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2007年 10月 26日

お報せ

 十一月一日発売の『正論』、巻頭エッセイに、福田恆存評論集の「宣伝」に託けて(?)、近頃の我が国に私が感じてゐる違和感を簡単に書きました。体調不良でブログ更新を怠つてゐるお詫びを兼ねてのお報せです。
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by dokudankoji | 2007-10-26 23:57 | 雑感 | Trackback | Comments(3)
2007年 10月 03日

皆さん、お忘れでは……


 安倍首相の突然の退陣、そして自民総裁選の陰で、つまり、安倍さんの「お陰」で、今大笑ひして、いや、胸を撫で下ろしてゐる輩を忘れてはいけません。高笑ひは金正日、薄笑ひは胡錦濤、大笑ひは……さうです、「横峰パパ」と虎退治の「姫ゴゼ」(どちらも本名を覚えてゐないので)。

 安倍退陣の衝撃のお陰で、すつかり世の中が忘れてくれた。大笑ひといふよりは、ほくそ笑んでゐるのではないでせうか。それにしても、メディアもいい加減です。次々にニュースの垂れ流しでカネ稼ぎなのですから。

 メディアにここで釘を刺しておきませう。「絆創膏大臣」のお粗末はさて置いて、「政治とカネ」は福田首相にならうが、何党であらうが、いつの時代であらうが、ごろごろ転がつてゐるはずです、その事は国民の誰もが知つてゐるところです。あれだけ、執念く追求したのだから、最後まで徹底しておやり頂きたい。

 まさか、自民党だけ追及などとけちな事は仰らず、小澤御大は言はずもがな、民主党議員も徹底的にやつて下さい。社民や共産の如き泡沫政党は抛つて置いて構ひませんが。横峰パパや姫御前の例に倣つて、もう追及や~めた、次はテロ特措法をやつつけようなんて、秋の空のやうに移り気に、ころころ話題を変へないで下さいな。

 が、メディアの存在意義――大袈裟か――存在理由など、もはや、次々に新奇なニュースを追ふことより他にありはせぬ。いはゆるニュースにしてもワイドショーではないか。そこにメディアを追ひ込んだのは、ほかでもない、メディア自身だ。いや、私達国民にも一半の責任はあるのだらう。忘れつぽさと、飽きつぽさ、そして物見高さと。これを衆愚と呼ばずして……。
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by dokudankoji | 2007-10-03 00:29 | Trackback(1) | Comments(1)
2007年 10月 01日

仮名遣ひ

 大分前の事になるが、私のブログが正仮名遣ひであることに疑念を表し、あれは主義主張なのかと聞いて来た知人がゐる。主義だ主張だと、そんな大それた話でもなんでもなく、単に過てる「現代かなづかい」に苛立つ、それだけのことなのだ。

 例へば、「おめでとう」、といふ仮名遣ひに違和感を感じるだけの話なのだ。めでたいから、正月なり慶事に際して、「おめでとう」と書くのだらう。つまりめでたい=愛でたいからだらう。あるいは「珍しい」物事を「愛でたく」思ふから、その物事を大事にしたいのだらう。

 大事にしたく思ふ、愛でたく思ふ、すなはち、「めでたく」思ふから「おめでたう」と書くのだ。「たう」は「たく」のウ音便であり、といふことは「おめでとう」と書いたら、そのウ音便を元に戻すと、「おめでとく」となつてしまふではないか。めでといなぁ、なぞと言ふか。形容詞の語幹が、変つてよいものか。「おめでとう」と書いて違和感が無い方は、ついでに「めでとけ」れば、「めでとい」時と書いたらいい。この「現代かなづかい」のごまかしと矛盾が気持ち悪く無いのだらうか。

 なにも、表記上で「めでたう」と書いたから、生真面目に一字一字発音することは無い。「現代かなづかい」とやらで、「おめでとう」と書いたからといつて、「オ・メ・デ・ト・ウ」と一字一字発音してゐるわけでもない。「おめでたう」と書いて、喋る時は「オメデトー」と発音する、それが昔からの極まり事で、それに不便を感じてゐなかつた。事実、私達は漱石や鷗外を、昭和も半ば過ぎまで、何の苦もなくこの正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)で読んでゐたではないか。

 もう一つ。「嬉しく」存ずるを「うれしう」と書くのと、「うれしゅう」もしくは「うれしゅー」と書くのとどちらが自然か。「おはよう」に馴れてはゐるだらうが、「お早く」=「おはやく」を「おはやう」と書くことがそれ程、奇妙か。主義だ主張だといふ大仰な問題ではあるまい。

 ついでに、「珍しい」といふ言葉だが、上に書いた通り、貴重なもの珍重したいもの、つまり、大事に愛でたいものだから、文語の終止形なら「珍らし」と表現したわけだ。これはお分かり頂けよう。ならば、「めでたい」のダ行「で」に付き合つて「めづらしい」とダ行「づ」で表記するのが妥当だと言ふことも、お分かり頂けよう。

 ところが、「現代かなづかい」ではザ行で「めずらしい」と書かなくてはならない。これに何の矛盾も感じないのだらうか。これでは、「珍しい」ものだから「愛でたい」といふ語の関連性が無くなる。同じ語源(語感)から発した語をザ行とダ行といふ別の仮名遣ひで綴らせる「現代かなづかい」は言葉への暴力だ。

 戦後の国語政策のせゐで、我々は「現代かなづかい」を学ぶことにより、古典(古文・文語)を全く別物として学習することになつた。いはば、外国語を覚えるが如き気分の生徒もゐるらしい。なぜ、同じ仮名遣ひで古典も現代文も済んでゐたものを、二通りの仮名遣ひを覚えるといふ無駄を強ひられねばならぬのか。それが、我々から古典を奪つたことに、どうして気付かないのか。

 国語教師はこの矛盾に平然として、授業を進められるのか。それとも矛盾に気付かぬほど鈍感なのか。国語教師ばかりではない。言葉を生業とする者全て、この問題に頬被り出来ぬと思ふが、如何。

 「現代かなづかい」の矛盾や問題点をあげつらひ出したら限が無いから、取敢へずここまでにしておくが、最近出版された『旧かなづかひで書く日本語』(萩野貞樹著・幻冬舎新書)は正仮名遣ひへの入門書として、甚だ解りやすく親切である。お奨めする。
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by dokudankoji | 2007-10-01 00:53 | 雑感 | Trackback | Comments(9)