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2006年 06月 18日

分を辨へる

 以下は『文藝春秋』平成十四年九月臨時増刊號「美しい日本語」に書いたエッセイ。ゆつくりパソコンに向ふ時間も取れぬので、旧稿を掲載します。

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 「分を辨へる」、この言葉を聞かなくなつて既に久しい。もはや死語となつたと言つてよからう。要は日本人が分を辨へなくなつたといふことだ。 考へてみれば「分」といふ言葉も、「辨へ」といふ言葉も、我々はとうの昔に忘れてしまつたらしい。

 分、分際、分限――どれもみな、近頃耳にしない言葉ばかりだ。咀嚼して言へば「身の程」、これまた既に死語と化してゐる。「分」、つまり人それぞれに與へられた「さだめ」「きまり」、あるいは限界。日本人がこれらのものを見定めなくなつて、どれほどの年月が經つのか。その長さに比例して我々は無自覺、無分別になつて行く。さらには、名分、本分、(武士の)一分といつた言葉も我々は失つてしまつた。といふことは面目や職責、あるいは守るべき務めを我々が考へなくなつたといふことだ。

 翻つて「辨へ」――この言葉はいふまでもなく「分く」から派生したものであらうが、これもまた耳にしなくなつて久しい。(ちなみにこの「辨」に常用漢字の「弁」を充てては意味が通じぬ。弁は象形文字で兩手で冠を戴くの意。辨は會意文字で刀で切り分けるの意。弁では辨別の意味が見えてこない。)「分」を辭書で引き、その意味を丁寧に見ていくと、要は自分に割り當てられたもので滿足し、さらにはそれをきちつと果たしていくことだと知れる。言ひ換へれば、「けぢめ」。

 近頃、このけぢめがまるで失はれてしまつた――今さら政治家や官僚の無慘な姿について論ずる氣はないが――我々の身の廻りにウンザリするほどの例が轉がつてゐよう。電車の中での飮食・化粧、公的な場でのはた迷惑な大聲での私的な會話、街なかを歩けば所構はず坐りこみ、すれ違ふ時によけようともせずにぶつかつて來る若者達、授業中に掛つて來た携帶電話に平然と出て話をする學生(とは呼べぬか?)。

 しかし決してこれらを「近頃の若者は」と言ふつもりはない。同じ事をかなりの年配の者がやつてゐる。つい最近も東海道線で、小一時間かけての厚化粧で、見事に變身したヲバさんや、周りに遠慮會釋ない大聲で携帶を掛けるヲヂさんや、どんちやん騷ぎの延長をやつてゐる行樂歸りの一群など、目撃例なら枚擧に暇がない。授業中の携帶は若者だけでせう、と仰る方があるかもしれないが、とんでもない、劇場で芝居を觀てゐる最中にこれをやるヲバさんが現にゐる。

 もしも近頃の若者の態度を非難するなら、その親を非難せねばなるまい。つまりは私と同年代の世代、今の四十代五十代が自分の子供にまともな教育や躾をしなかつたか出來なかつたか、それ以外に原因は考へられまい。昨今の學校教育や社會のせゐにしては無責任に過ぎる。

 さらに言ふなら、この世代を育てた戰後の「民主主義」全能の時代風潮と、その風潮を意圖的に作り出した進歩的文化人や日教組を非難すべきでもあらうか。しかし、我々ヲヂさんヲバさんにせよ大學生にせよ、いい歳をして「受けた教育が惡いのよ」とばかりに、自分の缺陷を親や時代のせゐにするわけには行くまい。

 なぜにかくもけぢめが失はれたのか。教育や躾のどこがいけなかつたのか。答へは簡單、「子供の個性尊重」などといふ戲言を言つて、世にけぢめや分があることを辨へさせなかつたからに過ぎない。

 「なぜ人を殺してはいけないか」、さう聞かれて返答に窮する大人がゐるといふ。そもそもそんな質問が出ること自體がナンセンス、教育のしそこなひと言つてもいい。世の中にはやつていい事と惡い事がある――これを、幼兒期から理窟無しに叩きこんで置けばすむ事。燃えてゐる火に觸つてはいけない、子供はマッチや庖丁で遊んではいけない、そんな事を教へるのに理窟で説明する必要はない。それこそ「駄目なものは駄目」で尻を叩けばよい。子供は世の中には自分にとつて危險な事柄が存在し、さらには、如何にそれを避けようとしても、時に理不盡な運命に遭遇するものだと知らず知らずに學んで行く。

 つまりは、ものごとの善し惡しのけぢめ――子供であるがゆゑに首を突つ込んではならぬ世界があることや、子供の分際でしてはならぬこと、言つてはならぬこと――さういふ辨へなくてはならぬけぢめのあることも自づと會得する。家庭や學校に於てかうした躾や教育を受けて育つた人間が「なぜ殺してはいけないか」などといふ愚問を發しようはずがない。

 「分を辨へる」――これは決していたづらに己を卑下し萎縮するといふことではない。各々の人間がいやでも甘受せざるを得ぬ持つて生まれた天分、立場、宿命に謙虚であれといふに過ぎぬ。しかるに戰後の自由平等思想の押附がわれわれに齎したものは、自由平等どころか「自由で平等であるはずなのに、本當は全然さうではないんだ」といふ現實に對する恨みつらみの慾求不滿ではなかつたか、そしてその結果としての諦めと無氣力と自堕落ではなかつたか。

 敬語や謙讓語をきちつと教へ込むゆとりすらない教育も愚かの一語に盡きよう。敬語を使はねばならぬ場合があること、これまたけぢめを教へることであり、その場に臨んで適切な敬語を使ふといふ行動が、いつの間にかその人間の擧措を端正なものにする。言葉に支へられた内面が擧措といふ外面を形作ると言つてもよからう。

 「分を辨へる」といふ言葉が死んだのは、さういふ思考や態度が失はれた結果であらう。あるいは鷄と卵、さういふ言ひ廻しを使はなくなつたがために、人間として當然持ち合はすべき美徳を失つたか――どちらでも同じことだ。これはまさに表裏一體、戰後五十有餘年、我々が「營々として」築いてきた日本の姿がそこにある。
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by dokudankoji | 2006-06-18 01:05 | 雑感 | Trackback(5) | Comments(1)