福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2011年 05月 21日

ウォール・ストリート・ジャーナル日本版

 WSJの社説が毎回面白い、リンクして紹介しておく。いつも皮肉が利いてゐる。たとへば、≪菅直人首相は、こうした場合の長年の政治手法だった「舞台裏取引」が苦手だとお見受けする。民主党は、何をしたいのかについて本当に混乱しているようだ。彼らは、緊迫した記者会見やインタビューのカメラを前にして、「党内」議論をやっている≫産経新聞ではないかといふくらゐ、意地の悪い書き方。

 また、東電を破産させないのは「社会主義」国家と断じ、自由市場原理からいへば文句なく破産させて当然といふ発想である。私にはことの是非を論ずる資格もないが、JALについてもTEPCOについても、日本は常に護送船団的社会主義国家であることは事実に思へる。

 そのことはさておき、確かめたわけでもないが、この社説、原文は英語だと睨んでゐる。翻訳調がかなりある。さもなければ、帰国子女が英語脳で考へて日本語で書いてゐるに違ひない。悪文の好見本と言つたら言ひ過ぎか。リンクした社説の最後の一文(そしてその一段落全部)をご覧いただきたい。何度読み直してもここだけはピリッとしない。頭にすんなり入らない。恐らく翻訳が悪いのだらう。

 褒めたいのか貶したいのか、自分でも分からなくなつた、この辺で止めておく。
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by dokudankoji | 2011-05-21 23:26 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
2011年 05月 15日

御冥福を祈る

 拓殖大学大学院地方政治行政研究科教授・花岡信昭氏(元産経新聞論説副委員長)が急逝された。何ともやりきれぬ気持である。煙草をよく嗜まれた、それも急逝の原因だらうか。毀誉褒貶相半ばする方ではあるかもしれないが、私は彼の憎めぬ人柄が好きである。「憎めぬ」と思ふのは、私と意見の一致することが多かつたからだらうか。偏屈なところもあるが、筋を通さうとするところはなかなかのものだつた。

 時に物議を醸し、時に荒つぽい言論もあつた。しかし私は彼の書く記事が好きである。以下、彼のメール・マガジンの最近のものから二つ引用して追悼の意を表する。
   ***********************************
<<「浜岡停止」をめぐる理不尽さ>>
 中部電力にはなんとかがんばってほしい。菅首相の理不尽な「要請」に負けてしまっては、民主主義は成り立たない。

 このままいくと、中部電力は浜岡原発の全面停止に追い込まれるだろう。そこで生じるあらゆる負担増について、菅首相から「すべて政府が面倒を見る」という確約を得ての話なら、まだ企業のありかたとしては許されるだろうが、それがなければ株主代表訴訟が起こされるのは目に見えている。

 政府部内でとことん検討したフシもないし、この夏の電力不足にどう対応しようとしているのか、まったく見えてこない。

 要するに、世間受けをねらった菅首相のパフォーマンスなのだが、これが民主主義の時代の国家指導者のあり方か。

 民主主義というのは手間がかかるものだが、そこを抜きにして、一方的に「要請」の名のもとに事実上の「命令」を民間企業に対してくだす。

 これは民主主義ではない。独裁に通じる。

 民主党も民主党だ。浜岡原発全面停止の方針に対して、一般の受け止め方は好意的であると見ているためか、首相判断に対する厳しい声があまり聞こえてこない。

 ことは浜岡原発の問題にとどまらない。首相が法的範囲を超えて、政府部内でまったく調整が進んでいないことを独断で打ちだす。

 そのことへの深刻な危機感が見えてこない。民主党は議会制民主主義にのっとった政党であるのかどうかが問われているのだ。

 繰り返すようで恐縮だが、内閣総理大臣に中部電力に対して浜岡原発停止を命ずる権限はない。その法的に認められていないことを独断で打ちだしたのだ。

 経済産業大臣を通じての要請である、というのは建前であって、事実上は、夜の緊急記者会見で突然打ち上げたのだから、これは独裁者的首相の「命令」だ。

 中部電力は最後までがんばってほしい。ここで負けたら、日本の民主主義は壊滅するぐらいの気持ちになってほしい。

 菅首相が本当に浜岡原発はあぶないと見ているのなら、政府関係当局で徹底して議論、調整して、きちんとしたデータに基づいた対応策を出せばいい。電力不足をどうまかなうのかの計画案を示せばいい。

