツ人が勤勉に働かなくなってしまったためだ」とおっしゃったのですが、日本人だって今後もずっと勤勉でありつづける保証はどこにもない。生活水準が現在以上に上がって怠慢になってしまう、そういうことも考えられるでしょう。≫

 ここまで言はれると、かへつて清々しい。バブルに呆け、その後の20年余りも呆けに呆け、自堕落な歴史を刻んだ私達には申氏に返す言葉もありません。予言などといふものではない、まさに申氏は日本人をよく見抜いてゐたのでせう。この言葉に応へて、恆存がかう言つてゐます、≪日本人はね、これまでのような高度成長はできないとしても、経済的繁栄はこのまま永久につづくと思い込んでいるんですよ。≫

 自戒の念を込めて、わたしはこれらの言葉が当時30代の私に向けられてゐたのだと、今はさう思ひ、いや、今はそれがよく分かるのです。私たち団塊の世代の責任は大きい。戦後の「明るい」青春を謳歌したのも、少子高齢化社会を招いたのも、結局は国家と時代の歴史の必然かもしれませんが、今60代半ばになる団塊の世代こそ、その歴史を刻むのに最も手を貸したのではないでせうか。「友愛」とか「市民」などという、「美しい」言葉に踊つた人々ではないでせうか。

 最後に恆存の発言を一つ。≪申さんたちの世代が日本語を話すのは、日本が昔、それを強制したからですね。申さんたちの世代の責任じゃないんだ、それは。けれども、さっきおっしゃったように、日本語を話せる世代には知恵がありますよ。日本の悪い面もよい面もよく知っているはずだ。その知恵や知識を活用するのは、韓国にとってよいことじゃないですか。若い連中があまり偏狭なナショナリズムにとらわれていると、韓国のためを思って何かしようと思っている日本人までが愛想づかしをしてしまう。そういう話を私は最近あちこちで聞くんですよ。これは困ったことだと思いますね。
申 それはもう、私もよく分かっております。
福田 日本人の全てが悪人であるはずもないし、韓国人のすべてがいい人間であるはずもない……≫

 私は申氏の世代とも、さらに若い世代とも30年のスパンで演劇交流をしました。ノスタルジーに過ぎませんが、日本語を「強制された」世代の方たちとの交流がどれほど暖かみがあつたことか。日本への愛着、信頼、私個人への友情、仕事が終つて帰国時の別れともなると、彼らのやさしさに涙の出る思ひでした。それを、現代に引き継げなかつたのは、それを演劇の世界から外に広げられなかつたのは、やはり、これも時代と歴史の必然なのでせうか。古き良き時代を思ひ返しては、時に暗澹たる思ひに浸る今日この頃です。

# by dokudankoji | 2012-02-01 18:44 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 31日

承前~『世相を斬る』より

 この対談集第4巻は、フジテレビで放映された『世相を斬る』を中心に編纂したが、その中に昭和52年の暮れにワシントンで録画し、翌年3月12日に放映された、ニューヨーク・タイムズ記者・デヴィッド・バインダーとの対談がある。バインダーの発言が歯切れよい。

≪……私が言いたいのは、軍国主義の危険や軍国主義体制、軍国主義的冒険が過去においてもたらした不幸と悲劇に対して、日本人がどれほど敏感であろうとも、またそれらの復活をいかに恐れていようとも、だからといって日本を防衛するのはごめんだ、と言い張ったり、兵器と名のつくものには触れるのもいやだ、あらゆる国から完全に中立でやっていくのだ、と言っているだけでは、完全な人間にはなれないし、完全な国家とは言えないと思うのです。
 しかし、自分を守ろうという心構えは、攻撃されたとき、反撃するための軍備があってこそ、初めて効果を発揮するわけですが、自分の国が直面する危険には軍事力で対応する以外に方法はない、と考えて軍備の増強をはかり、その負担で押しつぶされるようであってはならないと思います。つまり、私が言いたいのは、大人の分別を持った国民であれば、当然自分の国を守ろうとするだろうということ。≫

 耳が痛いといふか、いはゆる政治家のつもりでゐる今の(民主・自民を問はぬ)議員に「耳の穴をかつぽじつて、よく聴け! バインダーの爪の垢でも煎じて飲め!」と言ひたくならないか。続けて彼は、かうも言ふ。

 ≪やがて日本も、現在以上の防衛責任を担い得る国になるだろうと思います。もちろん、多くの日本人はこれ以上の防衛力増強は危険だと言うかもしれません。が、これは外から私たちがとやかく言うべき問題ではなく、結局日本人が自ら決定すべき問題なのです。≫

 この言葉、味はひ深い。対談から35年ほど経つた今、日本はどれ程の「防衛責任を担い」、「分別ある国民として自分の国を守ろうと」してゐるだらうか。そして、引用の終はりをよく読んで、私達はそれを噛みしめるべきであらう。バインダーは決して、アメリカ人の自分達は何か言ふ立場にない、権利はないなどと、謙虚な態度を示してゐるのではない、「結局日本人が自ら決定すべき問題なの」だといふ最後の言葉、背筋がゾッとする冷たい言葉であることにお気づきだらうか……。誠実かつ冷厳な言葉、冷酷な言葉でもある。

# by dokudankoji | 2012-01-31 17:04 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 29日

『世相を斬る』からの会話~そして私の妄言

 恆存対談集の第4巻(1月刊)にフジテレビの『世相を斬る』シリーズでの対談を収録。その相手の一人が勝田吉太郎。氏との対談のタイトルは「幻想の平和」。その中の勝田氏の言葉を引く。

 ≪勝田 いい意味でも悪い意味でも、戦争にはヒロイズムがありますね。それを、日本の今日の平和というのを考えるときに、僕はいつも思うのですけどね。どんな代償を払っても平和をほんとうに求めようとするのかどうかということですね。極端に言いますと、日本列島がフィンランド化してソ連の事実上の衛星国になっても、奴隷の平和も平和だと思い定めて、そういう平和を甘受するのかどうかということですね(中略)先ほど、平和というのは一つの目的化してしまったと言いましたけれど、本来ならば平和というのは何らかの目的を実現するための条件あるいは手段であるにもかかわらず、肝心かなめの目的がどこかへ行っちゃったのですよ。その目的がちゃんとあれば、人間は生き生きするはずですよ。自分の生を賭け、あるいは死を賭してでも守ろうとする価値あるいは生き甲斐、それがどこかへ消え失せているものですから、それで平和が目的自体になってしまって、精神がだらんと伸び切っているということですねえ。≫

 上のソ連を中国に置き換へると、我が国が今おかれてゐる状況そのものではあるまいか。そして、後半の目的そのものと化した平和に私達が何の疑問も抱いてゐないとすれば、思考の停止以外の何ものでもない。戦争自体には破壊・勝利・平和といふ「目的」があり得る。では、平和自体は何のために? そして、勝田氏の言ふ「死を賭してでも守ろうとする価値あるいは生き甲斐」とは? 

