福田 逸の備忘録―独断と偏見

dokuhen.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:雑感( 238 )


2011年 11月 12日

短く~承前

 玉三郎の舞台に我々が観るのは何か。住大夫の語りに私たちが聴くのは何か。それは意味でも意義でもない。「芸術」に我々は「今日的意味」や「テーマ」など求めはしない。求めなければ済まされないとしたら、それはそれが芸術ではなく、観るに値せず聴くに値しないものといふことにならう。

 では私たちはこれらのものに何を求め、何を観、聴いてゐるのか。いふまでもない。魂である。演者の魂。その魂を彼らが持てる技術の総てを動員して提示する姿に我々は心を打たれるのだ。魂といひこころといひ、これらは目に見えぬ抽象的精神的なものではない。手にも触れられさうなほど具体的な、たとへば、舞踊の技術であり語りの技術以外の何物でもない。演者が自分の技術に魂を込めて演ずること。それに観客は心を奪はれる。

 ここにはテーマだ今日的な意味だといつた、頭デッカチの入りこむ余地はない。小林秀雄流に言ふなら、「お悧巧な人はテーマでも意義でも、たんとお考へなさい。私はバカだから考へない。」

 「堅壘奪取」を演出する時、理屈ではなく技術あるいは外面を意識したといふのはさういふ意味である。その結果が、住大夫の域に達してゐないことは百も承知、玉三郎と比べるのは冗談にしかならぬことも分かつてゐる。が、自分が彼らと同じ土俵に立ち、同じ戦ひを、つまり自分との或いは自分を超えた存在との戦ひを戦つてゐるといふ確信が、私にはある。
[PR]

by dokudankoji | 2011-11-12 16:44 | 雑感
2011年 11月 12日

「堅壘奪取」の稽古場から

 芝居の稽古といふと、普通なら稽古初日に演出家から演出意図なり作品解釈なり「方向性」やらの話があつて稽古に入るものだが、今回父の「堅壘奪取」を演出するに当たつて、私は一切それをしなかつた。今回稽古初日は、もう一本の「一族再會」と合同の顔合はせとなつて、かなり形式的(儀式的?)な読み合はせから始まつたことにも一因あるが、それぞれ単独の稽古になつてからも、私はその種の話をせず、その後、正味30日に近づく稽古の間、テーマだとか意図など説明しようとも思はなかつた。

 読めば分かるでせうといつた気分も無くはなかつたが、どういふ芝居を創るかの理屈を捏ねてゐるより、科白の一つ一つを書いてゐる作者の筆が、その書いてゐる瞬間に躍動する姿を、そのまま舞台に移し替へることに専念した。さうとでも言ふしかない。今まで、このやうな手法で演出したことは一度もない。必ずと言つていいほど御託を並べた。

 では、今回どういふ稽古を進めたかといふと、やたらに形だとか間だとかタイミングだとか、あるいは科白の抑揚やテンポやリズム、そんなことにばかりこだわり続けた。極端な話、登場人物の性格すら無視して、その場、その科白がどういふ効果を持つべきか、その種のダメ出しに終始した。

 特にこの「堅壘奪取」といふ戯曲が他の作品以上に形を要求するのかもしれない。あるいは何が書いてあるかなど、説明するまでもない単純な戯曲だといふこともできるかもしれない。だが、何より私の頭にあつたのは一つ一つの科白が要求する姿を「外面的」に創ることに専念すれば内面は自然と浮かび上がるはずだといふ確信だつた。テーマやら意味は後からついて来る、さういふ発想に立つて稽古の終盤に掛つてゐる。

 稽古が始まつて三週間ほどした頃、若い役者のO君が笑ひながらかう言つたものだ、「最初の稽古の日の、あのダメの量の多さには絶望しました」と。さう、敢ていふなら、私は役者が徐々に体に染み込ませるべき登場人物に、相当せつかちに、ただただ結果を要求し続けた。稽古の初期から、例へば、をかしな科白ならその科白がをかしいといふことを見せてくれ、技術を見せてくれと要求し続けたともいへる。結果が見えてナンボのもの、さういふ要求ばかりした。

