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2006年 03月 13日

神が舞ひ降りる

 阿久悠氏の書くものはいつも面白く頷かせられることが多い。十日ほど前の産経新聞のコラムに書いてゐたこともさうだつた。そのコラムそのもを取り上げようといふのではないが、その中で触れてゐる事から、書きたくなつたことがある。少々長いが、まづ氏のコラムから抜粋する。

 ≪オリンピック中継を見ていたら、敗者でありながら、「満足しています」「よくやったと思います」と、胸を張ってるかに思える若者が多くて驚いた。大会前の台詞が妙に劇画的で心配していたのだが、劇画的啖呵の手前なのか、態度を変えない。/時々オリンピックには、「言葉の誤解」が生まれることがある。時代の流れの読み違えといってもいい。/アトランタの時だと思うが、やたらに「オリンピックを楽しむ」という言葉が流行り、多くの選手がそう言った。そして、ご存じのように惨敗した。誤解は「楽しむ」である。日本の若者たちは、日の丸も忘れ、記録も気にせず、自分のその時間を楽しめばいいと解釈した。気楽にのびのびとやれやれである。誰のためでもない、自分が楽しいかどうかだと。/同じ意味の言葉を世界記録保持者のアメリカのスプリンターは、「もの凄い記録を出すと神が降りて来る。それが楽しむということだ」と言い、ぼくらは蒼ざめた。オリンピックを見ると、その時代の日本人がわかる≫

 トリノでも、やはり「楽しみたい」「楽しめた」といふ言葉をメダルも何もない、そして入賞もしていない選手の口から何度か聞いた記憶がある。いつもそれに苦々しい思ひをしてゐた私には大いに共感できる一節だつた。

 それはそれとして、この「神が降りて来る」ことに立ち向かふアスリートを、多くの日本人選手は、あるいは日本人はどう考へるのだらう。単なる比喩と思ふのだらうか。この言葉を口に出来るアスリートに私は羨望を超えて嫉妬すら覚える。

 「神が降りて来る」瞬間を期するとは、どんな心境なのか。如何なる立場に立てば、如何なる職業に就けば、望み得ることなのか。我々凡人には無縁の境地なのか。あるいは誰にも一生に一度くらゐの可能性はあることなのだらうか。

 当たり前だが、残念ながら私自身にもその経験はない。ただ、阿久悠氏のエッセイにかこつけて、この記事を書かうと思ひたつたのは、少なくとも神が舞ひ降りる瞬間に、つい最近立ち会つたと信じてゐるからである。

 それは二月の歌舞伎座、夜の部の『京鹿子娘二人道成寺』(きょうかのこむすめににんどうじょうじ)のことだつた。この所作事はそもそもは一人で踊る。題の「二人」を取つた元の『京鹿子娘道成寺』(いはゆる安珍清姫の物語)は初演が宝暦三年の舞踊であるが、江戸後期になつてから何度か二人の踊り手で舞台に掛けられてゐる。今回は二年前に続けて玉三郎と菊之助の二人で踊つた。

 今まで二人で踊る時は二人の踊り手が花子と桜子といふ二人の白拍子を踊り分けるのだが、今回は花子とその分身といふ設定になつてゐる。いはば陰と陽。実の花子と花子分身=霊とも言へる。舞台の使ひ方の例で分かりやすく説明すれば、一人目の花子(陽)の出は花道から、二人目(陰)は「お化け」や死者などが使ふ花道七三にあるセリ(スッポン)からせり上がる、といつた具合である。

 正直に言つて私は舞踊物を観るのは得手ではない。今回の舞台も、二人の舞台が素晴らしいからと言はれて、二年前を見なかつたこともあり、取敢へず観ておくかといふ程の気持ちで歌舞伎座に行つた。
 
 ところが、幕が開いて暫くすると私は言葉通り「吾を忘れて」舞台に見入つてゐた。ともかく美しい。所作、舞台の流れ、何を取つても文句のつけようがない。一人でも難しい踊りをまだ若い菊之助と脂の乗り切つた円熟の玉三郎とが、見事に一体となつて一つの物語を踊り尽くしてゆく。