 家庭なり社会なり、あるいは国家なり、自分が属する集団の安寧を平和と呼ぶとすれば、それが世界平和に通ずるか否かは知らぬが、その安寧のために自分の命を捨てられるか、それを考へないと「精神がだらんと伸び切っている」と言はれてしまふのだらう。

 ついでに、もう一人、元警視総監で当時の参議院議員だつた秦野章との対談のタイトルは「ハイジャックと人命」。その対談の終りの所から。

 ≪福田 そうですね。「国民」という言葉すらこのごろあまり使わない。
秦野 あんまり使わない。市民なんだ。社会なんだ。国家とか国民とかいうのはいけない。
福田 あれは戦前にはあったけれど、今は亡くなっちゃったと思ってるからね。(笑)
秦野 だけど、ほんとうに国家のない社会ってありっこないでしょう。そこを考えないといけないんだけれども、やっぱり……。
福田 そういう国家、国民がなくなって、市民と社会になったというの、これは赤軍と同じで、戦後教育は世界革命を考えてるんじゃないですかね。
秦野 赤軍と同じだな。原理的にはね。しかしそれはアナーキーですわな。無政府主義や。
福田 ええ、困ったもんですね。
秦野 困ったもんですよ。≫

 これは昭和52年の秋の放送。30数年前、さういへば丁度鳩山由紀夫や菅直人が出て来たころにならう。「世界革命」といふよりは中国への隷属を「平和」と勘違ひした市民派の姿が浮かぶ。「国家のない社会」、国民ではない「市民」など「ありっこない」、さういふしかない、それが通じぬなら、後は「困ったもんだ」といふ他ないのだらうか。

 もう一つ、昭和53年8月放送の福田信之、当時の筑波大学副学長との対談、「日本の資源と原子力の平和利用」。

 ≪福田(信) ……私も戦争中、原爆研究に従事していました。当時はほんとに原爆を造れるかどうかの基礎研究をやろうというわけでやってたわけです。私は主として濃縮ウラン――百パーセントの濃縮ウランを造りますと原爆ができることはわかっていたのですが、これは大変難しい技術でしてね、ほんとに日夜やってました。まあ、日本は片手間の研究であり、アメリカは国力の相当部分をさいてやってたという差はあります。
 あの当時の雰囲気からいいまして、もし日本で原爆製造に成功していれば、また今日の技術をもってすれば十分成功したでしょうけれど、もし造っていれば当然、原子力を使ったろうと思います。けれども、福田さんがおっしゃるように、なにか自分の傷を見せながら世界じゅうに「俺はこんな傷を受けたんだ」と言っても――ほんとうに世界の人がどう受け止めているかというのを日本人は知らないのではないでしょうか。≫

 覚えておくべきこと。一、日本も原爆を作らうとしてゐたといふこと。二、造つてゐれば使つてゐたであらうこと。この第二の点は幾ら強調してもし過ぎることはない。人間は自分の生み出したものを使はないわけがないといふこと、これ程分かりやすい現実もないのだが。

 尤も、私には、そのことより上の引用部の最後が甚だ興味深い。「俺はこんなに傷を受けたんだ」といふいやらしい精神。自分を弱者の立場において、いや、それどころか相手を加害者の立場において、加害者を吊るし上げる、あの被害者面ほど不愉快なものはない。そこには人生を生きる上での宿命への思索がない、思想がない。

 被害者が加害者を糾弾するほど「容易」なことはない。誰もその行動を非難しようがない、出来ようはずがない、さういふ立場に自分を置いてしまふほど「強い」ことはない。現代に充ち満ちてゐる、この精神構造、どなたもお気づきのはずだ。殊に、加害者がもともと強いと世間一般が決めて掛かつてゐる存在が、弱小な存在や個人に被害を与へた場合となつたら、世間が一斉にその加害者たる強者を袋叩きにする。公害しかり、アメリカの核しかり。戦後の進歩派メディアの報道は、ほぼこの類型と思つて間違ひない――教訓:負けたくなければ、常に弱者たれ。

 さて、上の対談だが、上の発言に続けて、恆存さんも信之さんも福島の事故を体験した我々からすると、かなり暢気な発言をしてゐる、と思ふと、突然信之さんがかう言ひだす。

 ≪原子力でをたくさん開発すると廃棄物が残って、それは千年もたつと危険が生ずるというけれど、千年後に人類が生きているかどうかさえ分からない。今世紀から来世紀にかけていかに生きるかということを考えているのだし、技術は長足の進歩を遂げていますからね。そりゃ百年単位、千年単位でいいますと、まだ解決しなければいけない問題ありますよ。それはまた我々の子孫がどんどんやりますよ。≫

 「千年後に人類が生きているかどうかさえ分からない」――核さへ存在しなければ人類は永遠だなどと誰が保証してくれるのだらう。上の発言の「健全さ」が分からぬと、恐らく「弱者」の立場を取るしかなくなる。連帯だ友愛だと美しい言葉で、人間同士の相対の中でしかものを考へなければ、それもよからう。が、人知を超えた未知の出来事が起こり得るのがこの世の習い、その未知の出来事を、それはそれとして受け止める覚悟(諦めでも勿論構はぬ)がなくて、どうして生きていけよう。気軽に「死」といふが、これ程の未知の出来事はない。核による死と、天寿を全うした死と、更に我々人類が経験したことのない出来事による死と、私には一つのものとして扱ふしか術がない。

 脱原発への道を日本が歩むのか否か、私は知らない。私に分かつてゐるのは、人類は、なかんづく日本人は遠くない将来原発もその再処理もねぢ伏せるであらうといふこと。しかし、それよりも確かなことは、身も蓋もない言ひ方をするが、ねぢ伏せることが出来ようと出来まいと、人類はやがて滅亡するであらうといふこと。

 ここまでは実は、昨年の暮れに書いた。今附け加えることも余りないが、対談集は既に書店に並んでゐる。

 原発について。私はどうしても騒ぐ気になれないし、恐いとも問題だとも思へない。これは直観に過ぎないから、何ともこれ以上書きやうもないが、子供の頃、放射能の雨が降るのなんのとメディアに騒がれ、子供心になんだか不安だつた。でも、その後何も起こらなかつた。はげになると言はれたが、日本にはげが増えたといふ統計も聞かない。

隣国シナでは楼蘭の辺りの核実験で十万単位の死者を出し、しかも当時日本にストロンチウムが散々降り注いださうで、これは福島の比ではないらしいが(もちろん福島の方が遥かに値は低いといふ意味)、このストロンチウムの害も、どうといふこともないらしい。

 どこだかのアパートのコンクリートがセシウムで汚染されてゐたのなんのとヒステリックに騒ぐ前に、誰でもよい、真実を教へて頂きたい。私は、ヒステリーを起こしたり原発反対と叫ぶのは、真実が分かつてからにする。分かりもしないこと、メディアが取り上げることに一喜一憂するほど私は暇でもなければ、メディアを信頼するほど純情可憐でもない。