 理屈はいらない、ここでAの役が不機嫌になつていゐないと次のBの科白がはあり得ないとするなら、何でもよい、Aが不機嫌なことを客席に伝へてくれ、そこから先にこの芝居の展開が生まれる、さういふ創り方を役者に強ひ続けた。

 一幕物にしては長い稽古期間だが、後半の稽古に入るころ役者達は、私のダメ出しのを、それが何であれ、ほぼ100%理解し、細かな稽古など繰り返さなくとも、翌日にはほぼ答を出してきてれくれるやうんみなつた。従つて、毎日の積み重ねがないなどといふ日は一日もない。何かダメを出せば必ずそれを咀嚼して数段階段を上つて舞台を緊密にしてくれる。かういふ稽古は久しぶりの経験である。一言でいへば気持のよい稽古場。

   ***********************************

 これ以上の具体的なことは、観に来て下さる方のために書かずにおくが、この稽古を進めてゐてつくづく思ふことがある。

 文学にせよ演劇にせよ、あるいは音楽においてさへ、我々はどうしてテーマや作品の意図をしつこく論じたがるのか。モーツァルトを聴くとき我々はテーマなど考へ、それを理解しつつ聴くだらうか。ただ、その楽曲を楽しみ、気分が弾んだり明るい気分になつたりしんみりしたり、それだけのことではないか。

 前にこのブログでもさまざまの音楽や舞台について書いてきた。しかし、私は一度として観念的な理屈を述べたつもりはない。いつも、それらの演者たちが作品群が私の心にどう響き、どう感動させ、私の胸をどう打つたか、さういふ事ばかり書かうとしてきた。が、往々にして人は「芸術」に触れる時、「理解」しようとする。いはく「この作品のテーマは何か」、「この作者は何が言ひたいのか」……これは「芸術」に接する態度ではない。或いは、さういふところからさ舞台を創るべきではない。頭では舞台は出来ない、心で考へろ。

 あらゆる芸術の根幹になくてはならぬもの、観せるにせよ聴かせるにせよ、いかなる芸術も、理屈は抜きにして、まづお客を楽しませもてなす、そのことを忘れると、ただ生真面目で理屈っぽい、退屈な舞台を産むだけだ。頭デッカチの舞台創り。それだけは私は避けたい。今度の稽古場では殊にさういふ気持が強い気がする。

 これは、実は言語そのものについても言へることかもしれない。文章といふもの自体、実は理屈以前に、読者を楽しませもてなすことが大事なのではないのか。小説であつても、筋や物語以前に、読者にさまざまな味はひの「心地よさ」を提供するべきではないのか。読んで心地よい、さうではない文章にどれ程の価値があるのだらう。

 もし、このブログの読者が16日に始まる「堅壘奪取」を観て下さり、そこに言葉のリズムや間合ひや、そして語られる内容が当然のごとくに心に伝はることの「心地よさ」を感じることが無かつたら、それは私の演出が間違つてゐる、さう言はれても仕方がないと私は思つてゐる。

    **************************************

 たとへさうであつたとしても、この戯曲ほど、外面から内面へといふ常套的な演出を拒絶されたのは初めてといつてよい。が、悔しい(?)のは結果はご覧じろとは言へぬのが舞台の妙。総ては生の役者の肉体といふ「楽器」を通して観客に伝達され、かつ、総てはその日その日の異なる観客と舞台との呼吸で微妙に変化する。舞台稽古を済ませれば、演出家の出場はなくなる。後は総てひとまかせ、あなたまかせ。

 以前はさういふ舞台芸術に苛立つことが多かつた。日々の舞台の出来に役者を恨みたくなり、観客の「鈍感」に腹を立て、そんな時期もあつた。が、どういふわけか、今回の「堅壘奪取」の稽古を進めるうちに、さういふ気持ちが消えてゐる。そのことに自分で戸惑つてゐるくらゐである。

