<   2010年 02月 ( 9 )   > この月の画像一覧


2010年 02月 19日

永田町にゐる謎の鳥~最新バージョン?(21:45付記あり)

 二月四日の産経新聞で知つた「永田町にいる謎の鳥」。読んで噴き出した。ネット上で追加され徐々に長くなつてゐる。ご存じの方も多いだらうが、下記のものが目下のところ最新版らしい。記憶のために書いておく。

日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

「カッコウ」だけは一人前に付けようとするが
お「フクロウ」さんに、「タカ」っているらしい

それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え
身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、
疑惑には口を「ツグミ 」、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
頭の中身は「シジュウカラ」、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」。

「キジ」にもなる「トキ」の人だが

私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。


 ただし、「カッコウ」「フクロウ」「タカ」の二行と「キジ」「トキ」の一行などがなかつた、四日の産経に載つたものの方が締まつてゐていいやうな気がする。その三行、飛ばして読んでみて下さい。

 21:45付記 ちなみに英語で「チキン」は臆病者あるいは青二才などの意味で使はれる。殊に俗語では臆病者のニュアンス。映画「理由なき反抗」の度胸試しの崖に向かつての車の競争、あれはchicken runと呼ぶ。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-19 15:07 | 落書帳 | Trackback | Comments(1)
2010年 02月 18日

箴言、ではなく進言について

 このところオリンピックのおかげで民主党も一息ついてゐるのかもしれぬが、細かなケチを附けておく。鳩山さん、盛んに小沢に「進言」するのしたのと言つてゐるが、「進言」は目上の人に具申やら建言やらすること。一国の総理が一政党の幹事長に「進言」は、いくら相手が年上だからと言つて、それはまづいでせう。以上、入試の季節の寝不足の脳のツブヤキ。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-18 22:57 | 落書帳 | Trackback | Comments(0)
2010年 02月 11日

箴言に対する箴言(三)

[三六九] 愛すまいとして己れに課する烈しさは、屢々、愛する者の苛酷(つれなさ)さよりも更に残酷だ。(★)嘘だ。真の愛の如何なるものか知つてゐるかロシュフウコウ?
(いやいや、恆存さん、そこまで行くと、尾を追ふ仔犬になりかねません。逸記)

◎[三七七] 透徹の最大の欠点は的まで届かないことではない、それを通り過ごすことだ。(★)無いものが見える観察の鋭さ!!

[三七八] 人は種々の意見を与へる。だが行為を鼓吹しはしない。(★)自分の慧智を見せる為に、責任をまぬがれる為に、そして、自分の意見に自ら信を置いてゐない為に。

[四一〇] 友情の最大の努力は我々の欠点を友に示すことではない、友の欠点を見せて貰ふことだ。(★)逆に、そのまま素直に解した方がよささうだ。

[四二四] 我々は我々の持つ欠点に反対な欠点を以て名誉とする。即ち、我々が懦弱である時、我々は頑強であることを誇る。(★)自分の本当の欠点に対して目かくしする為に。Cf.327(→[三二七]の箴言は、我々が小欠点を告白するのは、単に大欠点を持たぬことを説得するために過ぎぬ、とある。)

◎[四二八] 我々は友人の、我々に関係しない欠点を容易に赦す。(★)自我を認めさせようとする妥協!

◎[四三一] 自然であることを妨ぐること、自然に見えんとする欲望に如くはない。(★)純粋たらんとする不純。

◎[四三三] 偉大な素質を持つて生まれたといふ最大の徴、それは羨望(そねみ)なくして生まれたいといふことだ。(★)と云つて、私に羨望はない。

◎[四四八]まつすぐな精神はひねくれた精神に服従する方が、これを導くよりは苦痛が少い。(★)だがそれは不可能である。

◎[四五一] 愚物にして才を持つ者ほど不快なものはない。(★)かくの如きもの、如何に多きか!/君子人にして才なき時、人は如何に苦しむ事か。

◎[四八五] 大いなる情熱をもつた者は生涯を通じて幸福であり、それに醒めた者は生涯不幸である。(★)ロシュフウコオの自嘲か!