 最近、産経新聞に長辻象平が書いてゐたCO2の値の方が、間違ひなく(そんなものがあるとしてだが)「人類の脅威」だらう。福田信之のいふ如く、千年後に人類は生きてゐるのだらうか。生きてゐたとして、そのことにどういふ意味があるのか。どなたか教へて頂きたい。まあ、シェイクスピアもハムレットに人間賛歌のごとき言葉を喋らせてはゐるが、といつて、やはり私は、人類が滅亡することがどれだけ深刻な問題なのか、想像する能力を持ち合はせてゐないやうだ。そんなことを想像すること自体に何の意味も私には見出せない。

# by dokudankoji | 2012-01-29 22:28 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2011年 09月 08日

長谷川三千子著 「日本語の哲学へ」 (ちくま新書)

 久しぶりにいい読書をした。十分楽しめたといふか、前半は謂はば格闘しつつもがきつつだらだら読んだと白状しておく。デカルトの「我思ふ、ゆゑに我あり」から説き起こして、ハイデッガーの「存在と時間」を逍遥し、和辻哲郎のハイデッガーとの距離の置き方、近づき方などを書きつつ、欧米諸語と日本語による思考(哲学)の位相を浮き彫りにして行く。「思ふ」、「ある」等の語と「存在」の意味、あるいは「存在」の曖昧さをどこまでも厳密に確認して行く。

 後半は、「もの」と「こと」といふ二語に二章が割かれてゐる。(「あんな酷いこと言ふんだもの」といふ文章で「もの」と「こと」を入れ替へて「あんな酷いもの言ふんだこと」とは日本人は絶対に言はない……)。この二つの言葉の担ふものを微塵なりとも見落とすまいとする著者の緊張と冷静と誠実が真直ぐに読み手の心へと伝はる。細かいことをここで記すつもりはないが、著者は「こと」といふ言葉の中に、「出で来る」もの、「生成」=「自ら成る」ものを見出し、「古事記」(事に注目)へと遡る。

 そして、実は、「もののあはれ」に通ずる「もの」といふ言葉の存在こそ、日本語が(日本語による)哲学の新たな地平を切り拓くかもしれぬ可能性を示してゐると著者は考へる。ハイデッガーが行き詰つたところから、日本語の哲学が人智の高み(深み)を思索する可能性を暗示する。≪ハイデッガーが「言葉が欠けている」「文法が欠けている」と言って歎いた、存在者の底――あるいはむしろ、存在者の無底――を示す言葉≫である「もの」といふ言葉が日本語にはあるといふのだ。

 「事」が「事」として出来し、はつきりと姿を現す状況(存在)を受け止める「こと」といふ言葉と、一方、空や無に通じて、消え入るやうな状況(存在)を示す――ハイデッガーを「言葉が欠けている」と歎かせたものを示す――「もの」といふ言葉とが日本語にはあるといふ事実に思ひ至り、つまり粗つぽく言へば、「生成」と「消滅」を言ひ現す「こと」と「もの」といふ二つの言葉を日本語が備へてゐることに思ひ至つて漸く著者はそこに日本語の哲学への道の入り口を見出してゐるのだ。

 著者からの引用でもう一度、≪人生はむなしい「もの」だという「こと」が、この年になってようやくわかった≫を、≪人生はむなしい「こと」だという「もの」が……≫とは絶対に言へない。その理由も理窟ではなく分からせてくれる著作である。いや、理窟でも十分わからせてくれる著作といへよう。

 一冊の本を読むのに一日か二日で済んだとしたら、読書の醍醐味は味はへない。この夏、他の仕事に中断されつつ、「日本語の哲学へ」を私は半月近く掛けて読んだ。読みつつ、ああでも無いかうでも無いと、途中何度も本を置いては考へ込み、自分の想念を追ひかけ始めて夜更かしして翌日に持ち越したり、数ページ前に戻つて読み返したりといつた、贅沢な読書を久しぶりにした。若い方たちに、言葉に携はる方たちに、中途で投げ出すかもしれないが、一度は手に取つて欲しい本だと思ふ。

# by dokudankoji | 2011-09-08 18:43 | 日常雑感 | Trackback | Comments(2)
2011年 09月 02日

恆存対談・座談集 第三巻より

 久しぶりの更新を以下殆ど引用で誤魔化したら、やはり皆さんから叱られるだらうか、刊行前に余り引用しては拙いと玉川大学の出版部から文句を言はれさうだが、10月刊行予定の福田恆存対談集・座談集第三巻に収めた、三田文学の昭和43年12月号収録の秋山駿との対談「文学を語る」より――

 そこで、チャタレイ裁判の弁護をした折に、法曹界の人々に文学の世界の言葉が通じないことにショックを受けたといふ話が出るが、続けて次のやうに語る。

 ≪福田 さっきの体制側というのもそうでしょう。大人というのは体制側でしょう。自民党支持という意味ではないですよ。社会生活の体制を築いているのは大人ですから。ところが、ことに戦争直後は大人が戦争を起こしたので、大人を否定したり、青春謳歌でずっときておりますから、日本の文学が青春文学だから、ますますそうなっちゃった。社会性をいつまでも獲得しない。小説の中で政治や社会を結構扱いながら、そういう人がいつになっても結局は枠を出られないというのは、そこに原因があるのじゃないか。≫

 福田は続けて、自分の教養のない父親や母親に代表される一般人と同じ土台で話が出来なくてはいけない、文学の社会化(自分の家庭に通じるという意味で)家族化が大事だといふ。すると秋山が、それが「一番むずかしい」と受ける。続けて――

 ≪福田 一番強敵です。ほかのものは、読者は、選べるでしょう。家族は選んだものじゃないのです。おふくろとか親父とか自分の息子とか。女房はある程度まで選ぶことができるけれども。もっともそこまで選んでもなかなか自由にいかない。(笑)ともかく、自分が選んだものでないもの、それをいつでも意識しているということですね。それはどこまでできるかは別問題ですね。だがいつでもその人の存在を意識している。どうも今の文学者でも知識人と言われる人達は、みんな読者や、つきあいの相手を自ら選んで、それ以外の人間は全部シャット・アウトしてしまう。宿命という観念はないのですね。≫

 物を書いたり訳したり、評論であれ小説であれ、さういふ世界に携はつてゐる方々で、ギクッとする方はゐないだらうか。「宿命」から逃げる人間が多い、逃げるのは楽だ。そして福田はかう言ふ。

 ≪日本なら日本、日本の歴史、家族とかいう共同体、そういうものが、宿命だという意識がどうも足りないのじゃないだろうかという気がするのです。≫

 さらに、「家」という観念について語った後――

 ≪福田 僕はいよいよ保守反動の本領を発揮する。一番理想的な生活は親子三代が一つ家にに住むこと……(中略)
 ところが近来は、だんだん上を切り、下も切って、子供はなるべく少ないのがいい。出来れば夫婦二人だけ、もう一歩進めてみれば、何も一緒に住む必要はない、ということになる、そのようなマンマルな人間に育つ、いっそ一人一人べつべつにしておいたほうが便利じゃないかということになってくる。それこそ憲法で夫婦は必ず別居すべしというふうにやっておけば、歌い文句の「個人の自由」がもっと生かされたでしょうね。≫