 そこのところがすっぽりと抜け落ちているから、独裁者の手法に通じてしまうのだ。

 だいたいが、首相が夜の緊急会見で打ちだしたものを、民間企業である中部電力がただちにしたがわなかったことで、首相の権威はまるつぶれになったのだ。

 となると、このあと、首相がどういう行動に出るのか、そこが怖い。権力の行使はできる限り抑制的であってほしい。それが民主主義の鉄則だ。

 手間と時間がかかろうとも、納得づくでことを進める。それが民主主義ではなかったのか。(以上。5月9日付)

 次に4日付の記事。
 
 <<ビンラーディンは「容疑者」なのか>>
 
 米軍特殊部隊によって殺害されたウサマ・ビンラーディンについて、読売新聞を除くメディアは「容疑者」という呼称をつけている。事件の被疑者につけられる表現と同じだ。

 ビンラーディンは容疑者なのか。

 米軍の武力行使は「9・11」を受けた国連決議に基づくものだ。いくつかの決議を受けて、まずアフガニスタンのタリバン政権を放逐、次いでイラクのサダム・フセインを成敗した。

 議論があることは承知しているが、米側は一連の武力行使を国連決議に基づく当然の権利としている。日本も米側の行動を支持し、インド洋での給油支援やイラクへの自衛隊派遣など、それなりの一体的行動を取った。

 民主党政権になって、給油支援が停止されるなど、ニュアンスは変わったものの、日米同盟の基軸に変化はない(と民主党は言っている)。

 ビンラーディン殺害は、米軍の戦闘行動の主たる目標を成就したものだ。事件の犯人を追跡して発見した、というのとは事情が違う、いってみれば、「敵の最高司令官」を追い詰め、そのクビを取ったのである。

 これが戦争というものだ。誤解のないようにしておかなくてはならないが、アメリカは「9・11」という同時テロ「事件」の捜査を行っていたわけではない。

 アルカイダを率いるビンラーディンが最高首謀者であるとして、その行方を追っていたのであって、これは戦闘行為である。

 だから、「なぜ逮捕しなかったのか」というのは、ちょっと筋が違う。

 それにしても、米特殊部隊のレベルはすさまじいばかりだ。ヘリ1機が故障、ブラックフォーク・ダウンのようなことになったらしいが、米側に死者は出ていないようだ。

 ヘリから特殊部隊が降下して豪邸に突入、ビンラーディンを発見し、銃撃してきたため射殺したという。戦闘行為である以上、正当防衛、緊急避難の原則にあてはまらなくてもかまわないのだが、米側のそういう説明でいいのではないか。

 ペルーの日本大使館占拠事件では、当時のフジモリ大統領の命令で特殊部隊が地下道を掘って突入、テロ集団を全員殺害した。なぜ、生きて逮捕される者が皆無だったのか。

 これは、奪還テロをふせぐためともいわれた。このケースもこれだけ甚大なテロに対しては妥当な決着といえた。

 ビンラーディンの遺体はDNA確認後、水葬されたという。本当のところは分からないが、これもこれでいい。イスラムの習慣にしたがって土葬すれば、遺体奪還テロが起きてしまう。

 「9・11」以後、アメリカは戦時下にあるのだという厳粛な事実を直視しないと、一連の事態を理解できないことになる。
   ***********************************

 この思ひ切りのよい切り口に再び接することが出来ないのかと思ふと残念でもあり寂しくもある。改めて御冥福を祈る。
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by dokudankoji | 2011-05-15 22:19 | 雑感 | Trackback | Comments(2)
2011年 05月 09日

ボランティアに思ふ

 ボランティアといふ言葉が我が国に定着したのがいつ頃のことか、はつきりは分からぬが、一気に「普及」したのは阪神淡路大震災からではないか。ボランティアを悪しきものといふつもりはないが、朝日産経両紙の記事を見て考へ込んでゐる。まづはリンクの記事を見て頂きたい。

 ボランティアが自己犠牲を必要とするものか、それぞれが出来ることをすればよいといふ程度のものか、そこも考へてみる必要がありさうだ。人がなかなかしたがらないことを、自らの意思で率先して行ふのがボランティアだとすれば、連休の時に、自分のやれることをやれる期間だけやらうといふのも、頷ける気もする。同時に、それは変だ、自分の都合だけでやるのでは、一歩間違ふと自己満足自己欺瞞に陥りかねないといふ気もする。

 といふか、正直なところ、私には何の結論もない。だが、皆さんこのことは如何がお考へだらう。つまり、今回の災害は総じてボランティアの手に余る事態なのでなからうか、行政の介入なしでは復興の「手伝ひ」は無理なのではないか、といふこと。