 大げさに言へば舞台創りは人生に似てゐる。何かのはずみで営々たる努力が一瞬で水泡に帰することもあれば、必死の努力も苦労も、どうにも報はれない、そんなことばかりだ。たまさか何もかも上手く行つたとか思つても、さして長くもない時の経過とともに人々に忘れ去られる。それをさびしいといふのではない。さうであるからこそ、忘れ去られる宿命であればこそ、芝居屋は、人間が明日を生きようとするのと同じやうに、明日も同じ舞台を勤めようとし、新たな舞台を創らうとするのではないか。人生と同じ、生きることに何の意味もないことの確認のために人は生き、舞台など夢のやうに消えうせることを知りつつ、そこに少しでも痕跡を残さうともがく。

 50歳を過ぎたころから、そんなことを思ひ始め、還暦を過ぎてそれは確信となり、ただ、稽古場に通ふのが苦しいとともに、あういふ私もまた私の一人と思つてゐる。この項目を書き始めた当初とは、少々話が脱線といふかずれてゐるが、近頃、スポーツ選手などの言葉でよく耳にする「プレッシャーを楽しむ」といつた分かつた風な口のききようが私は嫌ひだ。私は今回の稽古では徹底的に自分を追ひ込んだ。

 父の作品を演出するのは初めてである。しかも父の生誕100年を自分で企画して、作品を選び、その父親の戯曲を自分の選択した役者とスタッフの手で舞台に掛ける。これで失敗しては洒落にもならないと事あるごとに周囲の人々に言つてゐるのだが、言へば言ふほど自分に負荷がかかる。それを私は楽しめない。キツイだけである。キツイことが分かつてゐてもさらに負荷をかけ続けてゐる。プレッシャーは楽しむものではない。撥ね退けるか、打ちひしがれるか、さもなければ逃げるか、これしかないと私は思ふ。さう思ひながら、「堅壘奪取」の最後の仕上げに掛つてゐる。お見逃しなく。見逃せば、損をなさるのはあなたです。これも自分へのプレッシャー。(以上、出先にて馴れぬノートパソコンで記す。誤字脱字誤変換、乞御寛恕。)
[PR]

by dokudankoji | 2011-11-12 03:09 | 雑感
2011年 11月 05日

お報せを兼ねて

 随分ご無沙汰のブログで恐縮(してもいないのだが、失礼!)。11月16日に初日を迎へる舞台の稽古が10月冒頭から始まり、それまでに片付けるべき用事や仕事(ほとんど雑用)に9月の後半は忙殺された。

 10月になつて稽古が始まると、大学、稽古、その他雑用でまる一ヶ月間に一日の休日もなく、気が付けば11月。文化の日とやらいふ意味の分からぬ休日も稽古に明け暮れしてはゐるが、大学祭のおかげでこの数日は少々息が付ける状態。

 目下稽古中といふのは、福田恆存の一幕物「堅壘奪取」。私が生まれて程なくの頃、父の身に実際に起こつた珍妙な出来事。少々おつむのをかしな青年の訪問を受けた実話をもとにした一時間ほどの喜劇である。

 詳細は現代演劇協會のホームページでご覧頂きたい。チケットは、残念ながら、まだ十分残つてゐるとのこと。皆様、是非「文化の日」のある今月、文化の秋、芸術の秋を味はひに池袋までお出かけ頂きたし! いやいや、芸術といふ程のものではない。ただ、楽しんで頂ければそれで十分。私の演出ではないが、「一族再會」と両方ご覧になると、作劇術の違ひが実に面白い。割引の通し券も用意しました。

 ついでに、6日の産経新聞読書欄に、「堅壘奪取」と絡めてエッセイを書かせて貰つた。書かせてくれた産経新聞、まさに武士の情けか。残念なのが、産経の読者に演劇好きが余りゐないらしいといふこと。

 これとは逆に、先日朝日や日経と共に産経にも載つた国家基本問題研究会の意見広告を見て、この会に入会した人は朝日が一番少なく、産経が一番多いらしい。これはホッとする話。

 ついでに、9日には読売新聞が上の公演について取材してくれるとのこと。記事が初日に間に合つて、チケットが売れることを祈るのみ。

 以上、御報告と宣伝まで。
[PR]

by dokudankoji | 2011-11-05 02:21 | 雑感
2011年 09月 08日

長谷川三千子著 「日本語の哲学へ」 (ちくま新書)

