福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2011年 06月 24日

自己肯定と自己否定と

 恆存対談集第三巻の最終稿を見てゐて、私自身が出発したところが見えるやうな気がしてゐる。「潮」の昭和43年8月号に載つた中村光夫との対談「現代文学への不満」だが、文学論としてもなるほどと思へるのだが、その最後が「現代若者への不満」で終つてゐる。少し長いが引用する。

福田 ……ぼくたちの場合、(明治の)文明開化をそんなに無縁に考えることはできないが、戦後は親父のやったことは親父さんのやったことで俺の知ったことじゃないと、言える時代が随分出てきた。そういう点ではぼくらはちょっとついて行けない。
中村 ついて行けないよりも危なっかしくて見ていられない……。
  ぼくら、自己否定から出発したけれども、それがなんとなく無制限な自己肯定に変りそうな危機は感じますね。自己否定ということの意味をもう少し考えれば、そういうことが何か役に立つかどうか疑問だけれど、そこに自分というものを見出せるのではないか。
福田 つまり否定を通じて、否定作業が結果として肯定になるようなことしか考えられないでしょう。だけど、いまの人は否定を通過していない感じですね。
中村 そうですね、通過しているようだけど、通過していない。
福田 自己肯定に好都合な観念の発明をオピニオン・リーダーにやってもらっているでしょう。だから自己否定がなく、いつも手放しの自己肯定に転ずる。それでは終りですよ。否定から出発すれば希望が持てるけれども、野放図の自己肯定を辿っている人が壁にぶつかってはじかれたらどうなるのだろうという感じがしますね。≫

 人間はどうあつても自己肯定したい、さういふところに立つ。が、自省、自意識を持つ人間は必ず自己肯定の居心地の悪さにゐたたまれなくなつて、千万の紆余曲折を経て成長する。なぜこんなつまらぬことを書きだしたかといふと、昭和43年に、この対談の二人をして「いまの人」と言はしめたのは他ならぬ私の世代、つまり全共闘世代であるからだ。

 それで、このゲラを読んでゐてふと思つたのが、菅直人のことだ。あれが自己肯定のなれの果て、哀れな末路の惨めな姿なのだと思つたわけである。友愛を叫んだ鳩山も同じ穴のムジナで、「命を守りた~い」と虚ろな目で叫んだのも、到底自己否定から生まれる精神のなせる業とは言ひ難い。勿論鳩山は平田オリザを一種のオピニオン・リーダーと考へたのだらう。今も昔もオピニオン・リーダーとは進歩的文化人であり、今の進歩的メディアもこのオピニオン・リーダーを恐らく自任してゐるであらう。

 (ゲラの校正に戻らねばならず)あまり多くを書くつもりはないが、反原発も脱原発もオピニオン・リーダーの振る旗であり、個々人の思考停止を招くのみだ。ファッションとしての脱原発。思考の停止。このお気楽な自己肯定がどこへ行くか、余りにも分かりやすい。

 郵政民営化選挙、政権交代、原発反対(脱原発も)、全ては思考停止のヒステリー現象ではないか。いはば、条件反射のやうな思考。ことの本質に目を向ける作業を怠たり、まづ自分の生きる座標軸を見定めることをしないで、つまり生きて行く上での拠るべき価値を見出さぬままに、あれにもこれにも反射的な反応をするばかりではないか。座標軸も価値も、見出すためには否定から入れねばならない、それでなければ「自分というものを見出せ」ないと中村光夫は言つてゐるのだ。「無制限の自己肯定」は「危なっかしくて見ていられない」。無制限に自己を祭り上げ後生大事に抱へ込むと、とどのつまりゴキブリと何ら変るところのない人類ばかりを自己肯定してしまふ事になるのではないか。昨今、自己などといふ言葉自体死語になりかねぬ、そんなご時世ではあるが。
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by dokudankoji | 2011-06-24 01:23 | 雑感
2011年 06月 17日

