<   2011年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧


2011年 09月 08日

長谷川三千子著 「日本語の哲学へ」 (ちくま新書)

 久しぶりにいい読書をした。十分楽しめたといふか、前半は謂はば格闘しつつもがきつつだらだら読んだと白状しておく。デカルトの「我思ふ、ゆゑに我あり」から説き起こして、ハイデッガーの「存在と時間」を逍遥し、和辻哲郎のハイデッガーとの距離の置き方、近づき方などを書きつつ、欧米諸語と日本語による思考(哲学)の位相を浮き彫りにして行く。「思ふ」、「ある」等の語と「存在」の意味、あるいは「存在」の曖昧さをどこまでも厳密に確認して行く。

 後半は、「もの」と「こと」といふ二語に二章が割かれてゐる。(「あんな酷いこと言ふんだもの」といふ文章で「もの」と「こと」を入れ替へて「あんな酷いもの言ふんだこと」とは日本人は絶対に言はない……)。この二つの言葉の担ふものを微塵なりとも見落とすまいとする著者の緊張と冷静と誠実が真直ぐに読み手の心へと伝はる。細かいことをここで記すつもりはないが、著者は「こと」といふ言葉の中に、「出で来る」もの、「生成」=「自ら成る」ものを見出し、「古事記」(事に注目)へと遡る。

 そして、実は、「もののあはれ」に通ずる「もの」といふ言葉の存在こそ、日本語が(日本語による)哲学の新たな地平を切り拓くかもしれぬ可能性を示してゐると著者は考へる。ハイデッガーが行き詰つたところから、日本語の哲学が人智の高み(深み)を思索する可能性を暗示する。≪ハイデッガーが「言葉が欠けている」「文法が欠けている」と言って歎いた、存在者の底――あるいはむしろ、存在者の無底――を示す言葉≫である「もの」といふ言葉が日本語にはあるといふのだ。

 「事」が「事」として出来し、はつきりと姿を現す状況(存在)を受け止める「こと」といふ言葉と、一方、空や無に通じて、消え入るやうな状況(存在)を示す――ハイデッガーを「言葉が欠けている」と歎かせたものを示す――「もの」といふ言葉とが日本語にはあるといふ事実に思ひ至り、つまり粗つぽく言へば、「生成」と「消滅」を言ひ現す「こと」と「もの」といふ二つの言葉を日本語が備へてゐることに思ひ至つて漸く著者はそこに日本語の哲学への道の入り口を見出してゐるのだ。

 著者からの引用でもう一度、≪人生はむなしい「もの」だという「こと」が、この年になってようやくわかった≫を、≪人生はむなしい「こと」だという「もの」が……≫とは絶対に言へない。その理由も理窟ではなく分からせてくれる著作である。いや、理窟でも十分わからせてくれる著作といへよう。

 一冊の本を読むのに一日か二日で済んだとしたら、読書の醍醐味は味はへない。この夏、他の仕事に中断されつつ、「日本語の哲学へ」を私は半月近く掛けて読んだ。読みつつ、ああでも無いかうでも無いと、途中何度も本を置いては考へ込み、自分の想念を追ひかけ始めて夜更かしして翌日に持ち越したり、数ページ前に戻つて読み返したりといつた、贅沢な読書を久しぶりにした。若い方たちに、言葉に携はる方たちに、中途で投げ出すかもしれないが、一度は手に取つて欲しい本だと思ふ。
[PR]

by dokudankoji | 2011-09-08 18:43 | 雑感 | Trackback | Comments(2)
2011年 09月 07日

承前~「対談・座談集」にかこつけて、放言

 もう一度、恆存対談・座談集の第三巻から引用する。かうなると、やはり出版社に対しては営業妨害かもしれないが……。半世紀近く前の言葉がそのまま今に通じてしまふのが怖い。結局言論も何も無力か?