◎[四八八] 我々の気質の沈静や騒櫌は、人生に於て我々に起る最も重大な事件よりも、日常茶飯の愉快な或は不快な排列に依存するところが多い。(★)だが気取りが、それ等の原因を重大な事件の中に求めたがる。

[四九二] 吝嗇は屢々反対の結果を生む。即ち、曖昧にして迂遠な希望のために全財産を犠牲にする者や、現在の小利のために来たるべき莫大な利益を軽蔑する者が無数にある。(★)だが吝嗇の目的は、利を護る事にあるのではない。護つたものを失ふまいとする情熱である。

◎[四九三] 人間は己れに充分欠点があると思はないやうに見える。彼等は或る奇妙な素質を以て好んで身を飾り、それによつて更に欠点の数を増加する。而も彼等は細心の注意を以て是を養成する結果、遂には生来の欠点となり、矯正することは、もはや彼等の関するところではなくなつてしまふ。(★)通常「弱さ」と呼ばれる欠点がそれだ。

◎[四九八] 軽佻浮薄なること甚だしく、確乎たる特質にも真の欠点にも共に縁なき輩(やから)がある。(★)地獄も極楽も知らぬ奴!

 以下は[附化されし諸反省]に付されたもの。
◎[一]強者は崇拝者たることを欲するが、謙遜家たることを欲しない。(★)強者の倨傲は、神と真理に対する謙譲を伴ふ。

[一二] 恋する男が愛人の欠点を見るのは、彼女の幻惑が終焉した時のみである。(★)浅薄だ!

[一三] 謹慎と恋愛は両立しない。恋愛が増加するにつれて謹慎は減少する。(★)さう、恋愛を型にはめて考へなさんな!

[一四] 夫にとつて嫉妬深い妻を持つことは屢々愉快である。彼は常に愛する女に関わる話を聴く。(★)人の悪い!

◎[一七] 人間を学ぶことは書物を学ぶことよりも更に必要である。(★)平凡だがわからぬ奴が多い。

◎[五〇] 誰にも気に入らない者より、誰も気に入らない者の方が遥かに不幸である。

 以上、すべてではないが、かうして書きぬいてみると、どうも後半に行くに従つて箴言といふものにウンザリした様子がみられる。確かに、箴言や格言は精々一日一つで十分かもしれない。恆存が幾日かけてこの箴言録を通読したのか知らぬが、読了後に、最初に挙げた「箴言に対する箴言」を書いたのだらう。改めて感ずるのは、如何なる慧智を宿した箴言も「純粋・無垢な魂の前には顔をあからめる」といふ最初の書き込みほど恆存らしい書き込みはないといふことである。

 いつになるか分らぬが、また、恆存蔵書や残されたメモの中でこれと思ふものがあつたら拾ひ出して掲載するつもりでゐる。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-11 18:25 | 雑感 | Trackback | Comments(2)
2010年 02月 09日

箴言に対する箴言(二)

 ロシュフコオの箴言の中で恆存が丸印(◎)を附したものでも、比較的短いもの、なほかつ私が気に入つたものか、あるいは恆存の書き込みがあるものを挙げる(原文正漢字、一部かなに直す)。

◎[二六] 凝(ぢつ)と見てゐられないもの、太陽と死。

◎[三四] 若し我々が高慢でなかつたら、他人の高慢を慨歎しないであらう。

◎[四二] 我々は理性のすべてに従ふだけの力を持たぬ。

◎[四九] 人は決して自ら想像するほど幸福でも不幸でもないものだ。

◎[七四] 恋愛には一種類しかない。が、無数の写し(コピー)がある。

 次の一節には丸印は附してゐないが、書き込みがたくさんある(★印を付ける)。
[八一] 我々は何ものも我々のためにしか愛することが出来ない。己れ自身よりも友人を本位にする場合も実は自分の好みと自分の快楽を追つてゐるに過ぎぬ。とは言へ、真にまつたき友情といふものは、この友人本位によつてのみ存在し得る。(★以下恆存書き込み★)自我愛はそのままでは卑しい/自我愛のない人間は他人を愛しえない/自我愛のない人間を愛する事も出来ない/もし真の愛があるとするなら、それを教へるものは自我愛である。

◎[八四] 友を疑ふことは友に欺かれるよりも恥づべきことだ。

◎[八六] 我々の猜疑は他人の欺瞞を正当化する。

◎[九三] 老人はお説教を好む。もはや悪いお手本の出来る年ではないのを自ら慰むるためである。

◎[一〇七] 決して嬌態をしないことを注目せしめるのは一種の嬌態だ。

◎[一一六] 意見を求めたり与へたりするやりかたほど不真面目なものはない。それを求める者は友の意向に敬意ある謙譲を持つかに見えるが、実は唯己が意見を是認せしめ、己が行為を保證せしむることしか考へてゐない。一方、意見する者は示された信頼に、熱烈にして私心なき情熱を報いる。ところが最も多くの場合、与へる意見のなかに己が誉しか索(もと)めてゐないのだ。