友人のブログ紹介

 富士通総研の代表締役会長を務める、高校の同窓生伊藤千秋氏のブログを紹介しておく。ツイッターでも時々TLしてゐるが、このブログは必読と思ふ。

 殊に今回の「本当に心配なのは電力不足か」には考へ込んでしまつた、といふか、やはりさうなのかと妙に得心。下手をすると、この日本三等国以下になりますよ、とも読める。

 国民が反原発や東電叩きに「浮かれ」、政治家が政局に「踊る」ばかりの時、二十年後を見据ゑる伊藤氏の意見は傾聴に値する。

 付記:同じブログの別の日付からの一部を下に張り付ける。

 ≪そして、自衛隊も凄い。被災者の方々で、今回の災害派遣に出動した自衛隊員に感謝していない人は誰も居ないだろう。やはり、非常時には、「議論」は要らないのだ。「行動」が全てである。議論ばっかり好きな人は、暫く、今回の大震災の問題からは離れていて欲しいものだ。

 さて、この度、仙台市に設置された、私共の会社の復興専任組織から重要なことを聞いた。長期的な復興計画のビジョンを語るには、まず、今、住民の方々が、一番困っていることを解決できる能力を持っている人や組織でないと、その資格がないということだ。つまり、福島も含めて、東北地方の多くの被災者の方々は、もう誰も信用出来なくなっている。霞が関も、国会議員も、有識者と言われる人々も、誰も信用出来なくなった。起こる筈のないことが起きた。安全であるはずのものが安全ではなかった。これは事実だから、もはや議論する必要がない。本当に信頼できる人は、議論が上手な人ではなくて、汗水流して、行動できる人だと住民の皆さんも分かったのだ。偉そうに空論を言っているTV討論なんて、もう一切やめてくれって感じだろう。≫
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by dokudankoji | 2011-06-17 02:12 | 雑感
2011年 06月 15日

続編・リーダーに求めるもの

 一昨日だつたか、あちこちで反原発デモがあつたらしいが、大凡は例によつて例の如く、日本やアメリカの核には反対しても、ロシア中国の核には沈黙を守る輩のデモだつたらしい。昨夜ツイッターのリツイートで回りまはつて来たツイートにかういふものがあつた。

 「埼京線に新宿で反原発デモの人達が乗ってきた。暑い~暑い~何でクーラー効いて無いんだ!って怒ってた。原発使えないからなんだけど。と思った。」

 ツイートにしてもネット上の発言の怖いところは、それが真実か否かの手掛かりがないところだ。上の発言にしても、反原発の連中を貶めるための悪意の書き込みかもしれない。さうであるとも、さうでないとも断定はできない。

 ただ、この書き込みは本当なのではあるまいか、とついつい思ひたくなるところが、私も危ないと言へば危ない。

 と、予防線を張りつつ、実はこれは嘘ではないなと、私の直観がさう信じろといふ。少なくとも、クーラーが利かない車内の暑さに文句をいふ性情と、原発やら核やら、あるいは「権力者側」が行ふことに何かと文句を附ける性向と、この二つの根つこは一つ、そこには現状への不満があり、何かことが起こると己を棚に上げて他者を非難し権力を批判する性癖がほの見える。

 そして、例へば自分が生まれ育つた国や社会への青臭い不平不満は膿み爛れるほど体内に蔵してゐる一方、その自分を生み育んでくれた国や社会に属してゐる意識は持てない。それらを持てなくしたのが、実は自分が受けた教育ゆゑの歪みであることにも、勿論気がついてゐない。

 そして、なによりも、自分を生み育んだのは、自分が属する国や社会の歴史なのだといふ厳粛なる事実にすら、目をつぶらせる教育を受けさせられた被害者であることに気づいてゐない。そもそも、自分が大人になり、一端の社会人になつたのは自分の努力の賜物だくらゐに思つてゐるのだらう。