 余りにも甚大で広範囲に亙る被害、その結果として、必要とされる仕事が余りにも複雑で多岐に亙る今回の現場で、組織化の難しい「ボランティア」なるものの力が発揮されず、連休になつた途端に整理が付かぬほど人手が余り、一時受け入れを中断し、連休明けには人手不足に陥る、これでは、ボランティアの精神から外れかねない。

 比較しては怒られるかもしれないが、自衛隊、警察、消防といつた自己完結型といふだけではなく、組織化され且つ国民に義務を負つた集団が必要なのだらう。とはいへこれらの集団が被災者の自宅の整理までやれるわけはない。これといつて私に名案があるわけではないが、やはり政府が被災地域の行政と綿密な連携を取つた上で、各被災県の臨時職員を雇ふといつた発想が必要なのではないか。

 一昔のニートといはれる人々を初めとして、現在職のない人々を組織的に雇ひ、宿泊施設と食事付きで、ごく低い賃金でボランティア的に働いてもらふといつたことも考へられるのではないか。勿論、被災地で必要とされてゐる人手とこれらの人々の労働意欲や奉仕意欲が引きあふか、私にも分からない。トラブルが起きないかといふ疑問や不安も残る。ただ、人に感謝され必要とされることが労働意欲の根源となることも否定はできないし、少なくとも、連休が終わると共に潮の引くやうに激減する「ボランティア」の代りになる可能性はあるのではないか。

 そして、政府は原発がらみのパフォーマンスではなく、地道な復興にも目を向けてもらひたいと切に思ふ。

 最後に被災地で聞いた話を一つ。まだ4月のこと、東京から美容師の一団が避難所にボランティアとして来たといふ。避難所には約30名の被災者。ボランティアの美容師たちの数が60名。悲喜劇といふ外ない。組織化しなければ折角の善意も無駄であらう。その一行、持つて来た支援物資も置いて帰つたさうだが、どれもこれも避難所に有り余つてゐる品々ばかり、処分にも困つたらしい。折角のエネルギーを無駄にせぬ方法はないのだらうか。
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by dokudankoji | 2011-05-09 22:55 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2011年 05月 08日

曖昧な言葉~「安全神話」と「想定外」

 ≪安全神話≫
 殆ど流行語。「安全神話が崩れた」と、あちこちで色々な方が色々な立場でお使ひになる。でも、何か変ぢやありません? そんなこと、論理的にあり得ません。神話が崩れる? みなさん、神話は神話でせう。まさか本気で神話を史実や事実や真実とは取り違へたなんてことはないでせう。我が国の皇室が神話の世界に繋がつてゐることを私は幸せな国柄と寿ぐのにやぶさかではない。でも、まさに「あり得ない」くらゐに「有難い」から神話なので、あり得てしまつたら、神話ではあり得ない。言葉を遊んでゐるのではありません(いや、ちょつと遊んでゐます)。

 もう一度――絶対にあり得ないか、あり得ないくらいに有難いから、神話と呼ぶ。そこで、本題。「原発の安全神話」といふ言ひ方だが、「あり得ないから神話と呼ぶ」といふ私の「現代的」命題が正しければ、「原発の安全神話」といふ言ひ回し自体に、既に「原発には絶対の安全などあり得ない」といふ意味を込めて使つて来たはずでせう? それが「崩壊」するとどうなります? 「絶対に安全はあり得ない」といふ概念が「崩壊」したといふことだから――つまり「あり得ない」といふ概念が「崩壊」したのだから、「絶対の安全」は「ある」となつてしまひませんか? すなはち、「安全神話」が「崩壊」したなら、残るのは「絶対的安全」のみとなる。

 「安全神話」などといふ四字熟語を曖昧に使つてゐるから、「神話」を信じ込むか、信じたふりをするのです(原発推進派は前者、メディアは後者、いやどちらも後者か)。さて、さうなると、「安全神話が崩れた」などと今更のやうに騒ぎ立てるのは、メディアにしても原発反対派にしても余りにもわざとらしくはありませんか?

 元々、私達は原発の危険を、それぞれの立場でそれなりに認識してゐたのでは? 後進国ロシアはさておき、アメリカがスリーマイルでドジを踏んだ。同じやうなことが日本に起きないと本気で思ひ込んでゐたとしたら、それは相当の愛国者なのでせうね、自国を信じ過ぎです。

 原発に頼る外には我々が享受してきた贅沢な科学文明はあり得ない。それこそ「神話」の世界だ――ともあれ、資源貧国の我が国では化石燃料に頼るわけにいかず、といつて太陽熱などのクリーンエネルギーはまだ代替エネルギーとして実用には程遠い――そこで、仕方なしに危険でも原発に頼るしかない、さう思つて来たのが昭和から平成への半世紀ではなかつたのか。あるいは、今回の事故を経てもなほ、原発全廃は不可能と分かつてゐる、だから当座は頼らざるを得ないことも分かつてゐるではないか。

