福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2008年 05月 25日

オマージュ――ABQへの

 二十四日の午後、神奈川県立音楽堂にアルバン・ベルク弦楽四重奏団(ABQ)の解散公演を聴きに行つた。演目はハイドンの弦楽四重奏第八十一番、ベルクの弦楽四重奏曲、そして、ベートーベンの十五番である。

 ベートーベンの弦楽四重奏曲は、ことに後期のものが素晴らしく、第十三番と第十五番、そして第十四番、この辺りが私の最も好きな作品である。ABQのCDでこれらの名曲を何度聴いたことだらう。中でも十五番は私にとつて生涯忘れられぬ曲であり、家の者には葬式の時に必ず流してくれと頼んである。

 ABQの演奏を最後に生で聴いたのは、丁度二年前の平成十八年五月二十三日だつたが、演目はモーツアルトが中心で、いつかベートーベンの十五番を聴きたいと思ひ続けてゐた。ふた月ほど前のことだが、漸くその願ひが叶ふ事を知り、チケットを予約しようとして驚いた。今回がABQの解散ツアーだといふ。もう二度とABQを聴けないといふ。

 音楽であれ、何の藝術であれ、本当に素晴らしいものは、聴衆や見物を日常の世界から引攫つてくれる。気が付いたら別の世界に引き擦り込まれてゐた、さういふ経験をさせてくれる。とはいふものの、そこまでの優れた藝術には、どんなジャンルであれ、滅多に遭へるものではない。が、昨日のアルバン・ベルクはまさにさういふ舞台だつた。ハイドンの八十一番が始まつた瞬間、四つの楽器の音色は私に実世界の事を全て忘れさせてくれた。

 最後のベートーベンに至つては、苦しいほど胸に迫る、天から射し込む一条の光の如き輝きと安らぎを、そして、その見れば眼が潰れかねぬ輝きの主体への敬虔なる感謝の念を、切ないまでの美しい音色にのせて聴衆をホールを一体化させて行つた。この弦楽四重奏曲ほど緊密な構成を、私は他に知らない。いや、音楽に(音に)弱い私に何ほどのことも言へはせぬのだが、五つの楽章を貫くベートーヴェンの精神、心性といつたものが過不足なく伝はつて来る。一瞬の、一音の無駄も無いとでも言へばよいのか。

 殊に、大病を患つたベートーヴェンが病癒えて作曲した第三楽章、≪「病癒えたるものの神への聖なる感謝の歌、リディア旋法による」Molto adagio――「新たな力を感じて」Andante≫から後、終楽章に至るまで、私には舞台の演奏者が涙で霞むほど満ち足りた時間だつた。私だけではない、周囲にも涙を拭いながら聴き入る聴衆が多く見かけられた。これ程の音楽会を私は今までつひぞ経験した事がない。

 正直のところ、当分音楽は聴かぬ、音楽会も行かぬ、さういふ気分になつてゐる。昨日、心に受けたものを台無しにされたくない、さういふ感じなのだ。十五番が終はつた時、私はアンコールすら聴きたくなかつた。他の楽曲で折角の名演奏による感動を壊されたくなかつた。ところが、である。アンコールにABQが選んだのが、同じベートーヴェンの第十三番の第五楽章、いはば宗教的な崇高さを静かな音色で歌ふ楽章だつた。これには参つた。

 十五番によつて心を浄化された聴衆が、もしその直後に耳にしてなほ心満ち足りてゐられるとしたら、この選曲しかあり得ないだらう。仮に(馬鹿げた仮定だが)「大フーガ」なり「ラズモフスキー」なり、同じ第十三番の終楽章なり、何が演奏されても、昨日の演奏会は台無し、「なんだ、あの最後のは」といふことになつたらう。その選曲一つ取つても、ABQの解散はいかにも惜しい。が、同時に自分達が最高峰にゐる時に幕を閉ぢようと言ふのも分る。四人は、各々新たな道を切り拓かうとしてゐるに違ひない。

 これを書いてゐるのは日付も変はつた夜中だが、未だに私は「救はれた」気持ちになつてゐる。心が浄はれ、同時に胸が詰まる思ひが残つてゐる。実は、六月の二日にサントリー・ホールで同じ演目が演奏される。驚いたことにチケットがまだ残つてゐるらしい。行かうか。いや、行くまい。昨日の会場での演奏者と聴衆との精神の感応は一回限りのものと思ふ。二度も、いはばこれ程崇高な体験をできるはずがない。これをお読みの方、「パフォーマンス」と名の付くもので、恐らくこの種の経験は一生に一度か二度のこと、是非お出掛けになることをお奨めする。ABQによる十五番は二度と聴けない。CDやDVDもある。しかし、演奏者が、ベートーヴェンに「これでいいのでせうか? あなたはかういふ曲をお造りになつたのですか? 私達は間違つてゐないでせうか?」と問いかけつつ心を込めて演奏する、その生身の息遣ひは二度と聴けないのだから。

 ここまで書いても、昨日の名演奏を人に伝へる術も力も私には「絶対に」ない、それを承知でここまで書いてきた。始めに「生涯忘れられぬ」と記した。初めてこの作品を聴いたのは、勿論CDに録音されたABQの演奏だつた。三十代の後半である。当時、諸々の喪失感から「鬱」を患つてゐた私は、この曲を初めて聴いて、ABQ演奏のこの曲によつて、間違ひなく文字通り「救はれた」。天から射し込む光を間違ひなく見た。その後何度CDで同じ曲を聴いても、その光を見ることは絶えて無かつた。にも拘らず、昨日、初めての時と同じ感動を味はへたのは、人生の僥倖と思ふ。あるいは、心に余りゆとりもなくワサワサした日常の中で、左程の気持ちの準備もなく会場に行つて席に着き構へることなく聞いた事が幸ひしたのかもしれない。ついでに言ふと、その「鬱」の頃が、一番忙しく働け、一番仕事に油が乗つてゐた、新しいジャンルの仕事も色々開拓してゐた、どういふわけか……。「鬱」にも色々あるらしい。

 蛇足と思はれるかもしれないが、一昨日は国立小劇場で文楽公演を聴いてきた。『心中宵庚申』がよい。住大夫の「上田村の段」でも上と同じ事が言へる。今、聴いておかねば二度と聴けなくなる時がやがて必ず来る。一生に一度でもこの不世出の太夫の語りを聴く事をお奨めする。義太夫がなにやら縁遠く、難しいと思ふのは、優れた語りとの出会ひがないからであらう。端から古臭いとか、退屈さうと思つてゐるなら、さう思つただけ、その人が損をしてゐる、私は傲慢にさう考へてゐる。勿論、何もかも経験してゐる暇など人生にはない、要はその中で何を選び取るか、その選択の問題といふわけだ。選択能力、審美眼? 今週は薬師寺展に行く。月光菩薩は興福寺の阿修羅像と共に、高校の修学旅行で出会つた、いはば私の恋人である。これも今回が最後の機会かもしれない。逢はずに済ませる訳には行くまい。
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by dokudankoji | 2008-05-25 02:53 | 雑感


    


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