福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2006年 09月 30日

言葉について(二)~『星の王子さま』編

 「なじみになる」「絆を結ぶ」 
 この二つは、実はミクシィのある知人の記事を端緒として議論が交はされてゐた語句である。著作権が切れて雨後の筍の如く出版されたサン=テグジュペリの『星の王子さま』の邦訳に絡む話である。中に王子と狐の会話があるが、そこにこの二つの訳語の元となる語句が出てくる。原文では'apprivoiser'(≒なつく)と'créer des liens'(≒つながりを持つ)で、王子と狐との会話では、前者の単語の意味を聞かれた狐が王子にその説明をするところに後者の語句が使はれてゐるといふ(といふと書いたのは、私は仏語の原典に当たつてゐないからである)。

 コメントをしたある方が、前者の語'apprivoiser'がどう日本語に訳されてゐるか、手元にある翻訳書(十二種!)から抜書きしてゐた。その中に「なじみになる」といふ訳が三例あるさうだ。 'apprivoiser'は英語でいへば'tame'だらうが、「なつく・飼ひならされる・手なづけられる・従順な」などといふ意味合ひとならう。英仏の言葉の語義はさて措き、ここで描かれてゐる情景は王子が狐に「遊ぼう」と問ひかけるのに応へて、狐が「遊べない、あんたに'apprivoiser'されてゐないから」と言ふ。この訳語が、「飼いならされる」「仲良しになる」「なつく」などと様々に訳されてをり、それぞれの翻訳者の苦労の跡が如実に現れてゐる。

 しかし、幾らなんでも「なじみになる」はないだらう。遊女相手ぢやあるまいし、私には狐と王子が馴染みになつた姿など想像できない。我が家の愛犬(柴の雌)は私に「なついて」ゐる、「飼ひならされて」ゐる、「仲良し」といへなくもない。しかし私は愛犬と「なじみになつた」覚えは一度もない。確かに難しい箇所だとは思ふ。翻訳不可能に近いことも分かる。だが、翻訳において、ある言葉を選ぶとき、それが日本語でどういふ文脈で使はれるか、どういふ状況に使ふ言葉か、その吟味をせずに選ぶとしたら、翻訳者として杜撰といはれても仕方ない。私自身、これまでの翻訳の中で杜撰と言はれる可能性はありうる、さういふ覚悟でこれを書いてゐるが、さうであつてもやはり狐と「なじみになる」のはをかしい。文法的な誤りではないが、私には気になる。

 次の「絆を結ぶ」であるあるが、これは後者'créer des liens'の訳として、やはり数種の訳書で使はれてゐるさうだが、これもをかしい。「絆」は「結ぶ」ものではない。「絆」で「結ばれる」ものだらう。白川静の『字通』に従へば、「絆」とは、動物の、殊に馬の脚を繋ぎとめておくひも(綱)といふ言葉だといふ。日本国語大辞典に拠るとクビツナ・ヒキツナ・ツヨキツナ・騎綱などが語源と考へられるらしい。山田美妙の『日本大辞書』では息綱から出た言葉としてゐる。

 いづれにせよ、「絆」といふ語そのもののうちに、既に何かがツナで結ばれた状態が含まれてゐると考へてよい。あるいは既に何かをしつかりと結んだツナが「絆」といふことであり、従つて、結んだツナを結ぶといふ言ひ回しはをかしい。結んだツナによつて二人が結ばれてゐる、つまり固い「絆で結ばれる」といつた言ひ回しが素直であらう。おそらく、この「絆を結ぶ」といふ言ひ回しは「契りを結ぶ」との混用・混乱から始まつたのではないかと、私は推測してゐる。

 ついでにいへば、既にお分かりのことと思ふが、絆を「きずな」と書かせる現代仮名遣ひは間違つてゐる。ワープロのローマ字入力ではkizunaとスに濁点の意識で打たないと「絆」に変換されない。一方tadunaと、ツに濁点の意識で打つと「手綱」に変換される。つまり、現代仮名遣ひに従つたワープロソフトは、我々日本人に「手綱」にはツナである語意識を持てと命じ、「絆」はツナではなく、スナに濁点のズナと考へろと強要し、ツナから出た言葉であることを忘れよと命ずるらしい。生砂(キズナ)ぢやあるまいに。

 ツナといふことで言へば、「繋ぐ」は勿論「綱」の動詞化であることは言ふまでもない。手綱・絆・繋ぐ、これらがツナといふ一つの語意識で結びつかないやうな仮名遣ひは誤つてゐる。ついでに仮名遣ひの「遣ひ」もdukaiとツの濁点でよろしいらしいから、現代仮名遣ひはややこしい。