 言葉の綾といふものがある。そんなものは文学の世界に任せておけばよろしい。この二カ月で我々が思ひ知つたのは、政治家と科学者とメディアの世界は言葉の綾の世界にゐてはいけないといふことだらう。「安全神話」などといふ、本来何を意味してゐるのか、曖昧を通り越して意味不明の言葉で原発を語ること自体、無責任のそしりを免れない。

 「安全神話」ではなく、「原発への安全信仰」とでも言つてゐたなら、信仰が崩れるのは少しも無理はなく、原発教(狂)の信仰崩壊は無理な言ひ回しではなかつた。あるいは、「原発の安全はやはり神話だつた」と言へば、少しもをかしくもないし、曖昧でもなく矛盾もなかつたのだが。

 ≪想定外≫ 
 これも、バカバカしい。政治家や科学者に軽々しく使つて欲しくない。曖昧な言葉、あるいは言葉の曖昧な使ひ方なら、私のやうな文学畑(お花畑みたやうなもの)にゐるおめでたい人間に任せておきなさい。

 ただ、この言葉も一度よく考へておきませう。今回の地震も津波も「想定外」だと多くの人々が口にした。地震学者、歴史家、政治家、メディア、それこそうんざりするほど目にもしたし耳にもした。確かに千年に一度の巨大な災害は想定外だつたかもしれない。マグニチュード9も15メートル20メートルの津波も想定は出来なかつたらう。日本人全て、我々一人の例外もなく、想定出来なかつた、想像できなかつた。

 しかし、「政治家や科学者は」、とメディアも≪友愛の伝道師≫鳩山も宣ふ、「想定外といふ言葉は使つてはならない」と。その限りにおいてその通りである。
 
 私はここで文学畑の立場を発揮して呟きたくなる。「人生、すべて想定外なんだがなぁ」。政治家も科学者もメディアも、この大震災を経験して、今後はあらゆる事態を想定出来るのだらうか。浜岡原発を止めさせれば、それで事足りるのだらうか。

 今回の大震災を、少なくともその結果としての被害を、人間は想定できなかつた。そのことはこれからも同じではないか。これ以上の被害が起こることを私達は想定出来るのか? 言葉の綾で書いておく。想定といふ言葉が存在するといふことは、私達が想定以上・想定外のことを既に想定してゐるといふことだらう。「安全神話」と同じロジックだ。

 福島の海岸線に20メートルの津波の再来を想定しようと、浜岡原発を襲ふマグニチュード9の地震と15メートの津波を想定しようと、もしもマグニチュード9.5とか10とかの異常な規模の地震が起こつたら、もしも50メートルの巨大津波が起こつたら、再び「想定外」とメディアも政治家も科学者も言ふのだらうか。想定出来なかつた科学者や行政をメディアが批判するのだらうか。

 そんな巨大なものはあり得ないと、そこまで大げさに言つてあげつらふ必要はないと、さう言つた途端に、我々はこの間の出来事を想定外と呼ぶ自由を容認してしまふことにならないか。つまりマグニチュード10や50メートルの津波をバカバカしいといふなら、今回の地震も津波もやはり、想定するのがバカバカしい程の「想定外」だつたと言つても許されることになる。これは言葉の綾だらうか。

    ************************************

 民主党政権がここまで酷いとは思はなかつた、こればかりは想定外だつた、などといふことも言つてはなるまい。メディアも有権者も一度考へておいてほしい。民主党政権ではなかつたら、震災と原発事故の初動において、災害をここまで大きくしたか、殊に原発の冷却水の放水の順序を間違へたこと、そしてパフォーマンスとして自衛隊のヘリによる放水を命じて、貴重な時間をロスした民主党政権が国民を危険に曝し、海外の不信を買つて国の名誉を汚したことは否定できまい。多くの識者が言ふがごとく、放水の専門は消防庁であらう。

 ついでに書いておくが、自衛隊は災害救助隊ではない。それが第一の使命ではない。今回十万人といふ全兵力の半分近くが駆り出された。国防が手薄になつたことは否定できない。それでも、なんとかこの国が存在するがごとくに見えるのは、アメリカがゐるから、それだけのことだ。

 ついでにこれも想定してみて頂きたい。数ヵ月後、南海・東南海に、或は首都直下に巨大地震が起きたら、十万人の「災害救助隊」で事足りるのか? 自衛隊を今の倍の組織にしなければ、到底この国は自国の力で救助も復興も出来ない。その程度のことは大人なら、いやせめて政治家は「想定」しておいてほしい。