 いかがですか。夫婦別姓の行き着く先は、いやいや、別姓などといふなら結婚などしなければよい。そもそも個人が一人で生きるなどといふことは不可能事であり、共同体を否定した時、我々は個人の存在を否定したことになる。

 ≪僕は偽善と感傷というのがなにより嫌いなんです。感傷というのは偽りの感情、偽善というのは偽りの道徳観ですね。それがみんな通用しちゃう。昔は偽善者と言われると、ギョッとしたものです。偽善者はみんな自分が偽善をやっているという意識がある。私は自分がやっていることはいかに善とかけ離れているかという気があるから、偽善者と言われると内心ギョッとしますが、今の人は、偽善をやっているという意識がない。自分はほんとうに天下、国家のためを思って、エゴイズムなどちょっともないきれいな人間と思い込んでいるから、「偽善者め」と言っても、てんで通じない。
 そこで道徳観もあやふやになり、人間の感情もあやふやになつて……≫

 さて、自分は偽善者ではないと言ひ切れる人間が、この世にどれだけゐるのだらうか。前首相は偽善者つてどういふ人ですか、と本気で言ひさうである。自分のことを「泥臭いどじょう」とお呼びの現首相は、偽悪者ぶつてもちんまりとした欺瞞家。

 ≪福田 ……今の日本人の道徳観や感情が歪んじゃって、にせ物になっているということは一番危険なのですがね。僕はそのことが一番心配なんですよ。
秋山 偽善をはっきり知ってやっているならばいいけれども、意識しないで偽善になっているのはもっと悪く奇妙なことだ、というときには、何かその人のいろいろの言っていることの言葉だけの内容より、言い方、考え方、やり方のそこに何かが現れるとお考えになっているのですね。先ほどの文体というのはそこに通ずるわけですね。
福田 論文だって自分が真実だと思ったことを表現するでしょう。そういうときには礼儀があるでしょう。論争のときは相手をめちゃくちゃにやっつけてもいいが、ほんとうは論争の相手はその読者であって、とうの相手じゃないのですから、その読者にこの文章を渡すというそれだけの礼儀はあるので……≫

 さう、文章も言葉も人に渡すにはそれ相応の礼儀がある。美しいことを語る言葉ほどウソ臭い。人命尊重、平等平和、これらの美辞麗句はウソ臭い。あへて今の時期に言ふなら、「がんばろう、日本」。否定できない、善意の押しつけ、人間が真善美のみで出来あがつてゐるがごとき言辞は耐へられぬ。「がんばろう、日本」、それもよからう。しかし、さう言ふとき、俺は頑張りたくない、さう言ふ自分もゐるかもしれない、せめてそのことだけは注意しておいた方がよい。上の引用の数ページ先で福田はかういふ言ひ方もしてゐる。

 ≪自分の中のケチな根性とかエゴイズムとかに気付かないということが、僕にとっては不愉快ですね。目というのは、外側だけをみるものじゃないのだ。言葉というものは自分の裏側を見る目ですからね≫

 自分の裏側を見る目を持つた人間が、今の言論界にどれだけゐるのか、甚だ疑問でもあり、不安でもある。

# by dokudankoji | 2011-09-02 15:31 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2011年 06月 24日

自己肯定と自己否定と

 恆存対談集第三巻の最終稿を見てゐて、私自身が出発したところが見えるやうな気がしてゐる。「潮」の昭和43年8月号に載つた中村光夫との対談「現代文学への不満」だが、文学論としてもなるほどと思へるのだが、その最後が「現代若者への不満」で終つてゐる。少し長いが引用する。

福田 ……ぼくたちの場合、(明治の)文明開化をそんなに無縁に考えることはできないが、戦後は親父のやったことは親父さんのやったことで俺の知ったことじゃないと、言える時代が随分出てきた。そういう点ではぼくらはちょっとついて行けない。
中村 ついて行けないよりも危なっかしくて見ていられない……。
  ぼくら、自己否定から出発したけれども、それがなんとなく無制限な自己肯定に変りそうな危機は感じますね。自己否定ということの意味をもう少し考えれば、そういうことが何か役に立つかどうか疑問だけれど、そこに自分というものを見出せるのではないか。
福田 つまり否定を通じて、否定作業が結果として肯定になるようなことしか考えられないでしょう。だけど、いまの人は否定を通過していない感じですね。
中村 そうですね、通過しているようだけど、通過していない。
福田 自己肯定に好都合な観念の発明をオピニオン・リーダーにやってもらっているでしょう。だから自己否定がなく、いつも手放しの自己肯定に転ずる。それでは終りですよ。否定から出発すれば希望が持てるけれども、野放図の自己肯定を辿っている人が壁にぶつかってはじかれたらどうなるのだろうという感じがしますね。≫

 人間はどうあつても自己肯定したい、さういふところに立つ。が、自省、自意識を持つ人間は必ず自己肯定の居心地の悪さにゐたたまれなくなつて、千万の紆余曲折を経て成長する。なぜこんなつまらぬことを書きだしたかといふと、昭和43年に、この対談の二人をして「いまの人」と言はしめたのは他ならぬ私の世代、つまり全共闘世代であるからだ。

 それで、このゲラを読んでゐてふと思つたのが、菅直人のことだ。あれが自己肯定のなれの果て、哀れな末路の惨めな姿なのだと思つたわけである。友愛を叫んだ鳩山も同じ穴のムジナで、「命を守りた~い」と虚ろな目で叫んだのも、到底自己否定から生まれる精神のなせる業とは言ひ難い。勿論鳩山は平田オリザを一種のオピニオン・リーダーと考へたのだらう。今も昔もオピニオン・リーダーとは進歩的文化人であり、今の進歩的メディアもこのオピニオン・リーダーを恐らく自任してゐるであらう。

 (ゲラの校正に戻らねばならず)あまり多くを書くつもりはないが、反原発も脱原発もオピニオン・リーダーの振る旗であり、個々人の思考停止を招くのみだ。ファッションとしての脱原発。思考の停止。このお気楽な自己肯定がどこへ行くか、余りにも分かりやすい。

 郵政民営化選挙、政権交代、原発反対(脱原発も)、全ては思考停止のヒステリー現象ではないか。いはば、条件反射のやうな思考。ことの本質に目を向ける作業を怠たり、まづ自分の生きる座標軸を見定めることをしないで、つまり生きて行く上での拠るべき価値を見出さぬままに、あれにもこれにも反射的な反応をするばかりではないか。座標軸も価値も、見出すためには否定から入れねばならない、それでなければ「自分というものを見出せ」ないと中村光夫は言つてゐるのだ。「無制限の自己肯定」は「危なっかしくて見ていられない」。無制限に自己を祭り上げ後生大事に抱へ込むと、とどのつまりゴキブリと何ら変るところのない人類ばかりを自己肯定してしまふ事になるのではないか。昨今、自己などといふ言葉自体死語になりかねぬ、そんなご時世ではあるが。