 「日本及日本人」の昭和44年5月号に掲載された村松剛氏との対談「強いことはいいことだ」から。

福田 ……(前略)……みんな自分を誤魔化しているんだな。しかし、明治以来日本人の心に住みついている排外思想から脱却することは容易じゃない。だから行きつくところまで行かなければだめじゃないかと思いますね。
村松 そうだとすると三島由紀夫さんがいってる、日本刀を振り回さなければいけないことになる。(笑)
福田 いや、別に日本刀を振り回す必要はないと思いますね。洋服を着ていたってかまわないし、電信電話を使ったってかまわない。しかし長い間続けられてきた行事というものを滅ぼすことは絶対許されない。この頃、雛祭なんかが、ぜいたくな形で行われているけれども、それらはみんな商業主義に踊らされたもので、日本人のほんとうの日常の生き方と密接した形でやられてはいないし、季節とも密接していない。彼岸詣りだとか、そういうものも滅びつつある。これは由々しい問題で、私はまず行事を本当に蘇らせることが大事だと思いますね。
村松 そういうものが本当の民族の歴史ですからね。
福田 行事を正しく行うということは、先祖の生き方を守っていくということなんだが、この頃は結婚式でさえ、クリスチャンでもない者が教会で挙げたがったりするようになっているし、クリスマスや雛祭りや七夕など行事らしいものもあるが、これは全部コマーシャリズムから生じている。また戦後の祝祭日というのは、全部儀式、行事を伴わない日曜日とおんなじに扱われている。
村松 もっとも日曜日そのものが、日本では意味がないですからね。
福田 外国ではちゃんと日曜は宗教と結びつき、生活のリズムと結びついているんだけれども(中略)生活のリズムに表れたものが文化なんですけれども、そういうものを失ってしまっている(中略)国語教育だってそうだ。言葉遣いなんかみんな些事だと考える習慣が多いですよ。
村松 国語問題のようなものを些事だと考えるのは、いまおっしゃった排外思想と、もう一つは戦後滔々として流れている「人はパンのみにて生きる」という思想だと思うんですね。≫

 祝日について、いかが思はれるか? たとへば建国記念日とやら。あれを誰がどう祝つてゐるか。アメリカのごとき人工的後進国ではあるまいし、建国記念日とは何事か。紀元節なら祝ふべきであらう、それならこの国の神話にも国産みにも通ずる。一方、5月4日の「みどりの日」などといかがはしい「祝日」だか「休日」だか知らぬが、みなさなん、要は連休が増えて楽だから文句を言はないのでせう? そんなことで、保守だ伝統だと言つてはいけない。あの休日は即刻廃止し、4月の28日を主権回復記念日にすべし、足し引き相殺されてよいではないありませんか。4日は自己責任で勝手に有給でも何でも取つて休めばよろしい。(それはさうと、「教会の結婚式」、耳の痛い方、随分いらつしやるのでせうね。)

 ところで、クリスマス(あれは忘年会と私は考へてゐる)はさておいて、40代くらゐから下の「若者」はバレンタインデーに、商魂逞しい食品会社に乗せられてチョコレートを買ひまくり、お返しと称して、いや称されてホワイトデーとやらにもう一度チョコレートを買はされる。

 それどころの話ではない。この5年ほどの間にハロウィーンまで「定着」し出した。店先ににあのけばけばしいオレンジと黒の下品な色が氾濫するだけなら、まだ許す(いや、許せんか)。一昨年、池袋から少し北にある、田舎のやうな都会のやうな、一言で言へば野暮な町の商店街を歩いてゐて驚かされた。「ガキ」の一群がカボチャやら何やら、やはりあの二色のけばけばしい衣装や、魔法使ひの格好だかドラキュラ伯爵だか、訳の分からない仮装をして走り回つてゐたのには、正直青ざめた。日本は終はつてゐる……さう感じざるを得なかつた……。

 上の引用から、1頁くらい後に次の会話が交はされる。これなど、現今の原発問題を考へる際にも面白い。

村松 日本の学生だけじゃなく、欧米の学生たちでもよく「消費社会への反逆」といいますけれども、一番先に反逆しなければならない対象は「自分自身」です。ジェット機に乗りたがったり、冷暖房のある家に住みたがったりする。その願望の集積が消費社会をつくってるわけですから「消費社会への反逆」という以上は、自分の中のものを叩きつぶさねばならない理窟です。(中略)そこで問題は快楽追及のどこに歯止めを付けるかということになるだろうと思います。
福田 全くその通りで、歯止めをどこで付けるかということは、これはネセサリー・イーヴルだと思うんですよ。いまさら物質文明なしの生活に戻ろうと思ってもそうはいかないんで、冷暖房はどこの家でも付けるという時代に向かって行くのが文明で、欲望そのものを抑えつけてしまうと……≫

 さうか。つまり、原発そのものが文明の最先端といふことになるわけだ。むしろ、原発そのものがネセサリー・イーヴルといふことでせうか、恆存さん? 村松さん、消費社会に突つ走つた昭和の30年代半ば以前に戻れば良いだけの話ですね? 