 玉三郎は自分を主張し続けながらも菊之助を見守り助け、菊之助に「ここまでおいで」と導き続ける。菊之助はしつかりとその姿を追ひ続ける。いはば菊之助は楷書の踊り、初々しく純粋で華やぐ。玉三郎は草書の踊りといふべきか。熟練を通り越して舞踊の極地を「陰」の世界の妖気とまではいはぬが、これ以上は望めぬとすら思はせる女方の到達点といふものを見せてくれる。しかも若い盛りの菊之助よりも美しい。菊之助よりも身体は柔らかく動きはしなやかだ。

 二人の差には歴然たるものがある。にもかかはらず二人の均衡が少しも崩れない。それどころか、素人目にも疑ひようの無い二人の経験の開きをあらはにしながら、しかも美しい調和を保つ。おそらく舞台の上の二人は相当の綱渡りをしてゐるはずだ。少なくとも玉三郎はさうであつたはずなのだ。それを余裕でこなし、菊之助の未熟さ、若さをそれとは見えないやうに援けてゐる。

 並みの役者なら自分の技術が優れてゐることを客に見せたがる。もう少し技術のある者なら相手を潰しにかかることすらあり得るだらう。五十台も後半になつた玉三郎にはさういふ選択肢もあり得たかもしれぬし、自分の贔屓筋を喜ばすことのみに専念することも可能だつただらう。が、勿論、そんな低次の舞台で玉三郎が満足しないことは明白だつた。

 その美しさは単に姿かたちの美しさではなかつた。それは、おそらく、玉三郎の心の律しやうに起因してゐるに違ひない。玉三郎は稽古場から千秋楽の舞台に到るまで、踊るたびに必死で一つのことと闘つてゐたに相違ない。他でもない、自分の芸を菊之助に伝へようとしてゐるのだ。老いて行く人間の宿命、歌舞伎の女方の、しかも舞踊の宿命をいやといふほど思ひ知つてゐる玉三郎が、あたかも人間が子孫といふ形で自分を後世に伝へようとすることにも似て、自分の芸を技術を、可能性を秘めた若者に伝へようとしてゐる姿が、私の目にはありありと見えた。

 幕が開いてから終幕に近づくにつれ、劇場全体を三階席の一番遠い席に到るまで完璧に一つの空間としつくした、紛れもない純粋な芸術空間が存在した。幕切れ、菊之助が鐘の上に腰を落とし、正面を向き見得を切って静止する、その一瞬の後、玉三郎は菊之助の後ろに立つて下手(所化のゐる方向)に顔を向け僅かに顔を突き出して見得を切る。その絶妙な一瞬の間といひ、蛇身と化したその表情と姿といひ、客席の私は文字通り鳥肌を立ててゐた。幕が閉じた後も、暫くは客席で放心状態といふか、打ちのめされてゐた。あの瞬間、舞台に「神が降りて来て」ゐたと私は信じてゐる。少なくとも、玉三郎は稽古場から千秋楽の舞台に到るまで神と対峙し続けたに違ひないのだ。

 蛇足かも知れぬが、思ひ出したことをもう一つ書いておく。十一年前の日生劇場でのこと。同じ玉三郎だが、四十台半ばを過ぎた彼が舞踊を中心にした四つのプログラムを交互に演したことがある。どれも心に残るものだつたが、中でも『夕霧』の一場面が未だに眼に焼きついてゐる。

 その舞台のどの辺りかは明確な記憶はないが、おそらくはやはり幕切れだつたのではあるまいか。遊女夕霧になりきつた玉三郎がゆつくりと体をひねり、回転させながら坐るところだつた。その沈むやうな動きが、舞台の上ではなく私の中でスローモーションとなつてゆく不思議な感覚を味はつた。まるで舞台は静止したかのやうな感覚と、舞台ではなく私の心の中で夕霧がゆつくりと一瞬も静止することなく同じ速度で螺旋を降り続けてゆくやうな感覚とでもいはうか。この時も、劇場全体が一つの空気に包まれ溶け合つてゐた。