 天に唾するといふ喩がある、他山の石といふ言葉もある。人の振り見て我がふり直せとも言ふ。まづは全ては自分の責任と考へること。20年も生きてきたら、自分の人生や生まれを人のせいにするものではない。今日の電車のクーラーにせよ、遠慮がちに言つても平成の20年余り、原発のお世話になりつぱなしで、享楽的な(石原流に言へば我欲ですな)日常を送つておきながら、事故を起こした途端に、反原発だと勝ち誇つたやうに言へるそのいけしやあしやあとした態度が私は気に食はない。

 どうやつても、取りあへず我々は原発のお世話になるしかない。十年後二十年後を目指して代替エネルギーに移行して行く努力は必要だらうし、その点では多くの人々は脱原発であり、さういふ移行に反対はするまい。ただし、私には、それが可能なのかそのデータ一つないのだ。そのデータを、現実的なデータを示して、これこれかういふ筋道で脱原発を進めますと、さういふ方向を示すのが政治家の仕事ではないか。

 データもなしで浜岡原発を止め、或はデータがあつても我々国民に開示もせずに止めてしまひ、後はドミノ倒し、原発は次々に停めざるを得ず、といつて菅にはその後の青写真が何一つない。少なくとも我々に見せてくれない。この三カ月、その繰り返しに国民が苛立つてゐることなど、どうでもよいのだらう。総理の座にしがみつく保身と延命しか、菅の頭にはないと言はれても仕方あるまい。

 現実的データに基づく可能性を一つも示さずに、自然エネルギーを持ち出す菅総理も、総理に急にすり寄る孫正義も甚だ異様だと言つておく。原子力村の代りに自然エネルギー村が出来、その利権に群がる人間が出る、それだけのことであらう。機を見るに敏な孫と、延命を図る菅がつるむと言ふことか。やめてくれ。

 私は日本人の民族的資質からいへば、今回の危機など必ず乗り越えられると確信してゐる。太陽光等の再生可能エネルギーを廉価なものにする智慧も必ず絞り出すことだらう。そして、原発すらも、開発しろといふ国策があれば、地震・津波対策から再処理まで含めてほぼあらゆることを想定した「完璧」なものを生み出す能力すらあると思つてゐる。問題は、政治家がその青写真を書けないこと、或は書かうとしないことだらう。

 震災から三か月を経て、未だに避難所生活が8万人を越し(親類縁者に頼つた人々まで数へたらさらに多いわけだが)、にも拘らず、「増税だ、いや国債だ」と筋道を付けられずにいる。あまりにも無惨な行政の姿ではないか。前の記事にも書いた、リーダーは喩へ過てる目標であれ、少なくとも向かふべき目標を示さねばならない。それがなければ、如何なる集団も動かない、動けない。坐して死を待つことになる。それだけは、如何なる集団であれ、避けるべきではあるまいか――かつて集団を率ゐ損ない(?)、三百人劇場を潰して多くの恨みを買つた男の妄言である。
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by dokudankoji | 2011-06-15 01:34 | 雑感
2011年 06月 13日

総理のリーダーシップ

 以下、三月の下旬(26日か)に書き掛けた記事。粗雑且つ中途半端だが、そのまま掲載する。

   **********************************
 
 それにしても、この二週間、ネット上にもメディアにも情緒的な、あまりにも情緒的な言動のなんと多いことか。私は自分が情緒に動かされないなどといふつもりは全くない。むしろ涙腺は緩い、歳ととも緩くなり過ぎてゐるくらゐだ。

 たしかに、被災者への思いやりも優しさも大事なことは言を俟たない。原発反対表明もよからう。買い占めに走る心理も十分わかる。被災者への同情も援助も必要に違ひない。しかし、しかし、である。国家には、政府には、この国をどこに導くかを示して貰はなければならない。

 災害からの復旧あるいは原発事故収束が緊急の優先時であると共に、この非常事態に今わが国がどういふ事態におかれてゐるのか、その認識を示し、進むべき方向を示すのが国家の指導者の責務ではないのか。おそらく、それこそが一国の総理が第一になすべきことなのだ。国民が不安を感じ苛立つてゐるとしたら、放射能への不安だけではあるまい。このリーダー不在、リーダーからのメッセージの不在に苛立つてゐるのではないか。
 