 「絆」に戻るが、「絆す」で「ほだす」とよむことは御存じだらうか。名詞形は「ほだし」となる。「ほだし」とは、まさに馬の脚などを繋ぐ縄・手かせ足かせ・束縛そのものを意味する語であり、動詞の「ほだす」は「繋ぎとめる・行動などを束縛する」といふことになる。むしろ受身にして「ほだされる」といふ言ひ回しのほうが馴染みがあるかもしれない。「女の情にほだされて」といへば、「女の心根に絡め取られて」とでもいへばよからうか、つまり、束縛した状態が「絆」で、話は元に戻つて「心根を縛り付けるような情によつて結ばれた」のが「固い絆で結ばれた」状態であり、「絆を結ぶ」のはやはりをかしいのである。

 以上、二回続けて言葉の誤用を取り上げたが、最初にも書いたやうにこれは書いてゐて恐くなるといへば大袈裟かもしれないが、単純なミスはいふまでもなく、思ひこみも含め私自身誤用を免れることは出来ない。勘違ひもありうる。人の誤用をあげつらへば、明日はわが身に降りかかつてくる。何を偉さうにといふ声すら聞こえて来さうな気がする。それでもなほ、指摘すべきは指摘しておく。勿論、自分が過ちを指摘されたなら、恥ぢて以後正すのみである。

 附記
 前回の「意表に出る」を読んで早速日本国語大辞典の第二版(平成十二年刊)を調べて下さつた方から、ミクシィ内でご教示いただいたが、案の定といふか「意表を突く」の使用例が漸く第二版に出てゐるさうだ。安部公房が最初に出てゐるとのこと、間違ひなく昭和になつてから使はれ出したのだらう。
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by dokudankoji | 2006-09-30 01:29 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 29日

言葉について(一)

 さる知人から最近流行のミクシィに招待され、数人のサイトを毎日のやうに訪れてゐる。そこで話題になつてゐて私もコメントしたことをこちらに書く。問題は言葉である。言葉の誤用についてである。が、そこにも書いたのだが、他人の言葉の誤用を批判もしくは指摘しただけでも、それはブーメランの如く、ある日自分の頭に振り掛かつて来る。安易に人の言葉遣ひを揶揄したりしない方が身の安全と言へるかもしれない。それでも、気になるものは気になる。ブーメランを恐れず、幾つか書いてみる。

 「させていただく」
 この言ひ方自体使ふべき状況はあり得るし、これだけでは間違ひとは言へまい。が、この言ひ回しを連発すると耳障りなものともなりかねない。ある集まりの議長役が集まりの度に、「させていただく」を連発して二年余りうんざりさせられたことがある。議長役と呼んだのは差し障りを考へてのことだが、要はその集まりの長たる人物であり、その立場から「させていただく」を連発されて、こちらは何やら莫迦にされたやうな気持ちになつた。丁寧すぎる敬語や謙譲語は時に慇懃無礼になる。実はこちらに対し何の敬意も払つてゐないのではないかと勘繰りたくもなる。さもなければ、まともな敬語も使へず、取敢へずは何でも「させていただいて」おけば無難とでも思つてゐるのではないか、つまり、言葉に鈍感なのではないかと思はざるを得なかつた。

 これに輪を掛けて、酷い言ひ回しがJRの東海道線で聞く車内アナウンスである。「グリーン車と普通車の間のドアを、閉め切らさせていただきます」と来る。ご丁寧に敬語を使つた上に、いはゆる「さ入れ言葉」なのだ。この場合はせめて「閉め切らせていただきます」に、出来うれば敬語など使はず、単純に「閉め切ります」で十分ではないか。聞いてゐて不快極まりない。

 「させていただく」になぜ違和感を感ずるのか。これはおそらく、以下のやうな心理から来るものだらう。「させていただく」は、持ち上げた相手と自分との関係で考へると、「させて」の部分は相手に対して自分を低く置いてへりくだる行為を意味する。言ひ変へれば、相手の強制(許可)をこちらから喜んで受け入れる意味合ひを持つ。一方、「いただく」は自分の側が相手を持ち上げる。つまり両者は、相手→自分と、相手←自分といふ、相反する流れを一つにして、へりくだるのと持ち上げるのと、全く逆方向の行為を一度に表現してゐる、それゆゑに何やら慇懃無礼といふか耳に心地よくないのではないかと考へてゐる。これは国語学・国文法の専門家の意見も聞いてみたいところだ。

 ここまで書いたところで、テレビのニュースで甚だ良い例(悪しき例)に出くはした。「岐阜県裏金問題」に関するニュースで、四千余名の処分者を出し、県知事がかう言つてゐた。「…(職員の処分についても)厳しく対応させていただいた」と。典型的な「させていただく」例である。この場合、知事は誰に対する敬意を表したかつたのか。処分された者? それなら、敬意や謙譲の対象ではあるまい。県民? ならば、「対応いたしました」とでも言ふべきだ。

