福田 逸の備忘録―独断と偏見

dokuhen.exblog.jp
ブログトップ

<   2012年 01月 ( 3 )   > この月の画像一覧


2012年 01月 31日

承前~『世相を斬る』より

 この対談集第4巻は、フジテレビで放映された『世相を斬る』を中心に編纂したが、その中に昭和52年の暮れにワシントンで録画し、翌年3月12日に放映された、ニューヨーク・タイムズ記者・デヴィッド・バインダーとの対談がある。バインダーの発言が歯切れよい。

≪……私が言いたいのは、軍国主義の危険や軍国主義体制、軍国主義的冒険が過去においてもたらした不幸と悲劇に対して、日本人がどれほど敏感であろうとも、またそれらの復活をいかに恐れていようとも、だからといって日本を防衛するのはごめんだ、と言い張ったり、兵器と名のつくものには触れるのもいやだ、あらゆる国から完全に中立でやっていくのだ、と言っているだけでは、完全な人間にはなれないし、完全な国家とは言えないと思うのです。
 しかし、自分を守ろうという心構えは、攻撃されたとき、反撃するための軍備があってこそ、初めて効果を発揮するわけですが、自分の国が直面する危険には軍事力で対応する以外に方法はない、と考えて軍備の増強をはかり、その負担で押しつぶされるようであってはならないと思います。つまり、私が言いたいのは、大人の分別を持った国民であれば、当然自分の国を守ろうとするだろうということ。≫

 耳が痛いといふか、いはゆる政治家のつもりでゐる今の(民主・自民を問はぬ)議員に「耳の穴をかつぽじつて、よく聴け! バインダーの爪の垢でも煎じて飲め!」と言ひたくならないか。続けて彼は、かうも言ふ。

 ≪やがて日本も、現在以上の防衛責任を担い得る国になるだろうと思います。もちろん、多くの日本人はこれ以上の防衛力増強は危険だと言うかもしれません。が、これは外から私たちがとやかく言うべき問題ではなく、結局日本人が自ら決定すべき問題なのです。≫

 この言葉、味はひ深い。対談から35年ほど経つた今、日本はどれ程の「防衛責任を担い」、「分別ある国民として自分の国を守ろうと」してゐるだらうか。そして、引用の終はりをよく読んで、私達はそれを噛みしめるべきであらう。バインダーは決して、アメリカ人の自分達は何か言ふ立場にない、権利はないなどと、謙虚な態度を示してゐるのではない、「結局日本人が自ら決定すべき問題なの」だといふ最後の言葉、背筋がゾッとする冷たい言葉であることにお気づきだらうか……。誠実かつ冷厳な言葉、冷酷な言葉でもある。
[PR]

by dokudankoji | 2012-01-31 17:04 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 29日

『世相を斬る』からの会話~そして私の妄言

 恆存対談集の第4巻(1月刊)にフジテレビの『世相を斬る』シリーズでの対談を収録。その相手の一人が勝田吉太郎。氏との対談のタイトルは「幻想の平和」。その中の勝田氏の言葉を引く。

 ≪勝田 いい意味でも悪い意味でも、戦争にはヒロイズムがありますね。それを、日本の今日の平和というのを考えるときに、僕はいつも思うのですけどね。どんな代償を払っても平和をほんとうに求めようとするのかどうかということですね。極端に言いますと、日本列島がフィンランド化してソ連の事実上の衛星国になっても、奴隷の平和も平和だと思い定めて、そういう平和を甘受するのかどうかということですね(中略)先ほど、平和というのは一つの目的化してしまったと言いましたけれど、本来ならば平和というのは何らかの目的を実現するための条件あるいは手段であるにもかかわらず、肝心かなめの目的がどこかへ行っちゃったのですよ。その目的がちゃんとあれば、人間は生き生きするはずですよ。自分の生を賭け、あるいは死を賭してでも守ろうとする価値あるいは生き甲斐、それがどこかへ消え失せているものですから、それで平和が目的自体になってしまって、精神がだらんと伸び切っているということですねえ。≫

 上のソ連を中国に置き換へると、我が国が今おかれてゐる状況そのものではあるまいか。そして、後半の目的そのものと化した平和に私達が何の疑問も抱いてゐないとすれば、思考の停止以外の何ものでもない。戦争自体には破壊・勝利・平和といふ「目的」があり得る。では、平和自体は何のために? そして、勝田氏の言ふ「死を賭してでも守ろうとする価値あるいは生き甲斐」とは? 