 それを自民党も含め、年々防衛予算を削り、仕分け、自衛隊の兵員削減をしてきた。想定外のことではなく、容易に想定出来ることを想定しないのであれば、政治家もメディアも相当程度劣悪といふことであり、それを生み出した我々国民も、それらに相応しい劣悪な国民だといふことであり、私達はさういふ劣化した時代を生きてゐるといふ、せめてその程度の認識はしておくべきだらう。

 さうなると、七日付朝日新聞朝刊のオピニオンのMなる早稲田大学教授の言論は寝言としか思はれない。引用する。≪……災害派遣活動の評価は自衛隊の「軍」としての肯定を意味しない。/日本がいま直面する危機は、未曾有の大災害と原子力災害である。自衛隊の「軍」としての属性を徐々に縮小し、将来的には海外にも展開できる、非軍事の多機能的な災害救援隊に転換すべきではないだろうか。≫

 寝惚けてゐるのか、世界の現実を知らずに書いたのか。今回の災害で自衛隊があれだけの活躍をしてくれたのは、まさに「軍」としての属性を有してゐたればこそ、この余りにも自明のことが憲法大好き人間には分からないと見える。迅速大規模な機動力は軍事訓練ゆゑの規律から生まれたものである。その議論は措くとしても、例へば十万人が出動できる「救援隊」を維持し続けるとして、その出動が千年に一度の災害を想定してゐたら、国民は一体総員何人の救援組織を維持し続ける気になるだらうか。それが何万人であらうと、簡単に仕分けられて、一万人程度を維持する意思すら国民は失ふであらう。

 二十万、三十万の軍隊を維持して初めて、未曾有の災害になんとか対処できた(出来たのかどうかの検証は今後の絶対条件だが)といふ現実が、このMといふ憲法学者には見えない。多くの国民が今回漸く気がついた現実に学者は未だ目をつぶる。嗚呼。
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by dokudankoji | 2011-05-08 21:45 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
2011年 05月 05日

やはり中国は

 簡単に紹介だけしておく。「震災の陰で土地を買い漁る中国」。やはりさうだつたか。買ひ漁る中国にせつせと売つてゐるのは誰だ……。この浜田和幸議員のホームページをご覧あれ。
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by dokudankoji | 2011-05-05 00:21 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2011年 05月 03日

朝日新聞主筆反省の弁

 若宮敬文が朝日新聞の主筆になつてしまつた。始末に負へない。五月一日の朝刊に、「ジャーナリズム精神を支えに 主筆就任にあたって」といふ就任の弁を述べてゐる。中身は殆どないのだが、気になるところを二ヶ所挙げておく。

 ≪震災で見直された和の精神や海外の支援ムードを活用し、新たな国際協力へ旗を振ろうではないか≫とある。和の精神が見直された?――それは例へば、盛んに喧伝される被災所での東北人の我慢強さのことか? ボランティアの活躍のことか? はつきりしない。かういふ曖昧な言葉遣ひが私は嫌ひだ。「海外の支援ムード」とは何のことだらう。海外の支援にはムードのみで実態が伴はないといふ意味か。米軍の協力はムードどころではあるまい。人口が3000万に届かない台湾からの義捐金140億もムードか。

 さらに、「精神」や「ムード」を「活用」するとは、どういふ意味なのか私にはトンと分からぬ。ボランティアの「底力」とか、米海兵隊の「機動力」とか、あるいは強靭なる精神力を備へた自衛隊の有する「団結力」とかなら、これは問題なく被災地の救援にも復興にも「活用」出来る。が、抽象的な「精神」やら「ムード」はどうやつても「活用」出来るものではない。「ムードを活用する」、普通言はぬだらう。

 若宮氏は未だに自衛隊も米軍もお嫌ひなのだらう。多分それらの活躍を称賛したくないのだらう。「活用」したいのは、援助しますと言ふ舌の根も乾かぬうちにヘリを飛ばして来る中国の、なんとはなしの援助・同情ムードなのではあるまいか。それを「新たな国際協力」だと呼びた気な一文ではないか。相も変らず、そんなことの「旗振り」をしたいだけだらう。普天間・辺野古には相変らず反対だらうし、尖閣諸島や竹島に対する我が国の領有権については出来るだけ曖昧にするのが「新たな国際協力」だとでも言ひたいのであらう。