# by dokudankoji | 2011-06-24 01:23 | 日常雑感 | Trackback | Comments(0)
2011年 06月 05日

グロテスクな話(6日午前1:00追加訂正あり)

 昨日、仙台から出張で横浜に来た友人と話した。かの地に暮らして3月11日以来の日常を送つてゐる人の目には、横浜のにぎやかな雑踏が異様に映つたらしい。被災地で何もかも無くして苦闘を強ひられてゐる人々、その人々を支へてゐる人々、さういふ世界が一方にあり、他方、三月も経たぬうちに、あの災害などなかつたかのごとき日常が存在してゐる。

 知人曰く、確かに被災地ではない関東や西の人々が元気で、夜の繁華街の賑はひを含めて活発な経済活動が必要なことは十分わかる、しかし、両方の世界を観てゐると何が現実か分からなくなるし、横浜の繁華な世界がグロテスクなものにも思へてくる、といふより、二つの現実が同時に存在する姿自体がグロテスクに思へる、といふのだ。

 その通りだと思ふ。私自身は、震災から一月余りのころ、渋谷の雑踏を歩いてゐて殆ど反吐が出さうな不快を感じた。以来、さういふ雑踏を避けたくなつてゐる。勿論、私も仕事で酒を飲みに繰り出すこともある。先日も、秋にある舞台の打ち合はせのあと、二時間ばかり飲んだが、仕事の話が片付けば、やはり、会話はおのづと地震や原発、政府の対応や政治家の無能に話題が移る。が、世間一般を見渡すと、私の感触では、今次の災厄を既に過去のものと感じてゐる人が多いやうな気がする。学生と話しても、さう感じる。

 ついでに、仙台の知人からをかしな話を聞いたので書いておく。被災者への国からの支援額が、家屋の全壊には取敢へず100万円、半壊の場合が、確か50万円、支給されてゐるさうである。全壊家屋の持ち主が家を新築しようとすると、さらに200万円の支援があるとのこと。

 それはよいのだが、アパート暮らしの学生が、そのアパートが津波で流された場合にも100万円が支給され、流されたアパートの大家は、居住家屋喪失ではないから一銭も支給されないといふのだ。仮に大家が高台の粗末な家に住んで家賃収入だけで暮らしてゐても、アパート再建の支援もなされないといふ。

 学生には一時的に頼る実家もあらう。流された家財の額もたかが知れてゐよう。再建の必要もなく、どこかに家賃数万のアパートを見つければ済む話だらう。彼らに100万円が支払われ、半壊家屋の持ち主には50万円、どうみてもをかしな話だ。

 私の知人の知人で、某市役所の支給窓口担当者の言では、そんな学生の中には、「いいんですか、こんなに貰って」と言ふものもゐるといふ。そこまで聞いて、釈然としないで腹を立ててゐた私も少しホッとした次第。だが、これもやはり何ともグロテスクな話ではあるまいか。

 いかなる制度にも完璧はなく、常に不合理が付きまとふ。だが、政府はもう少しきめ細かい支援体系を構築すべきではないか。民主党の茶番を観てゐると、ついついこれも「やつぱり民主党政権だから」とケチを附けたくなる。義捐金なら被災者に一律50万円とか、どれほど大雑把でもよいと思ふ。それはわれわれ個々人の自由意思で募金したものなのだから。が、政府からの公的支援は、なんだかんだ言つても、国家の財産からの出費であり、我々の税金を使ふのだから。

追加訂正:
知人より「学生に払われる金額は全壊で75万、大規模半壊で37.5万でした。一人の世帯だと若干安くなっています。でも、話の筋に影響はないでしょう。引越して別の賃貸に行くとさらに37.5万円もらえるのだから」と訂正と言うか、さらに「酷い」話だとメールを貰つた。75万と37.5万、足せば、112,5万円だ……。詳細は以下のページをご覧下さい。
http://www.city.sendai.jp/hisaishien/1-3-1saiken.html

# by dokudankoji | 2011-06-05 16:56 | 日常雑感 | Trackback | Comments(0)
2011年 06月 04日

三島さん~個人的感想

 角川シネマ有楽町で三島由紀夫の映画特集が終つた。行かう行かうと思ひつつ殆ど果たせず、2日に授業の合間を縫つて(と言へば聞こえが良いが、実際は逆で映画の合間を縫つて授業をしたのだが)、漸く二本だけ観た。昼過ぎから「憂国」、授業からとんぼ返りで夜は「人斬り」。

 映画評をするつもりはない。

 「人斬り」を観て、さすが三島の殺陣は見事と感心しきり。様になつてゐるどころか、他の出演者を圧してゐる。群を抜いて美しい、型が決まる美しさといふべきだらう。また、剣を使ふ時の三島の目がいい、気合ひが違ふ。気迫が違ふ。澄んだ眼をしてゐる。自決を内に秘めてゐる、などと言ふつもりは毛頭ない。

 三島ファンに期待を持たせておいて、肩透かしを食はせるやうなことを書くことになる。この映画を無理して観ておいてよかつたと痛切に感じてゐる。どういふことかはさておき――

 三島といふと、どうしても、その最期が強烈なイメージとして残る。昭和45年の11月25日を経験した者にとつては、それ以前の三島、昭和30年代までの三島の記憶のみに戻ることはできない。そして私もその例外ではない。三島といへば、まさに憂国の士であり、一命を賭してこの国を覚醒させやうとした、あるいは覚醒の望み無きことを憂ひて死を選んだ、さういつたイメージが浮かぶし、それを払ひのけることも難しい。

 だが、彼の死につて、解釈はどうにでも出来るし、同時に、人の死はいかなる解釈も拒絶する。殊に三島のあの死についてはさう言へる。私は何の解釈もしない。ただ、この40年といふもの、いつも私の心の中に何か澱のごときものを感じ、三島といふとどうにも落ち着かない。受け止めきれないものを感じてゐたとでもいはうか。

 そして、このひと月、プリントアウトした映画のスケジュールと自分の都合とにらめつこしつつ、2日まで足を運べずに漸く最後の最後に二本だけ観たといふ次第である。

 「人斬り」。薩摩藩士の人斬り新兵衛を三島が演じてゐるわけだが、その立ち回りを私は大いに楽しんだ、が、何よりも驚いたのは、生身の三島が演じてゐるのを見るうちに、自分が子供だつた時に僅かながら触れた三島本人が急に懐かしく思ひ出されたことだつた。

 殊に勝新太郎演ずる岡田以蔵が土佐藩(武市半平太)から酷く扱はれ、酒屋の飲み代すら出してもらへ無くなつて、酒に酔つたまま男泣きに泣き続ける場で、新兵衛が「お前の飲み代くらゐ俺が全部出してやるよ」と言つて慰める(このセリフ回し、下手だつた)のだが、その場の三島が実に「よい」。