 家庭なり社会なり、あるいは国家なり、自分が属する集団の安寧を平和と呼ぶとすれば、それが世界平和に通ずるか否かは知らぬが、その安寧のために自分の命を捨てられるか、それを考へないと「精神がだらんと伸び切っている」と言はれてしまふのだらう。

 ついでに、もう一人、元警視総監で当時の参議院議員だつた秦野章との対談のタイトルは「ハイジャックと人命」。その対談の終りの所から。

 ≪福田 そうですね。「国民」という言葉すらこのごろあまり使わない。
秦野 あんまり使わない。市民なんだ。社会なんだ。国家とか国民とかいうのはいけない。
福田 あれは戦前にはあったけれど、今は亡くなっちゃったと思ってるからね。(笑)
秦野 だけど、ほんとうに国家のない社会ってありっこないでしょう。そこを考えないといけないんだけれども、やっぱり……。
福田 そういう国家、国民がなくなって、市民と社会になったというの、これは赤軍と同じで、戦後教育は世界革命を考えてるんじゃないですかね。
秦野 赤軍と同じだな。原理的にはね。しかしそれはアナーキーですわな。無政府主義や。
福田 ええ、困ったもんですね。
秦野 困ったもんですよ。≫

 これは昭和52年の秋の放送。30数年前、さういへば丁度鳩山由紀夫や菅直人が出て来たころにならう。「世界革命」といふよりは中国への隷属を「平和」と勘違ひした市民派の姿が浮かぶ。「国家のない社会」、国民ではない「市民」など「ありっこない」、さういふしかない、それが通じぬなら、後は「困ったもんだ」といふ他ないのだらうか。

 もう一つ、昭和53年8月放送の福田信之、当時の筑波大学副学長との対談、「日本の資源と原子力の平和利用」。

 ≪福田(信) ……私も戦争中、原爆研究に従事していました。当時はほんとに原爆を造れるかどうかの基礎研究をやろうというわけでやってたわけです。私は主として濃縮ウラン――百パーセントの濃縮ウランを造りますと原爆ができることはわかっていたのですが、これは大変難しい技術でしてね、ほんとに日夜やってました。まあ、日本は片手間の研究であり、アメリカは国力の相当部分をさいてやってたという差はあります。
 あの当時の雰囲気からいいまして、もし日本で原爆製造に成功していれば、また今日の技術をもってすれば十分成功したでしょうけれど、もし造っていれば当然、原子力を使ったろうと思います。けれども、福田さんがおっしゃるように、なにか自分の傷を見せながら世界じゅうに「俺はこんな傷を受けたんだ」と言っても――ほんとうに世界の人がどう受け止めているかというのを日本人は知らないのではないでしょうか。≫

 覚えておくべきこと。一、日本も原爆を作らうとしてゐたといふこと。二、造つてゐれば使つてゐたであらうこと。この第二の点は幾ら強調してもし過ぎることはない。人間は自分の生み出したものを使はないわけがないといふこと、これ程分かりやすい現実もないのだが。

 尤も、私には、そのことより上の引用部の最後が甚だ興味深い。「俺はこんなに傷を受けたんだ」といふいやらしい精神。自分を弱者の立場において、いや、それどころか相手を加害者の立場において、加害者を吊るし上げる、あの被害者面ほど不愉快なものはない。そこには人生を生きる上での宿命への思索がない、思想がない。

 被害者が加害者を糾弾するほど「容易」なことはない。誰もその行動を非難しようがない、出来ようはずがない、さういふ立場に自分を置いてしまふほど「強い」ことはない。現代に充ち満ちてゐる、この精神構造、どなたもお気づきのはずだ。殊に、加害者がもともと強いと世間一般が決めて掛かつてゐる存在が、弱小な存在や個人に被害を与へた場合となつたら、世間が一斉にその加害者たる強者を袋叩きにする。公害しかり、アメリカの核しかり。戦後の進歩派メディアの報道は、ほぼこの類型と思つて間違ひない――教訓:負けたくなければ、常に弱者たれ。