◎[一一八] 決して瞞されまいとする注意は屢々我々を瞞される危険に曝す。

◎[一三〇] 弱さは矯正できない唯一の欠点である。

◎[二〇八] 馬鹿者には自らを識り、その馬鹿さを巧みに用ふる者がある。

◎[二〇九] 狂気なしに生活する者は、自分が信ずるほど賢明ではない。

◎[二一六] 完き勇気とは、萬人の前で為し得ることを立会人なしに為すことだ。

 次の数節にも○印がなく書き込みのみである。
[二六四] 憐憫は屢々他人の不幸に於ける我々自身の不幸に対する感情である。それは我々の陥るかもしれない災難の巧みな先見だ。我々が他人に救ひを与へるのは、同じやうな境遇に際して彼らをしてそれを我々に与へしめんがためである。で、我々が彼等に為す斯かる奉仕は、的確に言へば、我々が予め我々自身に為す恩恵である。(★)ニーチェ流に――/憐憫は苦悩者に対して、助力の出来ぬ云ひわけだとする方がまだ真理だ。/しかし、私は憐憫の感情を知らぬ、故に、何も云ふ権利はないかもしれない。

[二七七] 女人は愛してゐなくとも、屢々愛してゐると信じてゐる。秘め事への没頭、慇懃(ギャラントリー)に与へられる精神の動揺、愛されるといふ逸楽に対する天性の傾向、それから拒むといふ苦痛が、彼女等に、単にコケットリイしか持つてゐない場合に情熱を持つてゐるのだと思ひ込ませる。(★)cf. Lawrence’s “Lady Chatterley’s Lover”

[二八六] 真に愛することをやめたものを、二度(ふたたび)愛することは不可能だ。(★)愛する力のないものを愛する事は困難だ。

[三〇三] 人が我々のことをどんなによく言はうと、我々は何ら新たに教はるところがない。(★)鋭い精神(自意識の強い精神)には、むしろ反対の箴言が必要だ。

◎[三一三] 何故に我々は、我々に起つた事件の委細枝葉に至るまでも覚えるほどの記憶力を持ちながら、而も、その事件を同じ人間に幾度語つたかといふことを思出すほどの記憶力も持たないのか?(★)宮廷人、ラ・ロシュフコオ! サロンの萌芽! フランス人!

 次の三連の節には、見出し番号から線が引いてあり、纏めて一つの書き込みがある。このページには栞まで挿んである。
◎[三三二] 女性は自らの嬌態(コケットリイ)のすべてを識らぬ。
◎[三三三] 女性は嫌悪の情なくしては完全な無情(つれなさ)を持たぬ。
◎[三三四] 女性は情熱(パッション)よりも嬌態(コケットリイ)を制することが困難である。(★)女性のみ?

[三六一] 嫉妬は常に愛と共に生れる。だが常に愛と共に死ぬものではない。(★)うがつてゐる様でうそだ。

[三六二] 殆んどあらゆる場合、女性がその恋人の死を痛哭するのは、彼等を愛してゐたためよりも、寧ろ、さらに愛される価値があつたかの如く思はれんがためである。(★)こんな点に至ると、ロシュフウコオは箴言をつくる病にとらはれてゐる様に思はれる/いやみがある。(上記二編のあるページにも栞が挿んである。それともその栞は同じページにある次の箴言のためのものか?)

◎[三六四] 妻の話をしてはならぬことは充分知つてゐる。が、己れ自身のことは尚更語つてならぬことを案外御存知ない。

 箴言に食傷しつつも、恆存がこの項目に○を付けてゐるところが面白い。以下(三)に続く。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-09 23:03 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2010年 02月 08日

お知らせ――(二)

 前掲記事で紹介した産経の続編はこちら
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-08 16:30 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2010年 02月 05日

お知らせ

 一月三十一日、日曜日の産経新聞文化欄、「日本人とこころ」で福田恆存を大きく扱つてくれた。購読なさつてゐない方、WEB上でご覧下さい。なほ、明後七日に続きが載る。私が考へる恆存観が中心になるとか。息子の見た父親像など何ほどのものかとも思ふが、興味ある方はどうぞ。勿論、購入なさらなくとも、WEB上で読めるはずである。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-05 16:45 | 落書帳 | Trackback | Comments(0)
2010年 02月 04日