 もう一ヶ所、少々長いが引用する。≪一つ反省を書いておこう。自民党による長期政権のよどみから脱して日本の民主主義を本物にするため、政権交代への期待を語り続けてきたことだ。その基本線が間違っていたとは思わないが、でき上がった民主党政権の実態には次々と期待を裏切られてきた。「想定外」とは言いたくないが、予想を大きく超えた不覚。日本政治に成熟と活力をもたらすにはどうしたらよいか、選挙制度を含めてもう一度「政治改革」のやり直しを求めていきたい。≫

 火事場泥棒といふ言葉はそのままここに当て嵌まらないが、大震災といふこの災厄と原発問題といふ「想定外」の事態を利用して、今なら民主党にレッドカードを突き付けられる、朝日の軌道修正が図れると言はんばかりの「反省」ときた。気楽な事を書いてくれるな。

 朝日と毎日とNHKと、これらの大津波級の怪獣メディアが寄つてたかつて生み出した民主党政権だらう。付和雷同する有権者の輿論を操作し、民主党を政権に付けた元凶は、「政権交代」といふ「ムード」を醸成したメディアではなかつたか。

 「基本線が間違っていたとは思わない」なら、どこが間違つてゐたのか。「基本線」とは何を指すのか。自民党政治を終わらせることか? 民主主義を本物にすることか? 民主主義とは何か。本物の民主主義とはどこに存在するのか? 民主主義などと、要は理想すなはち幻想に過ぎないではないか。眼をさまさう、若宮さん。民主主義など、次善の政体。取敢へずの政治形態に過ぎないだらう。それを至上命題にしたのは占領軍であり、占領軍のお先棒を担いで我先に民主主義を喧伝したのは、戦前、大政翼賛的的な一億総玉砕を煽つた新聞ではないのか。朝日新聞の縮刷版で戦前戦後の記事を見て頂きたい。

 敗戦を境にコロリと変身した朝日が、震災を境に再びコロリと変身する。かうも安易に「反省」の弁を書かれたのでは、こちらも言葉に窮する。「民主党政権の実態には次々と期待を裏切られてきた」とまで仰るなら、それを推進してきた朝日新聞としては、これからどういふ道筋を描くのかを、はつきり書いてほしい。暗愚な私に歩むべき道筋を示してほしいものだ。「想定外」とは言ひたくなくても、やはり「予想を大きく超えた不覚」と仰る。どこがどう「予想を超えた」のかはつきり書いてもらいたい。

 自民はダメ、それはさうだ。民主はもつとダメ、これも確か。それでは、どうすればよろしいのか。私に分かつてゐるのは、少なくとも民主よりは自民の方がまだマシといふこと、そして、民主主義とは、少しでもマシな政治を(メディアの扇動なしに)国民が自ら選択出来る政治形態だといふことくらゐだ。

 反省の弁、最後の一文も引つ掛る。「政治改革」などと曖昧な言葉ではなく、はつきりどういふ政体、政権がお気に召すのか書いたらよろしい。自民が「よどみ」、民主は「予想を大きく超えた」といふなら、どこに何を望むのか、誰にどう政治改革の「やり直しを求め」るのか、そこのところこそ明確であつて欲しいのだが。若宮氏にも、一日付の私のブログ記事を呈上しておく。戦後を置き去りにした災後はあり得ない。朝日の場合、戦前の扇動を置き去りにした戦後も災後もあり得まい。

 コロリと、あるいはソロリと舵を切つて右旋回するつもりか、民主離れを正当化するつもりだけなのか、私には今のところ見当がつかない。だが、朝日が何か目論んでゐることだけは間違ひなからう。
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by dokudankoji | 2011-05-03 02:04 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
2011年 05月 02日

義捐金に思ふ

 大震災への義捐金が二千億円を超えて集まつてゐるといふ。結構なことだとは思ふが、天邪鬼な私のこと、募金だチャリティーだと言はれると直ぐに疑問を感じてしまふ。集まつた金は間違ひなく然るべき人々に届いてゐるのだらうか、必要経費はどう計算され、どう差し引かれるのか。あるいはその種の経費は差し引かれずに全額が対象となる人々に届くのだらうか等々。

 その種の私の猜疑心はさておき、ここでは今回の大災害における義捐金について少し書いておく。総額が二千億円を越したとしても、或は三千億に届かうとも、それが被災者個々人の手に渡る時は、考へやうによつては微々たるものになつてしまふとは言へないか。仮に一人当たり百万円になつたとして、それはそれで当座の生活を凌ぐには、被災者にとつてはそれなりに有難い額ではあらう。

 だが、個々人にとつてはさうであつても、一つ距離を置いて眺めてみると、まるで砂漠に如雨露で水を撒くやうな気がしてならない。個々人にとつては干天の慈雨には違ひなくとも、総体として見た時、空しく消え失せる二千億円といふ気がしてならない。そのことが気になり出したのはソフトバンクの孫正義社長による百億円の寄付があつてからなのだ。