 私の記憶では、当時やや太り出した玉三郎が、女方といふものの宿命と限界を感じ、危機感を持ち始めた時期だつたと思ふ。その危機を節制と毎日の水泳で乗り切つたのだらう。一連の舞台が、確か現在VTRやDVDで入手できる舞踊集ではなかつたか。あの時もやはり神が舞ひ降りた瞬間に自分は立ち会へたと私は勝手に思ひ込んでゐる。
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by dokudankoji | 2006-03-13 01:06 | 雑感 | Trackback(5) | Comments(4)
2006年 03月 05日

前記事一部訂正と大幅追加――

 前掲記事、NHKとの遣り取りの中で数箇所訂正しておいた。「28日のニュース10」は「3月1日のニュース10」の誤り。急いで書いたため28日の衛星第1の総集編と混同した。多謝。

 同時に大事なことを書き忘れた。

 28日の衛星での総集編の中身。サブタイトルは「みせます‘情熱’の名場面」といふ。ここではおよそ45分前後をスケート競技全般にあててゐる。

 荒川に関する「名場面」は、地上波の総集編(27日)とは打つて変はり日の丸オンパレードなのである。まづ荒川のフリーの演技が終了したところで荒川自身と客席で振られる日の丸の大写し、そしてスタンディング・オベーションまで約15秒。スルツカヤの演技が終り、荒川の金メダル確定の瞬間から、控への荒川やコーチの歓喜の映像、客席の両親、表彰式、掲揚される日の丸の大写し、インタビュー、そして日の丸ウィニングランで終る。ここまで競技を入れずに1分30秒弱となつてゐる(ウィニングランは3~4秒)。一応はまともな「編集」といへよう。

 そして、スケート競技の最初がショートトラック。これが韓国礼賛。いや、礼賛してをかしくない成績であることも事実ではある。その韓国の活躍ぶりがいかに報道されたかといふと――競技の映像に後から被せた解説で「ショートトラックは韓国の強さが光りました。後半のスピードは他の追随を許しません」と、事実なのではあらうが、我がことのやうに褒め上げ、男子1500m・女子1500mの全レースの模様を放映。どちらのレースも韓国選手が金銀二つのメダルを取つて終るが、女子のレースの後に、客席で歓喜する韓国の観客と翻る大小無数の太極旗の映像、続いて太極旗ウィニングラン、この映像に重ねて「ショートトラックは韓国が8種目中6種目を制覇しました」と後から加へた解説、画像にも「8種目中6種目」といふ字幕が出る。その間、二つのレースのダイジェストを含め2分10秒余りである。客席の太極旗も含めウィニングランが約10秒となつてゐる。

 これらを見てゐて(アイス・ホッケーで優勝したスウェーデン・チームが国旗を拡げてゐる映像もあるが)、やはりNHKが韓国に尻尾を振つてゐると、少なくとも私には思はれる。韓国が事実ショートトラックで脅威的な強さを発揮したにしても、そのウィニングランに10秒近く費やし、荒川の場合は3秒ほど。国際映像の配信が無かつたといふ見方を信ずるにしても、NHK自身が撮つた映像はないのだらうか。常識から考へれば、ニュースや総集編、あるいは記録としても映像を残してゐないはずはなからう。上記の如く衛星第1の総集編には、実況、ニュース、地上波の総集編にも出て来ない様々の映像が使用されてゐるのだ。

 また、地上波では二度のニュース時間帯以外には荒川のウィニングランを放映せず、衛星のみの放映となつてゐることをどう考へたらよいのか。地上波で観てゐる視聴者の方が圧倒的に多いだらう。なぜ、その地上波の方が衛星第1より総集編が短く、たつた一度の金メダルの表彰式や国旗掲揚(君が代)を放映しないのか。こんな疑問を感ずるのは私の偏見なのか。