 久しぶりにいい読書をした。十分楽しめたといふか、前半は謂はば格闘しつつもがきつつだらだら読んだと白状しておく。デカルトの「我思ふ、ゆゑに我あり」から説き起こして、ハイデッガーの「存在と時間」を逍遥し、和辻哲郎のハイデッガーとの距離の置き方、近づき方などを書きつつ、欧米諸語と日本語による思考(哲学)の位相を浮き彫りにして行く。「思ふ」、「ある」等の語と「存在」の意味、あるいは「存在」の曖昧さをどこまでも厳密に確認して行く。

 後半は、「もの」と「こと」といふ二語に二章が割かれてゐる。(「あんな酷いこと言ふんだもの」といふ文章で「もの」と「こと」を入れ替へて「あんな酷いもの言ふんだこと」とは日本人は絶対に言はない……)。この二つの言葉の担ふものを微塵なりとも見落とすまいとする著者の緊張と冷静と誠実が真直ぐに読み手の心へと伝はる。細かいことをここで記すつもりはないが、著者は「こと」といふ言葉の中に、「出で来る」もの、「生成」=「自ら成る」ものを見出し、「古事記」(事に注目)へと遡る。

 そして、実は、「もののあはれ」に通ずる「もの」といふ言葉の存在こそ、日本語が(日本語による)哲学の新たな地平を切り拓くかもしれぬ可能性を示してゐると著者は考へる。ハイデッガーが行き詰つたところから、日本語の哲学が人智の高み(深み)を思索する可能性を暗示する。≪ハイデッガーが「言葉が欠けている」「文法が欠けている」と言って歎いた、存在者の底――あるいはむしろ、存在者の無底――を示す言葉≫である「もの」といふ言葉が日本語にはあるといふのだ。

 「事」が「事」として出来し、はつきりと姿を現す状況(存在)を受け止める「こと」といふ言葉と、一方、空や無に通じて、消え入るやうな状況(存在)を示す――ハイデッガーを「言葉が欠けている」と歎かせたものを示す――「もの」といふ言葉とが日本語にはあるといふ事実に思ひ至り、つまり粗つぽく言へば、「生成」と「消滅」を言ひ現す「こと」と「もの」といふ二つの言葉を日本語が備へてゐることに思ひ至つて漸く著者はそこに日本語の哲学への道の入り口を見出してゐるのだ。

 著者からの引用でもう一度、≪人生はむなしい「もの」だという「こと」が、この年になってようやくわかった≫を、≪人生はむなしい「こと」だという「もの」が……≫とは絶対に言へない。その理由も理窟ではなく分からせてくれる著作である。いや、理窟でも十分わからせてくれる著作といへよう。

 一冊の本を読むのに一日か二日で済んだとしたら、読書の醍醐味は味はへない。この夏、他の仕事に中断されつつ、「日本語の哲学へ」を私は半月近く掛けて読んだ。読みつつ、ああでも無いかうでも無いと、途中何度も本を置いては考へ込み、自分の想念を追ひかけ始めて夜更かしして翌日に持ち越したり、数ページ前に戻つて読み返したりといつた、贅沢な読書を久しぶりにした。若い方たちに、言葉に携はる方たちに、中途で投げ出すかもしれないが、一度は手に取つて欲しい本だと思ふ。
[PR]

by dokudankoji | 2011-09-08 18:43 | 雑感
2011年 09月 07日

承前~「対談・座談集」にかこつけて、放言

 もう一度、恆存対談・座談集の第三巻から引用する。かうなると、やはり出版社に対しては営業妨害かもしれないが……。半世紀近く前の言葉がそのまま今に通じてしまふのが怖い。結局言論も何も無力か?