 おそらく、対象はマスコミであらう。ニュースを少し注意して聞いてみて頂きたい。国政に携はる政治家もこの種の「させていただく」を頻繁に使ふ。これは、記者会見などで、自分が国民や県民に奉仕「させていただいて」ゐる姿を見せたく、かつ、眼の前の記者連中を丁重に遇してゐることを示したいといふ心理が働き、意識的にか無意識にか腰を低くしようとした結果、何でもかでも「させていただいて」しまふのであらうと、私は推測してゐる。いづれにせよ、頻発すればするほど慇懃無礼に聞こえる言ひ回しであることをこころすべきではないか。


 「こだはる」 
 この言葉の使はれ方には「拘らず」にゐられない。多くの人、いや、今や殆どの人が誤つた使ひかたをしてゐる。いはく、「自分のやり方に拘りたい」「自分の感性に拘つていきたい」「皇統の継承はあくまで男系男子に拘りたいね」等々。いはば「拘る」を「大事にする」といつた意味合ひで使ふ人が実に多い。これは全くの誤り。むしろ逆の意味に使つてゐることになる。拘るを漢字の熟語にすれば拘泥とならう。泥に脚を取られる姿でも想像すればよからう。つまり、この言葉は、つまらぬことにケチを付けて文句などを言ひ立てたり、何か下らぬことに心が引掛かつたり、些細なことに気を取られたり、といつた意味なのだが。

 かういふ言葉遣ひに対する無神経は国語といふ、その民族の背骨たるものへの無神経に他ならない。こんな言ひ回しを平気でしてゐるやうでは、いはば骨粗鬆症で日本も近々崩壊するだらう。これを些細なことといふ御仁もゐるのかも知れぬが、私はその些細なことに飽くまで「拘らせていただく」。

 
 「とんでもございません」 
 これもやめて欲しい。といひながら、私自身つい口にしかねないので、偉さうなこともいへない。さはさりながら。「とんでもない」は形容詞で一語。「とんでもなければ」「とんでもなく」などと語尾変化するのであつて、「とんでもござなければ」「とんでもござなく」などといふのはとんでもなからう。

 「とんでもございません」や「とんでもありません」がをかしくないといふなら、「ございません」や「ありません」とは別に「とんでも」といふ語が独立して存在してゐることになる訳で、さうなると、「とんでもある」といふ言ひ方がその前提になくてはならない。この言ひ方がをかしいのはお分かり頂けよう。ついでに、「滅相もない」も「滅相もある」とは言はぬわけだから、「滅相もありません」「滅相もございません」も誤用だらう。


 「意表を突く」 
 反論もあらうが、私はこれも誤用だと考へてゐる。本来なら、「意表に出る」が正しい。「意表」の「表」は「おもて」つまり「外」をあらはし、「意表」とは「意外・思ひの外」の謂ひであり、「意表に出る」で「相手の予想外のところに姿を現す」と考へればよい。今ではこれも殆どの人が「意表を突く」と言つてゐると思はれるが、おそらく「不意を突く」との混用ではあるまいか。

 ただし、小学館の「日本国語大辞典」(第一版・昭和四十八年刊)には、「意表を突く」が「意表」の小見出しで出てゐる。この大辞典に楯突くのもいささか気が引けるのだが、この第一版の「意表を突く」にはどういふ訳か使用例が一つも出てゐない。「意表に出る」は小見出しのあとに、「相手が考えていないこと、予想外のことをする」と説明があり、数例の使用例も出てゐるのに、「意表を突く」は「予想外のことをしかける」と言ふ説明のみで使用例を一つも挙げてゐないのだ。

 憶測が過ぎると顰蹙を買ふことを恐れずに言ふが、おそらく、かなり以前からこの言ひ回しが多用されてゐて、無視できず小見出しで挙げたものの古い使用例が見当たらずに上のやうな説明のみとなつたのではあるまいか。これも国語学の専門家の意見を聞きたいものだ。また、「大辞典」の第二版で、どう変化してゐるか是非知りたいものである。多分、最近の使用例――古くても昭和以降か精々大正以降の例しか出て来ないのではあるまいか。

 この言ひ回しは今や慣用的になり、一人の例外なく「意表を突く」を使ふだらうが、私はあくまで「意表に出る」と言ふことにしてゐる。
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by dokudankoji | 2006-09-29 02:27 | 雑感 | Trackback | Comments(3)
2006年 09月 14日

書評

 先週発売になつたSAPIOに書評を書きました。富岡幸一郎氏の新著『新大東亜戦争肯定論』。タイトルが林房雄の『大東亜戦争肯定論』に一字足しだだけの大上段に振りかぶつたものですが、誠実な著者の誠実な問ひかけ、問題提起を我々は誠実に受け止める必要があります。ご一読お薦めします。

 あの戦争を戦はなかつたらこの国はどうなつてゐたのか、戦後六十年余り我々の過ごして来た時間に如何なる意味があるのか、この本のお陰でこの夏はそんな事が度々頭をよぎりました。あの戦争をどう捉へたらよいか分からないといふ人にこそ、是非薦めたい一書です。
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by dokudankoji | 2006-09-14 00:27 | 雑感 | Trackback(1) | Comments(1)
2006年 09月 08日

資格!?