 さて、上の対談だが、上の発言に続けて、恆存さんも信之さんも福島の事故を体験した我々からすると、かなり暢気な発言をしてゐる、と思ふと、突然信之さんがかう言ひだす。

 ≪原子力でをたくさん開発すると廃棄物が残って、それは千年もたつと危険が生ずるというけれど、千年後に人類が生きているかどうかさえ分からない。今世紀から来世紀にかけていかに生きるかということを考えているのだし、技術は長足の進歩を遂げていますからね。そりゃ百年単位、千年単位でいいますと、まだ解決しなければいけない問題ありますよ。それはまた我々の子孫がどんどんやりますよ。≫

 「千年後に人類が生きているかどうかさえ分からない」――核さへ存在しなければ人類は永遠だなどと誰が保証してくれるのだらう。上の発言の「健全さ」が分からぬと、恐らく「弱者」の立場を取るしかなくなる。連帯だ友愛だと美しい言葉で、人間同士の相対の中でしかものを考へなければ、それもよからう。が、人知を超えた未知の出来事が起こり得るのがこの世の習い、その未知の出来事を、それはそれとして受け止める覚悟(諦めでも勿論構はぬ)がなくて、どうして生きていけよう。気軽に「死」といふが、これ程の未知の出来事はない。核による死と、天寿を全うした死と、更に我々人類が経験したことのない出来事による死と、私には一つのものとして扱ふしか術がない。

 脱原発への道を日本が歩むのか否か、私は知らない。私に分かつてゐるのは、人類は、なかんづく日本人は遠くない将来原発もその再処理もねぢ伏せるであらうといふこと。しかし、それよりも確かなことは、身も蓋もない言ひ方をするが、ねぢ伏せることが出来ようと出来まいと、人類はやがて滅亡するであらうといふこと。

 ここまでは実は、昨年の暮れに書いた。今附け加えることも余りないが、対談集は既に書店に並んでゐる。

 原発について。私はどうしても騒ぐ気になれないし、恐いとも問題だとも思へない。これは直観に過ぎないから、何ともこれ以上書きやうもないが、子供の頃、放射能の雨が降るのなんのとメディアに騒がれ、子供心になんだか不安だつた。でも、その後何も起こらなかつた。はげになると言はれたが、日本にはげが増えたといふ統計も聞かない。

隣国シナでは楼蘭の辺りの核実験で十万単位の死者を出し、しかも当時日本にストロンチウムが散々降り注いださうで、これは福島の比ではないらしいが(もちろん福島の方が遥かに値は低いといふ意味)、このストロンチウムの害も、どうといふこともないらしい。

 どこだかのアパートのコンクリートがセシウムで汚染されてゐたのなんのとヒステリックに騒ぐ前に、誰でもよい、真実を教へて頂きたい。私は、ヒステリーを起こしたり原発反対と叫ぶのは、真実が分かつてからにする。分かりもしないこと、メディアが取り上げることに一喜一憂するほど私は暇でもなければ、メディアを信頼するほど純情可憐でもない。

 最近、産経新聞に長辻象平が書いてゐたCO2の値の方が、間違ひなく(そんなものがあるとしてだが)「人類の脅威」だらう。福田信之のいふ如く、千年後に人類は生きてゐるのだらうか。生きてゐたとして、そのことにどういふ意味があるのか。どなたか教へて頂きたい。まあ、シェイクスピアもハムレットに人間賛歌のごとき言葉を喋らせてはゐるが、といつて、やはり私は、人類が滅亡することがどれだけ深刻な問題なのか、想像する能力を持ち合はせてゐないやうだ。そんなことを想像すること自体に何の意味も私には見出せない。
[PR]

by dokudankoji | 2012-01-29 22:28 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 15日

大磯町~明治天皇観漁記念碑

 私の自宅の裏手にある山には「王城山」といふ何やら立派な名前がついてゐる。通称を「小千畳」といふ。なぜ小千畳と呼ぶかといへば、町の背後に控へる「湘南平」といふ野暮な名称になつてしまつた、昔は「千畳敷」と呼ばれてゐた山(丘)があり、それとの比較といふわけだ。

 この千畳敷の頂上はその名の通りかなり広々として平坦で、眺望が素晴らしい。360度ぐるりと眺められ、北から西へ目をやると丹沢山塊から富士山、箱根から伊豆の山々、南には相模湾が広がり天気さへよければ大島がかなり近くに見え、東に目を移すと三浦半島と、時に更にその先に房総がかすんで見える。