 「日本及日本人」の昭和44年5月号に掲載された村松剛氏との対談「強いことはいいことだ」から。

福田 ……(前略)……みんな自分を誤魔化しているんだな。しかし、明治以来日本人の心に住みついている排外思想から脱却することは容易じゃない。だから行きつくところまで行かなければだめじゃないかと思いますね。
村松 そうだとすると三島由紀夫さんがいってる、日本刀を振り回さなければいけないことになる。(笑)
福田 いや、別に日本刀を振り回す必要はないと思いますね。洋服を着ていたってかまわないし、電信電話を使ったってかまわない。しかし長い間続けられてきた行事というものを滅ぼすことは絶対許されない。この頃、雛祭なんかが、ぜいたくな形で行われているけれども、それらはみんな商業主義に踊らされたもので、日本人のほんとうの日常の生き方と密接した形でやられてはいないし、季節とも密接していない。彼岸詣りだとか、そういうものも滅びつつある。これは由々しい問題で、私はまず行事を本当に蘇らせることが大事だと思いますね。
村松 そういうものが本当の民族の歴史ですからね。
福田 行事を正しく行うということは、先祖の生き方を守っていくということなんだが、この頃は結婚式でさえ、クリスチャンでもない者が教会で挙げたがったりするようになっているし、クリスマスや雛祭りや七夕など行事らしいものもあるが、これは全部コマーシャリズムから生じている。また戦後の祝祭日というのは、全部儀式、行事を伴わない日曜日とおんなじに扱われている。
村松 もっとも日曜日そのものが、日本では意味がないですからね。
福田 外国ではちゃんと日曜は宗教と結びつき、生活のリズムと結びついているんだけれども(中略)生活のリズムに表れたものが文化なんですけれども、そういうものを失ってしまっている(中略)国語教育だってそうだ。言葉遣いなんかみんな些事だと考える習慣が多いですよ。
村松 国語問題のようなものを些事だと考えるのは、いまおっしゃった排外思想と、もう一つは戦後滔々として流れている「人はパンのみにて生きる」という思想だと思うんですね。≫

 祝日について、いかが思はれるか? たとへば建国記念日とやら。あれを誰がどう祝つてゐるか。アメリカのごとき人工的後進国ではあるまいし、建国記念日とは何事か。紀元節なら祝ふべきであらう、それならこの国の神話にも国産みにも通ずる。一方、5月4日の「みどりの日」などといかがはしい「祝日」だか「休日」だか知らぬが、みなさなん、要は連休が増えて楽だから文句を言はないのでせう? そんなことで、保守だ伝統だと言つてはいけない。あの休日は即刻廃止し、4月の28日を主権回復記念日にすべし、足し引き相殺されてよいではないありませんか。4日は自己責任で勝手に有給でも何でも取つて休めばよろしい。(それはさうと、「教会の結婚式」、耳の痛い方、随分いらつしやるのでせうね。)

 ところで、クリスマス(あれは忘年会と私は考へてゐる)はさておいて、40代くらゐから下の「若者」はバレンタインデーに、商魂逞しい食品会社に乗せられてチョコレートを買ひまくり、お返しと称して、いや称されてホワイトデーとやらにもう一度チョコレートを買はされる。

 それどころの話ではない。この5年ほどの間にハロウィーンまで「定着」し出した。店先ににあのけばけばしいオレンジと黒の下品な色が氾濫するだけなら、まだ許す(いや、許せんか)。一昨年、池袋から少し北にある、田舎のやうな都会のやうな、一言で言へば野暮な町の商店街を歩いてゐて驚かされた。「ガキ」の一群がカボチャやら何やら、やはりあの二色のけばけばしい衣装や、魔法使ひの格好だかドラキュラ伯爵だか、訳の分からない仮装をして走り回つてゐたのには、正直青ざめた。日本は終はつてゐる……さう感じざるを得なかつた……。

 上の引用から、1頁くらい後に次の会話が交はされる。これなど、現今の原発問題を考へる際にも面白い。

村松 日本の学生だけじゃなく、欧米の学生たちでもよく「消費社会への反逆」といいますけれども、一番先に反逆しなければならない対象は「自分自身」です。ジェット機に乗りたがったり、冷暖房のある家に住みたがったりする。その願望の集積が消費社会をつくってるわけですから「消費社会への反逆」という以上は、自分の中のものを叩きつぶさねばならない理窟です。(中略)そこで問題は快楽追及のどこに歯止めを付けるかということになるだろうと思います。
福田 全くその通りで、歯止めをどこで付けるかということは、これはネセサリー・イーヴルだと思うんですよ。いまさら物質文明なしの生活に戻ろうと思ってもそうはいかないんで、冷暖房はどこの家でも付けるという時代に向かって行くのが文明で、欲望そのものを抑えつけてしまうと……≫