 25日夕刻の菅総理の声明でも、そのことには全く、一言も触れてゐなかつた。上記二つの目前の危機への言及しかない。国家が存在しなくては国民は存在し得ないことを、今回我々は嫌といふほど味ははされた。そして、国民はこの国が再び生き延びることを心から願つてゐるはずだ。それに応へられぬものは政界に身を置くな。言論界にも身を置くべきではない。

 あへて情緒的な言動をものするとすれば、菅総理の声明には、国民への愛情が皆無といふこと。誰に向かつて語つてゐるのか、なにも聞こえてこない。被災者への思ひやりがあるとは、私には思へないのである。それなら、リーダーとしての覚悟や指針が示されたらうか? どちらもありはしない。あるのはただ自己愛だけだ。

 尤も、私たちに必要なのは同情や憐憫や思ひやりではない。この国の復興への強い意思と覚悟であることを繰り返しておく。人間に情緒は大切である。しかし情緒に浸る時期はもう過ぎた。ことに政治家には情緒的、あるいはヒステリカルな言動は慎んでもらひたい。リーダーに求められてゐるのは断固たる態度、決然とした意思である。誤解を恐れずに言ふ。たとへ過つた道筋でもよいのだ、一国のリーダに必要なのは、どこに向かつて進むか、その目標を示す義務がある。

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 以上が、3月の下旬に書きさしにしたまま、パソコンのデスクトップで眠つてゐたものである。

 その後も、菅総理は結局何一つ国の進むべき方向を示さず、国家像のかけらも示さぬまま、原発の初動では国民を守る意思のなきことを満天下に曝した。今や地位にしがみ付くことのみに汲々として、辞める辞めないの騒ぎだけで、一国の総理などととんでもない。ペテン師と呼んだら本物のペテン師達が怒りかねぬ程、図々しさを絵に描いたやうな茶番に明け暮れしてゐる。お遍路に再度出かける気があるなら、黄泉の国まで脚を延ばして頂きたい。

 そして、何度でも書くが、民主党を政権に付けた国民の愚かさに私はほとほと愛想が尽きてゐる。しかも、今になつて、民主党がここまで酷いとは思はなかつたなどと、いけしやあしやあと抜かす御仁とは口を利く気にもなれない。選挙権を手にしたばかりの子供ならいざ知らず、いい歳をした大人の言ふことではない。自分の見る目の無さをたんと恥ぢるがよろしい。バカも一票悧巧も一票とはよく言つたものだ。以後は投票所に足を運ぶのはお止め頂きたいものだ。

 私は次善三善の選択肢として、自民党(あるいはたちあがれ日本)しかないと諦めて投票してゐる。民主主義とはさういふものと諦めてゐる。自民党でもまだましと言ふのは、11日に貼り付けた、麻生政権における防災訓練をご覧になれば、少しは納得していただけよう。あの映像を見て何をお感じになつたか、お聞きしたいものだ。

 実は昨年秋に菅政権でも同じ訓練をやつてゐることを、フェースブックの「オトモダチ」が教えてくれた。映像もある。11日付の記事でリンクを張つた麻生政権下の訓練の別の短い映像(内容は同じ)と両方ここでリンクを張っておく。二人の首相、演習の真剣味のどこがどう違ふかは見る方の判断にお任せする。「未曾有」の読み方をどうのかうのと騒いでゐたのが懐かしい。といふか、バカバカしくなる。今次災害ほど、一国の総理に必要なものが何かを分からせてくれたものはないであらう。

 ところで、冒頭の3月下旬の記事だが、最初は「情緒的な、あまりに情緒的な」といふタイトルで書き始めた。書き出してすぐに方向が変つたのだと思ふが、この三カ月、メディアも我々も余りに情緒に偏り過ぎた言動が多いのではないか。自分を例外とせずに言ふが、余りの災厄に我々は集団ヒステリーを起してゐはしまいか。自戒の意味も込めて記しておく。
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by dokudankoji | 2011-06-13 00:49 | 雑感
2011年 06月 12日