 この贅沢な眺望には負けるが、千畳敷の千畳(多分それ以上)もありさうな平坦な頂上に似て、小さいがやはり頂上が平坦な王城山といふ訳で、私が子供の頃は通称「小千畳」と呼ばれてゐた。その頂上に立派な石碑が建つてゐる。これが標題の明治天皇観魚記念碑。

 さて、千畳敷の名が出たついでに、早速横道にそれて、少々大磯探索。この千畳敷へ上る道の途中には幾つもの横穴古墳があつたり、少々淀んではゐるが小さな湧水(といふより水たまり)がある。この湧水の言はれ――その昔、父の仇・工藤祐経の動静を探りにここを登つた曽我五郎の馬が急峻に泡を吹いた、そこで五郎は足で(だつたか太刀でだつたか)、地面を突く、するとそこから水が湧き出し馬に飲ませたといふ。また、馬が踏ん張つたところから水が湧いたともいふ。そして、十郎がその水を使つて虎御前に文を書いたといふので「十郎の硯池」と名付けられたとか、まぁ、眉に唾して聞いておけばよろしい伝説もある。だが、この眉唾伝説から、千畳敷はそもそも泡垂山(あわたらやま)と呼ばれてゐた。今では大磯の住人でもこの名称を知る人は少ないだらう。

 その五郎の兄、十郎と恋中の女郎が大磯の宿場の遊女・虎御前。その虎女が化粧に使つた井戸が旧東海道にポツンと「残つて」ゐる。中を覗いても別に面白くもなんともない。

 虎繋がりで、虎御石といふ有難い石まである。延台寺といふ寺にあるのだが、この石は工藤祐経が送り込んだ刺客の射た矢や切り付けた刀から十郎を守つたともいはれ、虎御前の成長とともに大きく育つたともいはれる。ま、さざれ石が巌になる国に相応しいお話。歌舞伎などの曽我ものには少なくとも虎御前は必ず出てくる。

 ただし、虎御石は出てくるはずもないが、こちらは有難いことに「本物」にお目にかかれる。毎年、確か5月の第4日曜日に御開帳される。この石に触れると大願成就、安産厄除けと霊験あらたか。恨みつらみで復讐の念に燃えていらつしやる方は是非大磯観光協会辺りのホームページで調べて、石に触りにいらつしやるとよろしい。仇打ちも成就すること請け合ひ?

 千畳敷に戻るが、昔、頂上直下に高射砲跡があり、我々子供の良い遊び場になつてゐた。高射砲自体は勿論撤去されてゐたが、砲台と掩蔽の建物は残つてゐた。高射砲は相模湾から上陸してくる(であらう)米軍を迎へ撃つためのものであり、さらに街中を歩くと、上陸して来た米兵を拝み撃ちにするつもりだつたのか、銃剣で白兵戦を戦ふつもりだつたのか、兵士が身を隠す祠のやうな穴が、相模湾から町の中心部に向かふ切通しに残つてゐる。

 さて、大磯歴史散策はこのあたりにして本題に入る。今日は小千畳の話、といふか、先に触れた「明治天皇観漁記念碑」のことを写真を付けて記しておきたい。まず、この立派な写真をご覧あれ。
d0007247_2255092.jpg


 石碑の裏に彫られた説明に基づいて簡単な歴史を記す。江戸から明治になり、明治天皇が江戸を東京と改名したのが明治元年七月のこと。同年九月天皇は京都を発ち、東京へお向かひになる。その途次、十月七日大磯にて御休息、その折、「海濱ニ幸シテ」、漁師たちの威勢よく働く姿と多くの魚が取れ飛び跳ねる様(「魚族ノ溌剌タル魚槽」)を初めてご覧になり「御興ニ入ラセ玉ヒ」、漁夫らに「御下賜品アリ」といふ次第である。その次第を「今謹テ石ニ勒シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ栄ヲ永ク後ニ伝フト云フ」といふわけである。
d0007247_2263185.jpg


 石碑を建立し、この解説(書陰)を書いたのは安田財閥の祖、安田善次郎翁である。建立は「大正七年十月吉祥日」と碑の側面にある。正面の立派な碑文は、時の内大臣正二位大勲位侯爵松方正義の手になる。