 実は、私はさらに穿つた「憶測」をしてゐる。この「日の丸ウィニングラン問題」は2月26日の夕刻からネット上で騒がれ出してゐる。私に最初のメールが届いたのも19時台、それに気が付き、最初の記事を書いたのが同日深夜である。ネット上の掲示板やブログは、27~28日はこの話題で沸騰してゐたといつてもよいくらゐである。そして、NHKにはこの二日間に電話での抗議や問ひ合わせが、多分、殺到したものと思はれる。

 28日夜7時半からの衛星第1の総集編はその間の事情を反映して、いかにも公平であることを(必死で?)装はうとしたのではないか。この「憶測」は偏見か。NHKは、地上波で放映しないのは平常の動かせない番組が詰まつてゐて十分の時間が取れないとでも言ひ訳するのだらうか。「国際映像の配信が無かつた」とNHKが言へば、どうしようもない。「編集権」だか「偏執権」だか知らぬが、それはNHKにあるのださうだから。韓国のウィニングランはともかく、荒川のそれを観る権利は受信料を払つてゐる視聴者にあると思ふが。
 
 この問題、取敢へず、この記事までにするつもりでゐる。これ以上書くとこちらが「偏執狂」と思はれかねぬので……。
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by dokudankoji | 2006-03-05 23:44 | 雑感 | Trackback(4) | Comments(5)
2006年 03月 04日

懲りないNHK

 前掲記事で扱つた、荒川選手「日の丸ウィニングラン」問題がネットの世界でかなり波紋を呼んでゐる。殆どは「NHKは許せぬ」といふ批判だが、中で興味深いブログを二つ見た。『玄倉川の岸辺』と日頃から敬愛するジャーナリスト花岡信昭氏のブログの二つの記事である。前者はNHKの日の丸ウィニングランをライブで放映出来なかつたのは「偏向」ゆゑではなく、NHKの「無能」ゆゑではないか、直情的に偏向報道と考へるべきではないといふ説。後者はジャーナリストらしく、確証がないものを「偏向」と決め付ける危険性を「落とし穴」としてネットの世界に慎重な対処を求めた冷静な記事。さらに花岡氏はNHKの友人から直接「取材」し、国際映像が日の丸ウィニングランの前までで終了し、その後はNHKが勝手に放映できなかつたといふ事情を書いてゐる。

 国際映像を利用せざるを得ないNHKを責めるわけには行かないといふブログは他にも散見される(さう多くを網羅的に見たわけではないが)。確かに、これらの意見は傾聴に値する。私も自分の前掲記事は軽率だつたのかなとも思ふ。で、今日は半日掛けて幾つか確認作業をしてみた。

 国際映像が三人のメダリストのウィニングランまでだつたといふ可能性を否定するやうな確証は今のところない。が、それにしても疑問は氷解しない。もし、国際映像がそこまでだつたとしたら――

① なぜ、刈屋アナウンサーはその断りを言はないのか。(「申し訳ありませんが、国際映像の契約上、ここからはVTRをご覧頂きます……」)
② なぜ、VTRを流してゐる間のリンク上の出来事をラジオの如く実況で報道しないのか。(「今、荒川選手が関係者から日の丸を受け取りました…ウィニングランです……日の丸を羽織ってウィニングランです、日の丸を振つて総立ちの観客に笑顔で応へてゐます……客席でも沢山の日の丸が翻つてゐます……!」)
③ 上のやうなことを一切言はないのに、5分以上経つてからカメラマンの要望に応へ荒川選手がリンク上を「あちこち」移動してゐること、「出口のところでカメラマンに捕まつて動けない」とか、「ファンに呼ばれてリンクの反対側に行つてしまひまいした」などのみ伝へてゐるのはなぜか。
④ 少なくとも、総集編では日の丸ウィニングランを思ひ切り流してもよいではないか。