 不器用な人柄、真面目で誠実で照れ屋で……三島由紀夫が素になつてゐる姿がちらちら見える。演ずることのプロではない三島が、剣を取る場面では得意の太刀捌きや構へを披露してくれるわけだが、それは居合といふ形に従へるだけに、型に嵌るだけに、つまり型に支へられてゐるだけに破綻がない。ところが、以蔵に優しくする場面では従ふべき型がないだけに、三島は素面を見せてしまふ。

 この瞬間の三島の照れは、他人がどう言はうと私には確信がある。芝居の稽古場で役者の演ずる姿と表情を見続けて来た身としては、その演技の背後に、役者が隠しおほせずに垣間見せる生身の肉体と精神が必ずある。それを見抜く自信だけは私にもある。監督の五社英雄は恐らく、その生の三島を気に入つてゐたに相違ない。

 さて、その素面の三島、仮面の告白ならぬ、素面での告白――さう、三島さん、あなたは優しい人だ。これは私の思ひこみなのだらうか。そんなことはどうでもよい。その場面を観ながら、私は「ああ、これだ、これが昔知つてゐた三島さんだ、長い間、あの事件以来、その衝撃に私の内心に封じ込められてゐた三島さん、その三島さんがここにゐる」、さう得心し、何とも言へぬ愉快な暖かな空気を味はつた。ホッとしたといふのが一番近いかもしれない。

 結局、人は人を思想で理解などできはしない、さういふことなのではないか。思想を超えた、思想の根つ子に存在する人そのもの。そこまで降りて行けたら幸せといふものだらう。他の人々が三島由紀夫をどう理解しどう愛しどう付き合ふか、そこまで立ち入るつもりは私には毛頭ない。ただ、「人斬り」を観て、三島由紀夫が私の中で漸く「三島さん」に戻つてくれた。それだけのことだ。さうであつても、その切つ掛けが自決前年制作の「人斬り」であり、「人斬り新兵衛」役だつたといふのは随分皮肉な話なのだらうか。

# by dokudankoji | 2011-06-04 01:56 | 日常雑感 | Trackback | Comments(2)
2011年 05月 08日

曖昧な言葉~「安全神話」と「想定外」

 ≪安全神話≫
 殆ど流行語。「安全神話が崩れた」と、あちこちで色々な方が色々な立場でお使ひになる。でも、何か変ぢやありません? そんなこと、論理的にあり得ません。神話が崩れる? みなさん、神話は神話でせう。まさか本気で神話を史実や事実や真実とは取り違へたなんてことはないでせう。我が国の皇室が神話の世界に繋がつてゐることを私は幸せな国柄と寿ぐのにやぶさかではない。でも、まさに「あり得ない」くらゐに「有難い」から神話なので、あり得てしまつたら、神話ではあり得ない。言葉を遊んでゐるのではありません(いや、ちょつと遊んでゐます)。

 もう一度――絶対にあり得ないか、あり得ないくらいに有難いから、神話と呼ぶ。そこで、本題。「原発の安全神話」といふ言ひ方だが、「あり得ないから神話と呼ぶ」といふ私の「現代的」命題が正しければ、「原発の安全神話」といふ言ひ回し自体に、既に「原発には絶対の安全などあり得ない」といふ意味を込めて使つて来たはずでせう? それが「崩壊」するとどうなります? 「絶対に安全はあり得ない」といふ概念が「崩壊」したといふことだから――つまり「あり得ない」といふ概念が「崩壊」したのだから、「絶対の安全」は「ある」となつてしまひませんか? すなはち、「安全神話」が「崩壊」したなら、残るのは「絶対的安全」のみとなる。

 「安全神話」などといふ四字熟語を曖昧に使つてゐるから、「神話」を信じ込むか、信じたふりをするのです(原発推進派は前者、メディアは後者、いやどちらも後者か)。さて、さうなると、「安全神話が崩れた」などと今更のやうに騒ぎ立てるのは、メディアにしても原発反対派にしても余りにもわざとらしくはありませんか?

 元々、私達は原発の危険を、それぞれの立場でそれなりに認識してゐたのでは? 後進国ロシアはさておき、アメリカがスリーマイルでドジを踏んだ。同じやうなことが日本に起きないと本気で思ひ込んでゐたとしたら、それは相当の愛国者なのでせうね、自国を信じ過ぎです。

 原発に頼る外には我々が享受してきた贅沢な科学文明はあり得ない。それこそ「神話」の世界だ――ともあれ、資源貧国の我が国では化石燃料に頼るわけにいかず、といつて太陽熱などのクリーンエネルギーはまだ代替エネルギーとして実用には程遠い――そこで、仕方なしに危険でも原発に頼るしかない、さう思つて来たのが昭和から平成への半世紀ではなかつたのか。あるいは、今回の事故を経てもなほ、原発全廃は不可能と分かつてゐる、だから当座は頼らざるを得ないことも分かつてゐるではないか。

 言葉の綾といふものがある。そんなものは文学の世界に任せておけばよろしい。この二カ月で我々が思ひ知つたのは、政治家と科学者とメディアの世界は言葉の綾の世界にゐてはいけないといふことだらう。「安全神話」などといふ、本来何を意味してゐるのか、曖昧を通り越して意味不明の言葉で原発を語ること自体、無責任のそしりを免れない。

 「安全神話」ではなく、「原発への安全信仰」とでも言つてゐたなら、信仰が崩れるのは少しも無理はなく、原発教(狂)の信仰崩壊は無理な言ひ回しではなかつた。あるいは、「原発の安全はやはり神話だつた」と言へば、少しもをかしくもないし、曖昧でもなく矛盾もなかつたのだが。

 ≪想定外≫ 
 これも、バカバカしい。政治家や科学者に軽々しく使つて欲しくない。曖昧な言葉、あるいは言葉の曖昧な使ひ方なら、私のやうな文学畑(お花畑みたやうなもの)にゐるおめでたい人間に任せておきなさい。

 ただ、この言葉も一度よく考へておきませう。今回の地震も津波も「想定外」だと多くの人々が口にした。地震学者、歴史家、政治家、メディア、それこそうんざりするほど目にもしたし耳にもした。確かに千年に一度の巨大な災害は想定外だつたかもしれない。マグニチュード9も15メートル20メートルの津波も想定は出来なかつたらう。日本人全て、我々一人の例外もなく、想定出来なかつた、想像できなかつた。

 しかし、「政治家や科学者は」、とメディアも≪友愛の伝道師≫鳩山も宣ふ、「想定外といふ言葉は使つてはならない」と。その限りにおいてその通りである。
 
 私はここで文学畑の立場を発揮して呟きたくなる。「人生、すべて想定外なんだがなぁ」。政治家も科学者もメディアも、この大震災を経験して、今後はあらゆる事態を想定出来るのだらうか。浜岡原発を止めさせれば、それで事足りるのだらうか。

 今回の大震災を、少なくともその結果としての被害を、人間は想定できなかつた。そのことはこれからも同じではないか。これ以上の被害が起こることを私達は想定出来るのか? 言葉の綾で書いておく。想定といふ言葉が存在するといふことは、私達が想定以上・想定外のことを既に想定してゐるといふことだらう。「安全神話」と同じロジックだ。