 上の青空を背景に写した画像は一月十四日のものである。で、それこそここからが本題、この画像をご覧いただきたい。
d0007247_228250.jpg

d0007247_2283316.jpg


 これらは昨秋写したものである。我が家からは頂上まで歩いて十分ほどの格好の散歩コースなのだが、この数年、夏から秋に登るとご覧の通り荒れ放題。ほんの数年前まではこんなことは無かつた。町の歳入が減つてゐるのだらうか。一方では、この町は、車でなくては行けないやうな不便なところに町民のための運動公園を造つてみたりする、そこへ歩いて往復するだけでも半日かかる、その上運動などする必要もない。最近では全く不要な診療システムを新規に発足させたりと歳費の無駄遣ひはしても、町が誇るべき懐かしい歴史には目もくれない。これつてなんでせう。歴史を蔑ろにしたら、必ず歴史に逆襲される、予言しておきます。

 かういふ言ひ方はお分かり頂けようか――大磯町が私といふ一個人の歴史を破壊してゐるのだといふ……私の中にある記憶、常に整然と手入れの行き届いた裏山と記念碑の記憶、間違ひなく明治に繋がる私の記憶と人生を町が破壊して行く。それを私は許したくない……。

 以前は手入れが行きとどいてゐたため、薄その他の雑草がはびこることは皆無、いつ行つても美しい相模湾を眺め歴史に思ひを致し……絶好の散歩コースだつた、といふか私の遊び場、庭だつた。今は正月前後に一度雑草を刈り取るだけとなり、夏草が茂り出す季節からは山頂に近づづくにはかなりの覚悟が要る。

 で、昨十四日、散歩に出かけて小千畳に登つたところが次の写真のやうに見事に草を刈つてあつた。暮のうちに刈つてないので、遂にそのまま年を越し、もはや荒れるに任せるのかと思つたら、「一応は」手入れをする気だけはあるらしい。
d0007247_2291787.jpg


 だが、この写真をよく見て頂きたい。「一応は」といふ意味はお分かりだらう。
d0007247_2301245.jpg


 荒れ果ててゐること一目瞭然。造形は立派ではあるし、これを財閥とはいへ個人が建立すること自体、頭が下がる。90度ずらした下の台座は蔓延りだした薄が徐々にその敷石を押し広げ破壊し、年々崩れて行く。正面の階段の上の二本の柱にお気づきだらうか。昔、この柱から石組の上に正方形の石柵が廻らしてあつた。左の柱の陰になつてしまつたが、上の囲いの左端前の柱上部にあつた宝珠は壊れて崩落。階段上の周囲も上の囲いの中側も、薄は一応は刈り取られてなくなつてゐるが、数年間、根を取らずに蔓延らせたため、もはや手の施しやうがない。草の、殊に薄の根は強い、種子からの繁殖も含め、数年のうちに継ぎ目裂け目を狙つて出てくる薄のためにこの石組は土台から崩落し、中央の石碑だけが傾いた無残な姿を曝すのだらう。さうして、記憶といふ形の私の一部も崩壊させられる。

 この王城山の裏手に「釜口古墳」といふのがあり、これは一応町が管理して見学する人も散見される。が、この明治天皇の観漁記念碑を省みる人はもはや誰もゐないらしい。寂しい限りである。ちなみに、明治帝がお出ましになられた海辺にも観漁記念碑があるが、こちらはこの安田翁建立のものほど立派ではないが、人目に付くところでもあり、規模も小さいせゐか一応の手入れはされてゐる。

 最後に、この小千畳(王城山)の麓に今なほ安田邸が保存されてをり、年に一度開放されて見学できる、興味のある方はネットでお調べ頂いて、冒頭に長々と書いた町内の散策もなさるとよろしい。安田邸、昔は富士銀行の行員の寮として使はれてゐた。校倉造の蔵などもあり、往事私はほとりの池で蛙の卵を取つたりお玉杓子を捕まへたりしたものだ。今では、警備厳しく、お花見に門から入らうものなら管理人に咎められる。昔正門は開かれたままであり、内門との間の広場は私達の野球場でもあつたのだが。これまた寂しい限り……。
[PR]

by dokudankoji | 2012-01-15 02:32 | 雑感 | Trackback | Comments(3)