現場の力は強靭

 国内メディアは、かういふことももつと伝へるべきではなからうか。中央が麻痺してゐても現場は着実に「現実」に向き合ひ対処してゐる。さうであればこそ、希望が持てる。政治家などに期待するのは止めた方が賢明か。このリンクの写真、ご覧下さい。
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by dokudankoji | 2011-06-12 14:00 | 雑感
2011年 06月 11日

福島第一原発における防災訓練

 何とも空しくなる。二年半前の麻生政権下で行はれた、福島第一原発における防災訓練。今次の状況をほぼそのまま「想定」して防災訓練を行つてゐる。にも拘らず今我々がなほ固唾を呑んでいきさつを見守らざるを得ないのは、「想定外」の災害ゆゑか菅政権の責任か。それとも防災訓練など結局役に立たないといふ見本か? やはり、しつこく言つておきたい。民主党は政党の態をなしてゐない。民主の政治家は政治家に「責務」があることを知らない。

 訓練では総理以下多くの閣僚、福島県知事、大熊町浪江町双葉町等の町長から自衛隊まで参加してゐる。この防災訓練が活きなかつたのか、訓練があつたことすら官僚を含めて忘れたのか、官僚が進言しても政府が耳をかさなかつたのか……。訓練の成果が活きないほどの事態であつたなら、「想定外」といふことになる。さうでないなら、やはり民主政権の責任であり、だとしたら、その責任不履行は如何にして償はれるのか。いづれにせよ、冷静に考へたら結論は明らか。災害から三カ月を経ての現状に鑑みれば(菅がみれば!?)菅総理のみならず、内閣は総辞職すべきであり、民主党は懺悔して下野するしかない。 

 以下、ニコニコ動画、是非ご覧いただきたい。ユーチューブにもリンクを張った


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by dokudankoji | 2011-06-11 02:25 | 雑感
2011年 06月 05日

グロテスクな話(6日午前1:00追加訂正あり)

 昨日、仙台から出張で横浜に来た友人と話した。かの地に暮らして3月11日以来の日常を送つてゐる人の目には、横浜のにぎやかな雑踏が異様に映つたらしい。被災地で何もかも無くして苦闘を強ひられてゐる人々、その人々を支へてゐる人々、さういふ世界が一方にあり、他方、三月も経たぬうちに、あの災害などなかつたかのごとき日常が存在してゐる。

 知人曰く、確かに被災地ではない関東や西の人々が元気で、夜の繁華街の賑はひを含めて活発な経済活動が必要なことは十分わかる、しかし、両方の世界を観てゐると何が現実か分からなくなるし、横浜の繁華な世界がグロテスクなものにも思へてくる、といふより、二つの現実が同時に存在する姿自体がグロテスクに思へる、といふのだ。

 その通りだと思ふ。私自身は、震災から一月余りのころ、渋谷の雑踏を歩いてゐて殆ど反吐が出さうな不快を感じた。以来、さういふ雑踏を避けたくなつてゐる。勿論、私も仕事で酒を飲みに繰り出すこともある。先日も、秋にある舞台の打ち合はせのあと、二時間ばかり飲んだが、仕事の話が片付けば、やはり、会話はおのづと地震や原発、政府の対応や政治家の無能に話題が移る。が、世間一般を見渡すと、私の感触では、今次の災厄を既に過去のものと感じてゐる人が多いやうな気がする。学生と話しても、さう感じる。

 ついでに、仙台の知人からをかしな話を聞いたので書いておく。被災者への国からの支援額が、家屋の全壊には取敢へず100万円、半壊の場合が、確か50万円、支給されてゐるさうである。全壊家屋の持ち主が家を新築しようとすると、さらに200万円の支援があるとのこと。