 ところが、実際には物質文明なしどころか、今や携帯電話やパソコンのない社会にすら、人類は戻れない。ファックスもない時代に戻るなど不可能。東京の地下に地下鉄が四通八達してゐなかつた過去に戻ることも出来ない。一度手にした便利を人間は絶対に手放さない、手放せない。そこまで考へてから、さて、原発はどうしたものか、急ぐことはない、神経質になることもない。やれ、推進だ脱だ反だとヒステリックに言ひ募るのは一旦止めたらいかが。

 金になるなら(事業として成立するだけの公的支援があるなら)クリーン・エネルギーに乗り出しますなどと、虫のよいといふか商売上手の孫正義に騙されてはいけない。エネルギー問題は、あの手の商売人と俗衆受けを狙ふ政治屋の手からも、悪乗りの反原発論者や推進論者の手からも引き離し、彼らには一旦沈黙してもらふ。

 その上で、どういふ国を造りたいのか。民主党のお歴々の如く、物質的にも精神的にも中韓の属国になりたいのか、日本の伝統と歴史と生活文化を「保守」しつつ自由主義社会に残りたいのか。独立国になりたいのか。豊かな消費社会を享受したいのか質素で粗末な生活に甘んずるのか。我々国民がそこから議論せずに、原発是非のみを議論するなど、意味がない。以上、「対談・座談集」にかこつけて放言しておく。

(ハロウィーンについてネットで検索してみて驚いた。大人から子供まで、既に貸衣装屋がある。どこまで商魂に乗せられるのか。震災後のいろいろな催しの自粛には疑問を感じたが、無国籍と言ふより、欧米に乗つ取られたやうな、この種の「習慣」は止めて欲しい。)
(小さな訂正のさらなる訂正:貸衣装ではなく通販でした。)
[PR]

by dokudankoji | 2011-09-07 01:58 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
2011年 09月 02日

恆存対談・座談集 第三巻より

 久しぶりの更新を以下殆ど引用で誤魔化したら、やはり皆さんから叱られるだらうか、刊行前に余り引用しては拙いと玉川大学の出版部から文句を言はれさうだが、10月刊行予定の福田恆存対談集・座談集第三巻に収めた、三田文学の昭和43年12月号収録の秋山駿との対談「文学を語る」より――

 そこで、チャタレイ裁判の弁護をした折に、法曹界の人々に文学の世界の言葉が通じないことにショックを受けたといふ話が出るが、続けて次のやうに語る。

 ≪福田 さっきの体制側というのもそうでしょう。大人というのは体制側でしょう。自民党支持という意味ではないですよ。社会生活の体制を築いているのは大人ですから。ところが、ことに戦争直後は大人が戦争を起こしたので、大人を否定したり、青春謳歌でずっときておりますから、日本の文学が青春文学だから、ますますそうなっちゃった。社会性をいつまでも獲得しない。小説の中で政治や社会を結構扱いながら、そういう人がいつになっても結局は枠を出られないというのは、そこに原因があるのじゃないか。≫

 福田は続けて、自分の教養のない父親や母親に代表される一般人と同じ土台で話が出来なくてはいけない、文学の社会化(自分の家庭に通じるという意味で)家族化が大事だといふ。すると秋山が、それが「一番むずかしい」と受ける。続けて――

 ≪福田 一番強敵です。ほかのものは、読者は、選べるでしょう。家族は選んだものじゃないのです。おふくろとか親父とか自分の息子とか。女房はある程度まで選ぶことができるけれども。もっともそこまで選んでもなかなか自由にいかない。(笑)ともかく、自分が選んだものでないもの、それをいつでも意識しているということですね。それはどこまでできるかは別問題ですね。だがいつでもその人の存在を意識している。どうも今の文学者でも知識人と言われる人達は、みんな読者や、つきあいの相手を自ら選んで、それ以外の人間は全部シャット・アウトしてしまう。宿命という観念はないのですね。≫