 さうか。つまり、原発そのものが文明の最先端といふことになるわけだ。むしろ、原発そのものがネセサリー・イーヴルといふことでせうか、恆存さん? 村松さん、消費社会に突つ走つた昭和の30年代半ば以前に戻れば良いだけの話ですね? 

 ところが、実際には物質文明なしどころか、今や携帯電話やパソコンのない社会にすら、人類は戻れない。ファックスもない時代に戻るなど不可能。東京の地下に地下鉄が四通八達してゐなかつた過去に戻ることも出来ない。一度手にした便利を人間は絶対に手放さない、手放せない。そこまで考へてから、さて、原発はどうしたものか、急ぐことはない、神経質になることもない。やれ、推進だ脱だ反だとヒステリックに言ひ募るのは一旦止めたらいかが。

 金になるなら(事業として成立するだけの公的支援があるなら)クリーン・エネルギーに乗り出しますなどと、虫のよいといふか商売上手の孫正義に騙されてはいけない。エネルギー問題は、あの手の商売人と俗衆受けを狙ふ政治屋の手からも、悪乗りの反原発論者や推進論者の手からも引き離し、彼らには一旦沈黙してもらふ。

 その上で、どういふ国を造りたいのか。民主党のお歴々の如く、物質的にも精神的にも中韓の属国になりたいのか、日本の伝統と歴史と生活文化を「保守」しつつ自由主義社会に残りたいのか。独立国になりたいのか。豊かな消費社会を享受したいのか質素で粗末な生活に甘んずるのか。我々国民がそこから議論せずに、原発是非のみを議論するなど、意味がない。以上、「対談・座談集」にかこつけて放言しておく。

(ハロウィーンについてネットで検索してみて驚いた。大人から子供まで、既に貸衣装屋がある。どこまで商魂に乗せられるのか。震災後のいろいろな催しの自粛には疑問を感じたが、無国籍と言ふより、欧米に乗つ取られたやうな、この種の「習慣」は止めて欲しい。)
(小さな訂正のさらなる訂正:貸衣装ではなく通販でした。)
[PR]

by dokudankoji | 2011-09-07 01:58 | 雑感
2011年 09月 02日

恆存対談・座談集 第三巻より

 久しぶりの更新を以下殆ど引用で誤魔化したら、やはり皆さんから叱られるだらうか、刊行前に余り引用しては拙いと玉川大学の出版部から文句を言はれさうだが、10月刊行予定の福田恆存対談集・座談集第三巻に収めた、三田文学の昭和43年12月号収録の秋山駿との対談「文学を語る」より――

 そこで、チャタレイ裁判の弁護をした折に、法曹界の人々に文学の世界の言葉が通じないことにショックを受けたといふ話が出るが、続けて次のやうに語る。

 ≪福田 さっきの体制側というのもそうでしょう。大人というのは体制側でしょう。自民党支持という意味ではないですよ。社会生活の体制を築いているのは大人ですから。ところが、ことに戦争直後は大人が戦争を起こしたので、大人を否定したり、青春謳歌でずっときておりますから、日本の文学が青春文学だから、ますますそうなっちゃった。社会性をいつまでも獲得しない。小説の中で政治や社会を結構扱いながら、そういう人がいつになっても結局は枠を出られないというのは、そこに原因があるのじゃないか。≫

 福田は続けて、自分の教養のない父親や母親に代表される一般人と同じ土台で話が出来なくてはいけない、文学の社会化(自分の家庭に通じるという意味で)家族化が大事だといふ。すると秋山が、それが「一番むずかしい」と受ける。続けて――