 それこそ、私財から百億拠出することは素晴らしいとは思ふが、そこまでの額にするなら、と考へ込んだ。いつそのこと五百億くらゐお出しなさい。そして、義捐金などに組み込まず、「孫正義基金」でも「ソフトバンク基金」でも創設なさればよろしいのに。それが財界人のすべきことではないかと思つた。明治期の財界人はその手のことを数限りなくしてゐるではないか。

 その基金を運用し、随時ソフトバンク(私財でも構はない)からも基金追加をして、被災地(この特定が困難だが、不可能ではない)の若者の就学支援基金を創る。大学に行く学生には全額補助をするとか、海外への留学生にはさらに資金援助をするとか。いやまだほかにもアイディアは見つかるのではないか。思ひ付きで言ふが、全国から被災地復興の為にこれから被災地域に移住して生活をしやうとか、被災地出身で今は他県に居住して――例へば東京に出て就職してゐた40代50代の人々が、被災した親の元に戻つて農業を継いだり、家業の復興を手伝ふなどといふこともあらう、さういふ人々の子女の就学支援基金にしてもよいのではないか。学費全額を支援したらいい。

 例へば、これからかの地に移住し勤め、数年以上住んだ場合には、その子供達の義務教育から大学卒業まで、授業料は負担しますといふのでもよい。二百億なら二百億、千億なら千億なりのプランの立てやうがあるだらうし、資金に限界があるなら、被災の程度に応じるなりなんなり、その額相応の、しかも相当の支援が出来るだらう。被災者に対しては子供の高等教育のことを憂へなくとも、復興に専念できますといふメッセージになりはしないか。

 親を置いて首都圏に出て来て働く東北出身者にも大きな励みになり、東北を自らの手で復興しようという気構への背中を押しさうな気がする。幾らの基金があつたら、どの程度の規模で支援基金が出来るか、私には何のデータもなく、甚だ無責任な素人考へだとは思ふが、百億といふ額を聞いた時に頭に浮かんだのが「被災地教育基金」創設だつた。砂漠に如雨露ではなく、東北に美しい水を湛えた大きなプールを創る。孫正義は、いはば現代版の「米百俵」を考へたらよかつたのではないか。彼が拝金ホリエモンとは違ふと思つての提案である。
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by dokudankoji | 2011-05-02 17:39 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
2011年 05月 01日

【再掲】 「戦後」と「災後」

(昨夜半に更新した時、最後のパラグラフを投稿しそこなつた。直ぐに読みに来て下さつたかたに、尻切れトンボの文章をお見せした、その他も少々訂正して再掲する。)

 最近よく目にするのが「災後」といふ新語。もはや「戦後」ではないといつた文脈で使はれる。分からなくもないし、東日本大震災が我々に齎したものは原発事故も含めて、確かに日本にとつて「戦後最大の事態」であることは間違ひない。現在の日本の共通体験としてはこれ以上のものもないだらう。

 とはいへ、では我々が「戦後」の課題として背負つてゐた物事がきれいさつぱり払拭されたのかといへば、そんなことはあり得ない。安倍政権時に盛んに言はれた戦後レジームからの脱却といふ課題は少しも解決されぬままに、我々が今次の災害に直面してゐることも事実だ。

 ただし、憲法改正、日教組教育、自虐史観、これらの問題を論ずるのは、取敢へず他の方にお任せする。今日は28日付の記事に書いた、両陛下にカメラを向ける若者(おばさんもゐたやうだが)の行動に絡めて考へておきたい。

 カメラを誰にでも何にでも向ける神経は、簡単に言へば無遠慮といふことにならうが、これがいつ頃から、いづこから生まれたものなのかは一考に値する。私が子供のころ、そもそもカメラを所有する家庭は少なかつた。当然、カメラで写されることに「はにかんだ」。照れた。つまり、恥ぢらひを感じた。昭和の30年代後半までは間違ひなく、それが多くの人々の共通の反応だつたと思ふ。

 それを変へていつた要素は幾つかある。勿論フィルム・カメラの普及からデジカメ、カメラ付き携帯の普及への流れが一方にある。さういふ文明の利器への慣れといふことである。そして一方に、これまた文明の利器の雄ともいふべきテレビの普及が実は介在してゐると私は考へてゐる。