思ひ出したこと――ほか、雑記

 前掲の「箴言に対する箴言」を書いてゐて思い出したことを簡単に記す。恆存はその万博のキリスト教館でエリオットの「寺院の殺人」を演出した。主人公のトマス・ベケットは芥川比呂志。キリスト教館の祭壇を囲む客席(といふよりは教会の礼拝席か)で観る、カンタベリーの大司教ベケットの殉教は、その秋、東京の日経ホールの額縁舞台に場所を移しての公演とは比較にならぬ臨場感があつた。十二世紀の英国、国王ヘンリー二世の放つた刺客に聖堂内で暗殺された大司教の殉教を扱つた詩劇である。

 観客は十二世紀のカンタベリーへと、その大聖堂内へといざなはれ、コーラス役のカンタベリーの市民と共にベケットの殉教を見守らされる。殉教によつて聖者となることを自らは懸命に避けようとする強い意思と、その結果の必然として起こる殉教に、観客は息をのみ、息を詰めて見入つてゐた。否応なしに殉教の厳しい姿の目撃者にされ、事件に立ち合はされる。

 舞台と客席の仕切りがなく、カンタベーリーの市民の立場で大司教の死に立ち会つた、キリスト教館での三時間をまざまざと思ひ出す。後年、私はこの戯曲を再演する時、エリオットを理解できずに、自分で演出する事を避け、英国の演出家を呼んで日本語の担当として協力した。その時のベケットは、昨年まで二年に亙つて私の演出した「白鳥の歌」で主人公を演じた西本裕行である。彼とは「マクベス」でも一緒だつた。マクベスとベケットは西本にとつて六十年近い舞台歴のなかでも五指に入る舞台ではないかと思ふ。

 さて、芥川の「寺院の殺人」の東京での初日前日の舞台稽古の日が、忘れもしない、忘れようもない、十一月二十五日だつた。すなはち三島由紀夫の自決の日である。ベケットの殉教と何ら通ずるところはないと、今でこそ分かるのだが、その時は、自ら死を招くがごとき行動を取るベケット、あるいは死を回避しようとはせぬベケットの姿と、三島の死へと突き進む姿とが重ならざるを得なかつた。その日の稽古は異様な雰囲気としか言ひやうのないものだつた。あの日は、それを経験した人の数だけの異様な経験となつた日なのだらう。しかし、ほんの五年前に、多くの人が知らぬ間に、静かに、恐らくは三島の後に従つた割腹自決が決行されてゐることを、殆どの日本人は知らずにゐる。

 ここまで書いて、読みなおしてみて思ひついたことだが、「マクベス」と「寺院の殺人」と、全く異なる作品だが、主人公二人は案外近いところにゐるのかもしれない。自らの運命的な死に向かつて突き進む強固な意思または意地といふところでは、二人は甚だ近いところにゐるのではないか、少なくとも、自らは避けようとした道筋を辿らざるを得なつた宿命といふことにおいては相似形をなしてゐまいか。そして、これはあらゆる人間が辿る人生、われわれ人間といふものの宿命なのかもしれない。

 人間に普遍的な、宿命への共感が悲劇といふジャンルを成立せしめてゐるのではないか。巨大な存在の滅亡の姿に、われわれは小さな己の姿を重ね合はせるとともに、その滅亡にどこか安堵してゐる。この共感と安堵の感情ほど、人間らしいものはない。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-04 16:21 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2010年 02月 02日

箴言に対する箴言

 福田恆存の蔵書に昭和十一年二月一日三笠書房刊行の「ラ・ロシュフコオ箴言録」(齋藤磯雄訳)がある。箴言のところどころに傍線や丸印が附してあり、時に感想が書き込まれてゐる。前半には丸印が多く、後半に進むに従つて丸印と共に批判的な書き込みが増えてくる。

 例へば『道徳的反省』の四百五十一は≪愚物にして才を持つ者ほど不快なものはない≫といふ箴言だが、それに恆存は二つの書き込みをしてゐる。一つが「かくの如きもの、如何に多きか!」、そしてもう一つが「君子人にして才なき時、人は如何に苦しむ事か」となつてゐる。

 大真面目なのかふざけてゐるのか分からぬものもあるが、今日は上の一つを挙げるにとどめ、近々にいくつか掲載するつもりでゐる。恆存がこの本を読了したのは同年の二月十三日と思はれる。といふのは、表紙を開けると見返しに「箴言に対する箴言」といふ見出しを付けた十行弱のメモがあり、その終りに「一九三六・二・一三」と記してあるのだ。