 ≪福田 一番強敵です。ほかのものは、読者は、選べるでしょう。家族は選んだものじゃないのです。おふくろとか親父とか自分の息子とか。女房はある程度まで選ぶことができるけれども。もっともそこまで選んでもなかなか自由にいかない。(笑)ともかく、自分が選んだものでないもの、それをいつでも意識しているということですね。それはどこまでできるかは別問題ですね。だがいつでもその人の存在を意識している。どうも今の文学者でも知識人と言われる人達は、みんな読者や、つきあいの相手を自ら選んで、それ以外の人間は全部シャット・アウトしてしまう。宿命という観念はないのですね。≫

 物を書いたり訳したり、評論であれ小説であれ、さういふ世界に携はつてゐる方々で、ギクッとする方はゐないだらうか。「宿命」から逃げる人間が多い、逃げるのは楽だ。そして福田はかう言ふ。

 ≪日本なら日本、日本の歴史、家族とかいう共同体、そういうものが、宿命だという意識がどうも足りないのじゃないだろうかという気がするのです。≫

 さらに、「家」という観念について語った後――

 ≪福田 僕はいよいよ保守反動の本領を発揮する。一番理想的な生活は親子三代が一つ家にに住むこと……(中略)
 ところが近来は、だんだん上を切り、下も切って、子供はなるべく少ないのがいい。出来れば夫婦二人だけ、もう一歩進めてみれば、何も一緒に住む必要はない、ということになる、そのようなマンマルな人間に育つ、いっそ一人一人べつべつにしておいたほうが便利じゃないかということになってくる。それこそ憲法で夫婦は必ず別居すべしというふうにやっておけば、歌い文句の「個人の自由」がもっと生かされたでしょうね。≫

 いかがですか。夫婦別姓の行き着く先は、いやいや、別姓などといふなら結婚などしなければよい。そもそも個人が一人で生きるなどといふことは不可能事であり、共同体を否定した時、我々は個人の存在を否定したことになる。

 ≪僕は偽善と感傷というのがなにより嫌いなんです。感傷というのは偽りの感情、偽善というのは偽りの道徳観ですね。それがみんな通用しちゃう。昔は偽善者と言われると、ギョッとしたものです。偽善者はみんな自分が偽善をやっているという意識がある。私は自分がやっていることはいかに善とかけ離れているかという気があるから、偽善者と言われると内心ギョッとしますが、今の人は、偽善をやっているという意識がない。自分はほんとうに天下、国家のためを思って、エゴイズムなどちょっともないきれいな人間と思い込んでいるから、「偽善者め」と言っても、てんで通じない。
 そこで道徳観もあやふやになり、人間の感情もあやふやになつて……≫

 さて、自分は偽善者ではないと言ひ切れる人間が、この世にどれだけゐるのだらうか。前首相は偽善者つてどういふ人ですか、と本気で言ひさうである。自分のことを「泥臭いどじょう」とお呼びの現首相は、偽悪者ぶつてもちんまりとした欺瞞家。

 ≪福田 ……今の日本人の道徳観や感情が歪んじゃって、にせ物になっているということは一番危険なのですがね。僕はそのことが一番心配なんですよ。
秋山 偽善をはっきり知ってやっているならばいいけれども、意識しないで偽善になっているのはもっと悪く奇妙なことだ、というときには、何かその人のいろいろの言っていることの言葉だけの内容より、言い方、考え方、やり方のそこに何かが現れるとお考えになっているのですね。先ほどの文体というのはそこに通ずるわけですね。
福田 論文だって自分が真実だと思ったことを表現するでしょう。そういうときには礼儀があるでしょう。論争のときは相手をめちゃくちゃにやっつけてもいいが、ほんとうは論争の相手はその読者であって、とうの相手じゃないのですから、その読者にこの文章を渡すというそれだけの礼儀はあるので……≫