 物を書いたり訳したり、評論であれ小説であれ、さういふ世界に携はつてゐる方々で、ギクッとする方はゐないだらうか。「宿命」から逃げる人間が多い、逃げるのは楽だ。そして福田はかう言ふ。

 ≪日本なら日本、日本の歴史、家族とかいう共同体、そういうものが、宿命だという意識がどうも足りないのじゃないだろうかという気がするのです。≫

 さらに、「家」という観念について語った後――

 ≪福田 僕はいよいよ保守反動の本領を発揮する。一番理想的な生活は親子三代が一つ家にに住むこと……(中略)
 ところが近来は、だんだん上を切り、下も切って、子供はなるべく少ないのがいい。出来れば夫婦二人だけ、もう一歩進めてみれば、何も一緒に住む必要はない、ということになる、そのようなマンマルな人間に育つ、いっそ一人一人べつべつにしておいたほうが便利じゃないかということになってくる。それこそ憲法で夫婦は必ず別居すべしというふうにやっておけば、歌い文句の「個人の自由」がもっと生かされたでしょうね。≫

 いかがですか。夫婦別姓の行き着く先は、いやいや、別姓などといふなら結婚などしなければよい。そもそも個人が一人で生きるなどといふことは不可能事であり、共同体を否定した時、我々は個人の存在を否定したことになる。

 ≪僕は偽善と感傷というのがなにより嫌いなんです。感傷というのは偽りの感情、偽善というのは偽りの道徳観ですね。それがみんな通用しちゃう。昔は偽善者と言われると、ギョッとしたものです。偽善者はみんな自分が偽善をやっているという意識がある。私は自分がやっていることはいかに善とかけ離れているかという気があるから、偽善者と言われると内心ギョッとしますが、今の人は、偽善をやっているという意識がない。自分はほんとうに天下、国家のためを思って、エゴイズムなどちょっともないきれいな人間と思い込んでいるから、「偽善者め」と言っても、てんで通じない。
 そこで道徳観もあやふやになり、人間の感情もあやふやになつて……≫

 さて、自分は偽善者ではないと言ひ切れる人間が、この世にどれだけゐるのだらうか。前首相は偽善者つてどういふ人ですか、と本気で言ひさうである。自分のことを「泥臭いどじょう」とお呼びの現首相は、偽悪者ぶつてもちんまりとした欺瞞家。

 ≪福田 ……今の日本人の道徳観や感情が歪んじゃって、にせ物になっているということは一番危険なのですがね。僕はそのことが一番心配なんですよ。
秋山 偽善をはっきり知ってやっているならばいいけれども、意識しないで偽善になっているのはもっと悪く奇妙なことだ、というときには、何かその人のいろいろの言っていることの言葉だけの内容より、言い方、考え方、やり方のそこに何かが現れるとお考えになっているのですね。先ほどの文体というのはそこに通ずるわけですね。
福田 論文だって自分が真実だと思ったことを表現するでしょう。そういうときには礼儀があるでしょう。論争のときは相手をめちゃくちゃにやっつけてもいいが、ほんとうは論争の相手はその読者であって、とうの相手じゃないのですから、その読者にこの文章を渡すというそれだけの礼儀はあるので……≫

 さう、文章も言葉も人に渡すにはそれ相応の礼儀がある。美しいことを語る言葉ほどウソ臭い。人命尊重、平等平和、これらの美辞麗句はウソ臭い。あへて今の時期に言ふなら、「がんばろう、日本」。否定できない、善意の押しつけ、人間が真善美のみで出来あがつてゐるがごとき言辞は耐へられぬ。「がんばろう、日本」、それもよからう。しかし、さう言ふとき、俺は頑張りたくない、さう言ふ自分もゐるかもしれない、せめてそのことだけは注意しておいた方がよい。上の引用の数ページ先で福田はかういふ言ひ方もしてゐる。

 ≪自分の中のケチな根性とかエゴイズムとかに気付かないということが、僕にとっては不愉快ですね。目というのは、外側だけをみるものじゃないのだ。言葉というものは自分の裏側を見る目ですからね≫

 自分の裏側を見る目を持つた人間が、今の言論界にどれだけゐるのか、甚だ疑問でもあり、不安でもある。
[PR]

by dokudankoji | 2011-09-02 15:31 | 雑感 | Trackback | Comments(0)