 日付はさておき、そのメモを書いておく。この種のものは麗澤大学出版会から刊行中の評論集等々にも勿論載らぬし、やがてはこの本も、既に委託した原稿等と共に神奈川近代文学館に引き取つてもらふことになるであらう。さうなつて誰の目にも触れぬのも、なにやら気の毒でもあるし、さまざまの書き込みも、それはそれなりに面白いと思はれるので……ただし若書きであることは否めない、恆存二十五歳の頃である。

≪箴言に対する箴言
吾人に如何に鋭しと感ぜられる箴言も、常にそれ自らに対して、虚偽、偽善、虚栄、気取りの名の下に告訴される運命を有たねばならぬ。時が新しい箴言を生む。(一行アケ)凡ゆる慧智の影を宿したかに見える箴言と雖も純粋・無垢な魂の前には顔をあからめる。(一行アケ)偉大な精神力は箴言を作り得ない。 一九三六・二・一三≫


 これを読んで、殊に中ほどの一行を読んで私は「夏の夜の夢」を思ひ浮かべた。恆存が大阪万博(一九七〇)のガス・パビリオンのプロデュースを依頼された(のだと思ふ)時、ジョアン・ミロに手紙を書いて描いてもらつたのが「無垢の笑ひ」で、今でも大阪の国際国立美術館にあるといふ。四十年前に見たきりだが、もう一度見てみたいと思つてゐる。

 恆存自身どこかに書いてゐたが、その「無垢の笑ひ」を依頼したのが、(記憶を頼りに記すが)、生まれて来た赤子が母親に初めてみせるやうな笑ひ、シェークスピアの「夏の夜の夢」に現れるやうな無垢の笑ひ、といふテーマだといふ。(ミロは「よつしや、分かつた」と二つ返事で引受けたとか。)それ以来、上述の如く、純粋で無垢な笑ひとか魂と聞くと「夏の夜の夢」を思ひ出すといふ次第である。

 同時に、上の「箴言に対する箴言」だが、最後の一行もシェークスピアを思ひ出す。「偉大な精神力」といふ言葉からの連想だ。しかし、シェークスピアは謂はば箴言の宝庫とも言へる。といふことは、恆存の箴言が間違つてゐるといふことか。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-02 22:21 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2010年 02月 01日

市川市議会――外国人参政権(一日二十時加筆訂正)

 今日(一日)の産経新聞によれば、市川市議会において、外国人参政権に反対する意見書の採択が市議会総務委員会で可決されながら、翌日(二十日)の本会議では否決されたといふ。なぜか。一夜にして変つた経緯が面白い。民団がロビー活動を行つたからだといふ。

 こんな呆れた、あからさまな話もなからう。参政権すらない民団の人々が動いた、それだけで参政権付与反対決議の意見書がひつくり返へつてしまふ、なんと情けない市議たちか。となると、韓国籍の人々に参政権など持たれたら、何が起こるか分かつたものではない、さうであらう。

 参政権が必要なら帰化すればよろしい。日本人におなりなさい。仄聞するところ、在日の韓国籍朝鮮人には母国での国政参政権が(被選挙権も含め)2012年に付与されることになつてゐるとか。なにも二つの国に権利を有し、忠誠を誓ふこともありますまいし、出来ますまい。となると、忠誠心はどちらか一つの国へ向かふでせう。そして血は水よりも濃しと言ふではありませぬか。

 もし在日の韓国籍の人が韓国の国政選挙に出馬して当選したとする、やがて議員を辞めて日本に戻り日本で参政権も行使できる状態が出現する、そんな時、その人物は何人としてどこの国のために票を投ずるのだらうか。

 かういふ訳の分からないことを推進しようといふ民主党を私は信じない。勿論、自民の中にもさういふ人間がゐるのはいふまでもなく、その連中も信じない。小沢も鳩山ももともとは自民。

 私、福田逸は、いのちを、守りたい、国民のいのちを守りたいと、願ふのであります、そのためには日本の言葉を守りたい、日本の歴史を守りたい、日本の自然を守りたい、日本の国を守りたい、ですから一番近くの隣国でも友愛の情を籠めて仮想敵国とみなします。当然、永住外国人に参政権など与へるべきではない。ついでに、米国も仮想敵国と考へるに越したことはない。この程度のことが分らぬやうでは、どなたであれ政治家を辞めてほしい。これは保守を任ずる政治家諸兄にも申し上げておく。
[PR]

by dokudankoji | 2010-02-01 17:10 | 落書帳 | Trackback(1) | Comments(1)