 といふわけで、上記の冷静な記事に触発されたこともあり、3日の夕刻(18:30近く)NHKのコールセンターに質問した。最初の女性は判で押したやうな応答。直ぐに代はつた「上の者」とやらとの応答、概略以下の通り。

 国際映像がそこまでだつたと言ふ答へは予想通りだつた。このことには、先に述べた通り現段階で確証はない。あるいは事実なのかもしれない。その点では「偏向報道」と決め付けてはならないいふ花岡氏の冷静さに脱帽する。

 しかし、NHKの「上の者」、その後が頂けない。国際映像が無いなら、なぜ音声で実況放送をしなかつたのか問ふた私に、「映像がないのに解説したら変でせう」と答へた。さらに、国際映像が途切れる事を断ればよいではないかといふ質問にも同じ返答である。この答へ、答へになつてゐるだらうか。さらに実況してゐた「刈屋アナウンサーがリンクの見えるところにゐたかどうか、分からない」とまで言つてのけた。呆れて、こちらは一瞬言葉に詰まつたほど。繰り返し同じ事を聞いたが、はっきり何度も「分からない」と応答した。そんなことが分からないわけが無い。

 少なくとも、抗議電話が殺到してゐるらしい現在、こんないい加減な返答をすること自体、無防備といふか視聴者を馬鹿にしきつてゐるとでも思はざるを得ない。花岡氏の友人の言を信ずるなら、NHKとしてはこの問題に火がついた26日から今までに、なんら統一見解を出してゐない、行き当たりばつたりの応対をしてゐるといふことだらう。それはこのサイトの「電突報告」の項をクリックして見れば、NHKの応対が相手次第、応対したもの次第でかなりブレてゐることも分かる。

 さらに、私が「その後、ニュースなどで」放映したか尋ねると、「何回も」流したといふ。「それは、いつか」―「ちょっと待つてくれ」……「当日の正午のニュースだ」「その一回か」「28日3月1日のニュース10でも」「その二回だけですか」「二回だけつて、強調しなくてもいいぢやないですか」「あなたが、何回もって強調したから。では27日夜の総合1chの総集編では流したのか、28日1日夜の衛星第1の総集編はフィギュアに30分も費やしたが、そこでは流したか」といふ質問に、答へて曰く「そんなのは編集権の問題ですよ」。

 またもや、開いた口が塞がらなかつた。この「編集権」はしつこく口にしてゐた。さうなるとこちらも、受信料を払つてゐる立場の要望権・視聴権・不払権……なんでも持ち出したくなつたが、下らぬ電話に時間を費やすのがばかばかしく、10分ほどで電話を切つた。件の人物、電話の冒頭から相当に怒つてゐる様子で、しかもかなり居丈高、威圧的。こちらに腹を立ててゐるといふ感じがありありと思つたのはこちらの「偏見」か。

 以上、異常なNHK、懲りないNHKの報告だが、ついでに正確を期すために付け加へるが28日1日の衛星第1の総集編では、実は日の丸ウィニングランを僅かだが放映してゐる。これは私自身が留守中にVTRで残して確認したから間違ひない。したがつて少なくとも3回は放映したわけだが……。

 いづれにしても、上のやうな応対が多くのブロガーやネット上に、却つてNHK不信や「偏向報道」といふ「先入観」を巻き起こし、無用の(?)騒ぎを引き起こしてゐることも否めなからう。もし、NHKが偏向報道と言はれたくないなら、日本が獲得した唯一つの、しかも多くの国民が期待してゐる荒川のメダル、しかも金メダルなのだから、少なくとも地上波の総集編で、その演技・表彰式・式後のリンクの熱狂を日の丸ウィニングランを含め存分に報道する責務は、公共放送として、あるであらうが。

 それをしないNHK自体、「編集権」などといふ言葉を一視聴者に向つて口にする体質自体に、私は「偏向」の臭ひを嗅ぎ付けてしまふのだが。
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by dokudankoji | 2006-03-04 02:52 | 雑感 | Trackback(10) | Comments(7)