 昨日から喉に小骨が刺さつたやうな不快感がずつと続いてゐる。例によつて朝日新聞の社説。七日付、「男子ご誕生――心から喜びたい」の記事。敬語の遣ひ方はここでは措く。例の如き全体の論調も、この際、措いておく。
 
 中にかういふ一節があるのだ。≪皇室典範の定めでは、皇位を継げるのは「男系の男子」だけだ。今回誕生した男の子は将来、天皇になる資格がある≫。書庫の整理をしながら手元にある国語辞典・漢和辞典を片端からしらべたが、やはり釈然としない。

 大学の受験資格ではあるまいし。天皇になる資格は小泉にはない、といふ言ひ方はあり得ても(あり得ない?)、生まれながらに皇孫である親王殿下に天皇になる資格云々といふ言ひ回しはをかしい。世間一般の用法では「資格」といふ言葉をかうは使ふまい。「皇室典範に従へば、皇太子殿下には天皇になる資格がある」と、普通、言ふか。ばかばかしい。

 これが全く無意識に書かれたものなら、書いた人間の言葉の感覚を疑ふ。意識的なら、悪意を感ずるのは私だけではあるまい。もう一つ、この可能性が一番高いのだが、最早、まさに「無意識に」かういふ書き方をしてしまふ程、皇室を卑下し蔑ろにしてゐるといふことではないか。
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by dokudankoji | 2006-09-08 23:48 | 雑感 | Trackback(1) | Comments(0)
2006年 09月 06日

おめでたきこと

 紀子様無事親王御出産、なんともいへぬ嬉しいニュースだつた。男児であらうとは、(勝手に)確信してはゐたものの、やはりほつとする朗報だつた。取敢へず皇室典範改悪論議にはブレーキが掛かるだらうが、おそらく多くのメディアや「識者」がしたり顔で、「早晩『改悪』を考へなくてはならない」などと騒ぐことは間違ひない。

 次の首相が誰であれ、親王が誕生したからといふ理由で皇室典範に関する論議を棚上げするといふのではなく、皇室は、そして日本はいかなる姿の国であるべきかをしつかり見定められる心の持ち主であつてほしい。小泉のやうに軽率な首相が続かぬことを祈る。

 ところで、日本の一般的な継承が婿養子を取つたりする女系を包含する緩やかなものだといふ論議、男系男子を主張してゐては支那に頭が上がらぬぞといふ言挙げ(『諸君!』十月号を見られよ)まで見られるが、これはをかしい。支那に一王朝が一つ家系で二千年余り(二千六百六十六年とは言はぬ)続いた例はあるのか。世界中にさういふ王室の例はあるのか。たとへ孔子の子孫が男系男子で何百万人存在しようと、それががどうした、といふ外はない。支那は今や共産主義の国ではないか。

 むしろ、かうは考へられぬか。世間一般が女系であつたり、全くの他家から養子を迎へざるを得ず、それをよしとしてゐる曖昧模糊たるわが国で、いや、さらに言ひなおせば、男系男子で繋ぐことの甚だ困難な継承といふ問題において、どこの国にせよ、女性を中継ぎにしてでも、結局は男系男子で継承して来た王室の存在に粛然たる思ひを感じはしないか。我々「下々」にはとても出来ぬことを二千有余年に亙つて繋げたこの国の叡智を前に、私は頭を垂れるのみである。さういふ心情を持つか持たぬか、すべての問題は、おそらくそこに掛かつてをり、さうである限りこの議論は平行線を辿る外はない。

 私には、皇室の系図がいつの間にか神話の世界に繋がる民族の歴史に誇りなり喜び(楽しさ)を感じられないとすれば、そのこと自体が既にこの国の生命力の枯渇を意味してゐると思へてならない。神話を馬鹿にしてはならない、神話をフィクションといはば言へ。そのフィクションより確固たる何が現実の世界に存在してゐるか考へてみたらよい。現代の我々に、フィクションほどの存在感もありはせぬ。
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by dokudankoji | 2006-09-06 22:32 | 雑感 | Trackback(6) | Comments(6)