 福島の海岸線に20メートルの津波の再来を想定しようと、浜岡原発を襲ふマグニチュード9の地震と15メートの津波を想定しようと、もしもマグニチュード9.5とか10とかの異常な規模の地震が起こつたら、もしも50メートルの巨大津波が起こつたら、再び「想定外」とメディアも政治家も科学者も言ふのだらうか。想定出来なかつた科学者や行政をメディアが批判するのだらうか。

 そんな巨大なものはあり得ないと、そこまで大げさに言つてあげつらふ必要はないと、さう言つた途端に、我々はこの間の出来事を想定外と呼ぶ自由を容認してしまふことにならないか。つまりマグニチュード10や50メートルの津波をバカバカしいといふなら、今回の地震も津波もやはり、想定するのがバカバカしい程の「想定外」だつたと言つても許されることになる。これは言葉の綾だらうか。

    ************************************

 民主党政権がここまで酷いとは思はなかつた、こればかりは想定外だつた、などといふことも言つてはなるまい。メディアも有権者も一度考へておいてほしい。民主党政権ではなかつたら、震災と原発事故の初動において、災害をここまで大きくしたか、殊に原発の冷却水の放水の順序を間違へたこと、そしてパフォーマンスとして自衛隊のヘリによる放水を命じて、貴重な時間をロスした民主党政権が国民を危険に曝し、海外の不信を買つて国の名誉を汚したことは否定できまい。多くの識者が言ふがごとく、放水の専門は消防庁であらう。

 ついでに書いておくが、自衛隊は災害救助隊ではない。それが第一の使命ではない。今回十万人といふ全兵力の半分近くが駆り出された。国防が手薄になつたことは否定できない。それでも、なんとかこの国が存在するがごとくに見えるのは、アメリカがゐるから、それだけのことだ。

 ついでにこれも想定してみて頂きたい。数ヵ月後、南海・東南海に、或は首都直下に巨大地震が起きたら、十万人の「災害救助隊」で事足りるのか? 自衛隊を今の倍の組織にしなければ、到底この国は自国の力で救助も復興も出来ない。その程度のことは大人なら、いやせめて政治家は「想定」しておいてほしい。

 それを自民党も含め、年々防衛予算を削り、仕分け、自衛隊の兵員削減をしてきた。想定外のことではなく、容易に想定出来ることを想定しないのであれば、政治家もメディアも相当程度劣悪といふことであり、それを生み出した我々国民も、それらに相応しい劣悪な国民だといふことであり、私達はさういふ劣化した時代を生きてゐるといふ、せめてその程度の認識はしておくべきだらう。

 さうなると、七日付朝日新聞朝刊のオピニオンのMなる早稲田大学教授の言論は寝言としか思はれない。引用する。≪……災害派遣活動の評価は自衛隊の「軍」としての肯定を意味しない。/日本がいま直面する危機は、未曾有の大災害と原子力災害である。自衛隊の「軍」としての属性を徐々に縮小し、将来的には海外にも展開できる、非軍事の多機能的な災害救援隊に転換すべきではないだろうか。≫

 寝惚けてゐるのか、世界の現実を知らずに書いたのか。今回の災害で自衛隊があれだけの活躍をしてくれたのは、まさに「軍」としての属性を有してゐたればこそ、この余りにも自明のことが憲法大好き人間には分からないと見える。迅速大規模な機動力は軍事訓練ゆゑの規律から生まれたものである。その議論は措くとしても、例へば十万人が出動できる「救援隊」を維持し続けるとして、その出動が千年に一度の災害を想定してゐたら、国民は一体総員何人の救援組織を維持し続ける気になるだらうか。それが何万人であらうと、簡単に仕分けられて、一万人程度を維持する意思すら国民は失ふであらう。

 二十万、三十万の軍隊を維持して初めて、未曾有の災害になんとか対処できた(出来たのかどうかの検証は今後の絶対条件だが)といふ現実が、このMといふ憲法学者には見えない。多くの国民が今回漸く気がついた現実に学者は未だ目をつぶる。嗚呼。

# by dokudankoji | 2011-05-08 21:45 | 言葉、言葉、言葉、 | Trackback | Comments(1)
2011年 05月 05日

やはり中国は

 簡単に紹介だけしておく。「震災の陰で土地を買い漁る中国」。やはりさうだつたか。買ひ漁る中国にせつせと売つてゐるのは誰だ……。この浜田和幸議員のホームページをご覧あれ。

# by dokudankoji | 2011-05-05 00:21 | 時事 | Trackback | Comments(0)
2011年 05月 03日

朝日新聞主筆反省の弁

 若宮敬文が朝日新聞の主筆になつてしまつた。始末に負へない。五月一日の朝刊に、「ジャーナリズム精神を支えに 主筆就任にあたって」といふ就任の弁を述べてゐる。中身は殆どないのだが、気になるところを二ヶ所挙げておく。

 ≪震災で見直された和の精神や海外の支援ムードを活用し、新たな国際協力へ旗を振ろうではないか≫とある。和の精神が見直された?――それは例へば、盛んに喧伝される被災所での東北人の我慢強さのことか? ボランティアの活躍のことか? はつきりしない。かういふ曖昧な言葉遣ひが私は嫌ひだ。「海外の支援ムード」とは何のことだらう。海外の支援にはムードのみで実態が伴はないといふ意味か。米軍の協力はムードどころではあるまい。人口が3000万に届かない台湾からの義捐金140億もムードか。

 さらに、「精神」や「ムード」を「活用」するとは、どういふ意味なのか私にはトンと分からぬ。ボランティアの「底力」とか、米海兵隊の「機動力」とか、あるいは強靭なる精神力を備へた自衛隊の有する「団結力」とかなら、これは問題なく被災地の救援にも復興にも「活用」出来る。が、抽象的な「精神」やら「ムード」はどうやつても「活用」出来るものではない。「ムードを活用する」、普通言はぬだらう。

 若宮氏は未だに自衛隊も米軍もお嫌ひなのだらう。多分それらの活躍を称賛したくないのだらう。「活用」したいのは、援助しますと言ふ舌の根も乾かぬうちにヘリを飛ばして来る中国の、なんとはなしの援助・同情ムードなのではあるまいか。それを「新たな国際協力」だと呼びた気な一文ではないか。相も変らず、そんなことの「旗振り」をしたいだけだらう。普天間・辺野古には相変らず反対だらうし、尖閣諸島や竹島に対する我が国の領有権については出来るだけ曖昧にするのが「新たな国際協力」だとでも言ひたいのであらう。

 もう一ヶ所、少々長いが引用する。≪一つ反省を書いておこう。自民党による長期政権のよどみから脱して日本の民主主義を本物にするため、政権交代への期待を語り続けてきたことだ。その基本線が間違っていたとは思わないが、でき上がった民主党政権の実態には次々と期待を裏切られてきた。「想定外」とは言いたくないが、予想を大きく超えた不覚。日本政治に成熟と活力をもたらすにはどうしたらよいか、選挙制度を含めてもう一度「政治改革」のやり直しを求めていきたい。≫