 それはよいのだが、アパート暮らしの学生が、そのアパートが津波で流された場合にも100万円が支給され、流されたアパートの大家は、居住家屋喪失ではないから一銭も支給されないといふのだ。仮に大家が高台の粗末な家に住んで家賃収入だけで暮らしてゐても、アパート再建の支援もなされないといふ。

 学生には一時的に頼る実家もあらう。流された家財の額もたかが知れてゐよう。再建の必要もなく、どこかに家賃数万のアパートを見つければ済む話だらう。彼らに100万円が支払われ、半壊家屋の持ち主には50万円、どうみてもをかしな話だ。

 私の知人の知人で、某市役所の支給窓口担当者の言では、そんな学生の中には、「いいんですか、こんなに貰って」と言ふものもゐるといふ。そこまで聞いて、釈然としないで腹を立ててゐた私も少しホッとした次第。だが、これもやはり何ともグロテスクな話ではあるまいか。

 いかなる制度にも完璧はなく、常に不合理が付きまとふ。だが、政府はもう少しきめ細かい支援体系を構築すべきではないか。民主党の茶番を観てゐると、ついついこれも「やつぱり民主党政権だから」とケチを附けたくなる。義捐金なら被災者に一律50万円とか、どれほど大雑把でもよいと思ふ。それはわれわれ個々人の自由意思で募金したものなのだから。が、政府からの公的支援は、なんだかんだ言つても、国家の財産からの出費であり、我々の税金を使ふのだから。

追加訂正:
知人より「学生に払われる金額は全壊で75万、大規模半壊で37.5万でした。一人の世帯だと若干安くなっています。でも、話の筋に影響はないでしょう。引越して別の賃貸に行くとさらに37.5万円もらえるのだから」と訂正と言うか、さらに「酷い」話だとメールを貰つた。75万と37.5万、足せば、112,5万円だ……。詳細は以下のページをご覧下さい。
http://www.city.sendai.jp/hisaishien/1-3-1saiken.html
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by dokudankoji | 2011-06-05 16:56 | 雑感
2011年 06月 04日

三島さん~個人的感想

 角川シネマ有楽町で三島由紀夫の映画特集が終つた。行かう行かうと思ひつつ殆ど果たせず、2日に授業の合間を縫つて(と言へば聞こえが良いが、実際は逆で映画の合間を縫つて授業をしたのだが)、漸く二本だけ観た。昼過ぎから「憂国」、授業からとんぼ返りで夜は「人斬り」。

 映画評をするつもりはない。

 「人斬り」を観て、さすが三島の殺陣は見事と感心しきり。様になつてゐるどころか、他の出演者を圧してゐる。群を抜いて美しい、型が決まる美しさといふべきだらう。また、剣を使ふ時の三島の目がいい、気合ひが違ふ。気迫が違ふ。澄んだ眼をしてゐる。自決を内に秘めてゐる、などと言ふつもりは毛頭ない。

 三島ファンに期待を持たせておいて、肩透かしを食はせるやうなことを書くことになる。この映画を無理して観ておいてよかつたと痛切に感じてゐる。どういふことかはさておき――

 三島といふと、どうしても、その最期が強烈なイメージとして残る。昭和45年の11月25日を経験した者にとつては、それ以前の三島、昭和30年代までの三島の記憶のみに戻ることはできない。そして私もその例外ではない。三島といへば、まさに憂国の士であり、一命を賭してこの国を覚醒させやうとした、あるいは覚醒の望み無きことを憂ひて死を選んだ、さういつたイメージが浮かぶし、それを払ひのけることも難しい。

 だが、彼の死につて、解釈はどうにでも出来るし、同時に、人の死はいかなる解釈も拒絶する。殊に三島のあの死についてはさう言へる。私は何の解釈もしない。ただ、この40年といふもの、いつも私の心の中に何か澱のごときものを感じ、三島といふとどうにも落ち着かない。受け止めきれないものを感じてゐたとでもいはうか。