 昭和30年代、テレビはまづ見るものとして普及する。やがてテレビ・カメラが街頭へ進出して一般人にマイクを突き付ける。街頭インタビューなるものが、いつの間にか日常的なものとなる。学生のサークルが真似をして繁華街などで、さらにその真似をする。カメラを向けられる人間の方にも、もちろん恥かしがつて避ける人もゐるが、平然として、或は欣然としてマイクとカメラに向かつて意見を言ふ人々が現れる。

 政治でも災害でも事件でも、一般人が「意見」を求められ、殆ど意味のない「コメント」を述べて、結構悦に入るといふ具合だが、これは実は世論調査と同じでテレビ局がかなりのバイアスとコントロールをかけて、局側に望ましい意見が流れることになる。それでも「コメント」した方は「一般人代表」として一定の賛同をかち得た気にもなるし、視聴者もその程度のものとして聞き流す。そこには人の前で意見を言ふことへの羞恥もなければ、自分の言論への懐疑もない。(現今のツイッター等の世界も殆ど全てがこの手のものと思はれる。)

 かうして、人々は自分をカメラの前に曝け出すことに抵抗を感じなくなる。一方、同じくテレビの世界に視聴者参加番組なるものが登場する。正確な年月は定かではないが、ここでも「一般人」がスタジオに集まり、良し悪しはともかく「タレント」「芸人」と素人との垣根が消え、タレント自体も素人ぽいことを求められるやうな現象すら生じる。さらに素人がタレントのお付き合ひをして、殆ど機械的な「笑ひ」を要求され、番組の歯車として反応する、その姿をカメラが捉へてお茶の間に届ける。その素人ぽさが却つて受けるといふ摩訶不思議な状況が生じる。それを不思議とも異様とも感じない、麻痺したわけだ。

 若い世代が、殆ど無意識だらうがカメラに向かつてVサインをする姿を、少し年輩の人々は覚えてゐるはずだが、あれには最初、相当の抵抗を感じたものだ。昔、子供たちはカメラを向けられると逃げた。それがいつの間にやら、殊にテレビカメラなどが「オラが町」に来たら、競ふやうに写らうとレンズの前に群がるやうになつた。勿論、今でも恥かしがる姿を時に見かける、それも一方の事実ではあるが、写りたがり出たがりが圧倒的に増えたこをは否めまい。

 学生たちのコンパや合宿などの写真を見ると、異常といふか異様といふか皆が皆Vサインで嬉しさうにしてゐる。これもやはり、かなり機械的な反射運動のごときものであらう。しかし、もしも人間が、外から見える自分の姿に何の疑問もなく何の懐疑も抱かなくなるとしたら、それは何を意味するのか。外から自分を見るといふ、人間のみに許される叡智と能力を自ら放棄して平然としてゐられるとは、どういふことなのだらう。

 自らの行動や言論を外から見る、つまり客体視すること、あるいは他者との関係を客観的に眺めるといふこと。それはつまるところ、羞恥心の問題に及ぶのではないか。「羞恥」といふ感情は自分を客体視するところにこそ生まれるのではないか。他者の目を意識するところに「恥」の観念が生じるのではないか。カメラやテレビといふ文明の利器の普及に並走するがごとくに、羞恥心を失つた時代が到来する。恥の概念を失つた人々が増大する。他人様の目を気にする、世間体を慮る、さういふことを私達は忘れて、どこかに置き去りにしてきた。それが戦後レジームの行き着いたところではあるまいか。

 憲法改正や日教組教育といふと私達は直ぐにイデオロギーで思考を始めてしまふ。イデオロギーの前に、日教組教育なりオンブにダッコの現行憲法が何を育てたのか、何を見失はせたのかを、今こそ見直す時期だらう。この震災を機に、先づは人間の普通のあり様、本来のあり方を考へるべきなのではないか。

 さういふ意味で、私は「災後」を考へる場合に、「戦後」を置き去りにしてはならないと思つてゐる。あの甚大な被害、二万六千の死者と行方不明者、何十万といふ被災者に対して、私達が「前へ」と言ふなら、過去を置き去りにしてはなるまい。亡くなつた人々の人生、その人々が生きてきた歴史の上に、未来を築く以外に「前」はないはずだ。ゼロからの出発ではない。「戦後」のマイナスをも乗り越えての「前進」以外に意味があらうか。

 我々が今次の災害から単なる経済的な復興しかなし得ないとするなら、犠牲者の死を「無駄死」にとすることになりはしないか。それでは、大東亜戦争の三百万余の死者達の「死」を「無駄死に」としたまま、「戦後」を呆けて暮らしたと同じやうに、私達は何ら変はらぬ呆けた「災後」を送ることになりはしないか。
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by dokudankoji | 2011-05-01 11:20 | 雑感 | Trackback | Comments(2)