 火事場泥棒といふ言葉はそのままここに当て嵌まらないが、大震災といふこの災厄と原発問題といふ「想定外」の事態を利用して、今なら民主党にレッドカードを突き付けられる、朝日の軌道修正が図れると言はんばかりの「反省」ときた。気楽な事を書いてくれるな。

 朝日と毎日とNHKと、これらの大津波級の怪獣メディアが寄つてたかつて生み出した民主党政権だらう。付和雷同する有権者の輿論を操作し、民主党を政権に付けた元凶は、「政権交代」といふ「ムード」を醸成したメディアではなかつたか。

 「基本線が間違っていたとは思わない」なら、どこが間違つてゐたのか。「基本線」とは何を指すのか。自民党政治を終わらせることか? 民主主義を本物にすることか? 民主主義とは何か。本物の民主主義とはどこに存在するのか? 民主主義などと、要は理想すなはち幻想に過ぎないではないか。眼をさまさう、若宮さん。民主主義など、次善の政体。取敢へずの政治形態に過ぎないだらう。それを至上命題にしたのは占領軍であり、占領軍のお先棒を担いで我先に民主主義を喧伝したのは、戦前、大政翼賛的的な一億総玉砕を煽つた新聞ではないのか。朝日新聞の縮刷版で戦前戦後の記事を見て頂きたい。

 敗戦を境にコロリと変身した朝日が、震災を境に再びコロリと変身する。かうも安易に「反省」の弁を書かれたのでは、こちらも言葉に窮する。「民主党政権の実態には次々と期待を裏切られてきた」とまで仰るなら、それを推進してきた朝日新聞としては、これからどういふ道筋を描くのかを、はつきり書いてほしい。暗愚な私に歩むべき道筋を示してほしいものだ。「想定外」とは言ひたくなくても、やはり「予想を大きく超えた不覚」と仰る。どこがどう「予想を超えた」のかはつきり書いてもらいたい。

 自民はダメ、それはさうだ。民主はもつとダメ、これも確か。それでは、どうすればよろしいのか。私に分かつてゐるのは、少なくとも民主よりは自民の方がまだマシといふこと、そして、民主主義とは、少しでもマシな政治を(メディアの扇動なしに)国民が自ら選択出来る政治形態だといふことくらゐだ。

 反省の弁、最後の一文も引つ掛る。「政治改革」などと曖昧な言葉ではなく、はつきりどういふ政体、政権がお気に召すのか書いたらよろしい。自民が「よどみ」、民主は「予想を大きく超えた」といふなら、どこに何を望むのか、誰にどう政治改革の「やり直しを求め」るのか、そこのところこそ明確であつて欲しいのだが。若宮氏にも、一日付の私のブログ記事を呈上しておく。戦後を置き去りにした災後はあり得ない。朝日の場合、戦前の扇動を置き去りにした戦後も災後もあり得まい。

 コロリと、あるいはソロリと舵を切つて右旋回するつもりか、民主離れを正当化するつもりだけなのか、私には今のところ見当がつかない。だが、朝日が何か目論んでゐることだけは間違ひなからう。

# by dokudankoji | 2011-05-03 02:04 | 日常雑感 | Trackback | Comments(1)
2011年 05月 02日

義捐金に思ふ

 大震災への義捐金が二千億円を超えて集まつてゐるといふ。結構なことだとは思ふが、天邪鬼な私のこと、募金だチャリティーだと言はれると直ぐに疑問を感じてしまふ。集まつた金は間違ひなく然るべき人々に届いてゐるのだらうか、必要経費はどう計算され、どう差し引かれるのか。あるいはその種の経費は差し引かれずに全額が対象となる人々に届くのだらうか等々。

 その種の私の猜疑心はさておき、ここでは今回の大災害における義捐金について少し書いておく。総額が二千億円を越したとしても、或は三千億に届かうとも、それが被災者個々人の手に渡る時は、考へやうによつては微々たるものになつてしまふとは言へないか。仮に一人当たり百万円になつたとして、それはそれで当座の生活を凌ぐには、被災者にとつてはそれなりに有難い額ではあらう。

 だが、個々人にとつてはさうであつても、一つ距離を置いて眺めてみると、まるで砂漠に如雨露で水を撒くやうな気がしてならない。個々人にとつては干天の慈雨には違ひなくとも、総体として見た時、空しく消え失せる二千億円といふ気がしてならない。そのことが気になり出したのはソフトバンクの孫正義社長による百億円の寄付があつてからなのだ。

 それこそ、私財から百億拠出することは素晴らしいとは思ふが、そこまでの額にするなら、と考へ込んだ。いつそのこと五百億くらゐお出しなさい。そして、義捐金などに組み込まず、「孫正義基金」でも「ソフトバンク基金」でも創設なさればよろしいのに。それが財界人のすべきことではないかと思つた。明治期の財界人はその手のことを数限りなくしてゐるではないか。

 その基金を運用し、随時ソフトバンク(私財でも構はない)からも基金追加をして、被災地(この特定が困難だが、不可能ではない)の若者の就学支援基金を創る。大学に行く学生には全額補助をするとか、海外への留学生にはさらに資金援助をするとか。いやまだほかにもアイディアは見つかるのではないか。思ひ付きで言ふが、全国から被災地復興の為にこれから被災地域に移住して生活をしやうとか、被災地出身で今は他県に居住して――例へば東京に出て就職してゐた40代50代の人々が、被災した親の元に戻つて農業を継いだり、家業の復興を手伝ふなどといふこともあらう、さういふ人々の子女の就学支援基金にしてもよいのではないか。学費全額を支援したらいい。

 例へば、これからかの地に移住し勤め、数年以上住んだ場合には、その子供達の義務教育から大学卒業まで、授業料は負担しますといふのでもよい。二百億なら二百億、千億なら千億なりのプランの立てやうがあるだらうし、資金に限界があるなら、被災の程度に応じるなりなんなり、その額相応の、しかも相当の支援が出来るだらう。被災者に対しては子供の高等教育のことを憂へなくとも、復興に専念できますといふメッセージになりはしないか。

 親を置いて首都圏に出て来て働く東北出身者にも大きな励みになり、東北を自らの手で復興しようという気構への背中を押しさうな気がする。幾らの基金があつたら、どの程度の規模で支援基金が出来るか、私には何のデータもなく、甚だ無責任な素人考へだとは思ふが、百億といふ額を聞いた時に頭に浮かんだのが「被災地教育基金」創設だつた。砂漠に如雨露ではなく、東北に美しい水を湛えた大きなプールを創る。孫正義は、いはば現代版の「米百俵」を考へたらよかつたのではないか。彼が拝金ホリエモンとは違ふと思つての提案である。

# by dokudankoji | 2011-05-02 17:39 | 日常雑感 | Trackback | Comments(1)