 そして、このひと月、プリントアウトした映画のスケジュールと自分の都合とにらめつこしつつ、2日まで足を運べずに漸く最後の最後に二本だけ観たといふ次第である。

 「人斬り」。薩摩藩士の人斬り新兵衛を三島が演じてゐるわけだが、その立ち回りを私は大いに楽しんだ、が、何よりも驚いたのは、生身の三島が演じてゐるのを見るうちに、自分が子供だつた時に僅かながら触れた三島本人が急に懐かしく思ひ出されたことだつた。

 殊に勝新太郎演ずる岡田以蔵が土佐藩(武市半平太)から酷く扱はれ、酒屋の飲み代すら出してもらへ無くなつて、酒に酔つたまま男泣きに泣き続ける場で、新兵衛が「お前の飲み代くらゐ俺が全部出してやるよ」と言つて慰める(このセリフ回し、下手だつた)のだが、その場の三島が実に「よい」。

 不器用な人柄、真面目で誠実で照れ屋で……三島由紀夫が素になつてゐる姿がちらちら見える。演ずることのプロではない三島が、剣を取る場面では得意の太刀捌きや構へを披露してくれるわけだが、それは居合といふ形に従へるだけに、型に嵌るだけに、つまり型に支へられてゐるだけに破綻がない。ところが、以蔵に優しくする場面では従ふべき型がないだけに、三島は素面を見せてしまふ。

 この瞬間の三島の照れは、他人がどう言はうと私には確信がある。芝居の稽古場で役者の演ずる姿と表情を見続けて来た身としては、その演技の背後に、役者が隠しおほせずに垣間見せる生身の肉体と精神が必ずある。それを見抜く自信だけは私にもある。監督の五社英雄は恐らく、その生の三島を気に入つてゐたに相違ない。

 さて、その素面の三島、仮面の告白ならぬ、素面での告白――さう、三島さん、あなたは優しい人だ。これは私の思ひこみなのだらうか。そんなことはどうでもよい。その場面を観ながら、私は「ああ、これだ、これが昔知つてゐた三島さんだ、長い間、あの事件以来、その衝撃に私の内心に封じ込められてゐた三島さん、その三島さんがここにゐる」、さう得心し、何とも言へぬ愉快な暖かな空気を味はつた。ホッとしたといふのが一番近いかもしれない。

 結局、人は人を思想で理解などできはしない、さういふことなのではないか。思想を超えた、思想の根つ子に存在する人そのもの。そこまで降りて行けたら幸せといふものだらう。他の人々が三島由紀夫をどう理解しどう愛しどう付き合ふか、そこまで立ち入るつもりは私には毛頭ない。ただ、「人斬り」を観て、三島由紀夫が私の中で漸く「三島さん」に戻つてくれた。それだけのことだ。さうであつても、その切つ掛けが自決前年制作の「人斬り」であり、「人斬り新兵衛」役だつたといふのは随分皮肉な話なのだらうか。
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by dokudankoji | 2011-06-04 01:56 | 雑感
2011年 06月 02日

お報せ二つ

 6月1日発売の「正論」の7月号のインタビュー記事、「ひと往来」欄で玉川大学から刊行を始めた「福田恆存対談・座談集」を取り上げてくれた。書店で立ち読みを、と申しては「正論」に申し訳ないので、是非ご購入を。「ひと往来」欄は巻末に近い見開き二ページです。

 もう一つ。お江戸のタウン誌に月刊「日本橋」といふ小冊子がある。やはり6月1日発売の6月号にエッセイを書いた。「粋人有情」といふコーナーだが、このブログを始めたころに取り上げた話題の「焼き直し」。しかし、2000字を書くのに改めて三日間の読書をしました。

 ご興味のある方は、日本橋方面の名店をお訪ねになれば手に入るとのこと。うなぎの宮川とか、蕎麦の砂場とか。どら焼のうさぎやとか、三越、高島屋、上げ出したら切りがありません。
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by dokudankoji | 2011-06-02 01:20 | 雑感


    


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