 さう、文章も言葉も人に渡すにはそれ相応の礼儀がある。美しいことを語る言葉ほどウソ臭い。人命尊重、平等平和、これらの美辞麗句はウソ臭い。あへて今の時期に言ふなら、「がんばろう、日本」。否定できない、善意の押しつけ、人間が真善美のみで出来あがつてゐるがごとき言辞は耐へられぬ。「がんばろう、日本」、それもよからう。しかし、さう言ふとき、俺は頑張りたくない、さう言ふ自分もゐるかもしれない、せめてそのことだけは注意しておいた方がよい。上の引用の数ページ先で福田はかういふ言ひ方もしてゐる。

 ≪自分の中のケチな根性とかエゴイズムとかに気付かないということが、僕にとっては不愉快ですね。目というのは、外側だけをみるものじゃないのだ。言葉というものは自分の裏側を見る目ですからね≫

 自分の裏側を見る目を持つた人間が、今の言論界にどれだけゐるのか、甚だ疑問でもあり、不安でもある。
[PR]

by dokudankoji | 2011-09-02 15:31 | 雑感
2011年 08月 06日

トラックバック禁止にしました

 下らぬサイトのTBが多いので、当分TB禁止の設定にしました。
[PR]

by dokudankoji | 2011-08-06 23:31 | 雑感
2011年 07月 16日

おしらせ

総合演劇雑誌「テアトロ」が福田恆存の特集を組んでくれました。私も短いエッセイを寄稿しました、ご一読下さい。8月号、そろそろ店頭に並んだと思ひます。劇団「雲」「欅」の懐かしい写真も。
[PR]

by dokudankoji | 2011-07-16 02:40 | 雑感
2011年 06月 24日

自己肯定と自己否定と

 恆存対談集第三巻の最終稿を見てゐて、私自身が出発したところが見えるやうな気がしてゐる。「潮」の昭和43年8月号に載つた中村光夫との対談「現代文学への不満」だが、文学論としてもなるほどと思へるのだが、その最後が「現代若者への不満」で終つてゐる。少し長いが引用する。

福田 ……ぼくたちの場合、(明治の)文明開化をそんなに無縁に考えることはできないが、戦後は親父のやったことは親父さんのやったことで俺の知ったことじゃないと、言える時代が随分出てきた。そういう点ではぼくらはちょっとついて行けない。
中村 ついて行けないよりも危なっかしくて見ていられない……。
  ぼくら、自己否定から出発したけれども、それがなんとなく無制限な自己肯定に変りそうな危機は感じますね。自己否定ということの意味をもう少し考えれば、そういうことが何か役に立つかどうか疑問だけれど、そこに自分というものを見出せるのではないか。
福田 つまり否定を通じて、否定作業が結果として肯定になるようなことしか考えられないでしょう。だけど、いまの人は否定を通過していない感じですね。
中村 そうですね、通過しているようだけど、通過していない。
福田 自己肯定に好都合な観念の発明をオピニオン・リーダーにやってもらっているでしょう。だから自己否定がなく、いつも手放しの自己肯定に転ずる。それでは終りですよ。否定から出発すれば希望が持てるけれども、野放図の自己肯定を辿っている人が壁にぶつかってはじかれたらどうなるのだろうという感じがしますね。≫

 人間はどうあつても自己肯定したい、さういふところに立つ。が、自省、自意識を持つ人間は必ず自己肯定の居心地の悪さにゐたたまれなくなつて、千万の紆余曲折を経て成長する。なぜこんなつまらぬことを書きだしたかといふと、昭和43年に、この対談の二人をして「いまの人」と言はしめたのは他ならぬ私の世代、つまり全共闘世代であるからだ。

 それで、このゲラを読んでゐてふと思つたのが、菅直人のことだ。あれが自己肯定のなれの果て、哀れな末路の惨めな姿なのだと思つたわけである。友愛を叫んだ鳩山も同じ穴のムジナで、「命を守りた~い」と虚ろな目で叫んだのも、到底自己否定から生まれる精神のなせる業とは言ひ難い。勿論鳩山は平田オリザを一種のオピニオン・リーダーと考へたのだらう。今も昔もオピニオン・リーダーとは進歩的文化人であり、今の進歩的メディアもこのオピニオン・リーダーを恐らく自任してゐるであらう。

 (ゲラの校正に戻らねばならず)あまり多くを書くつもりはないが、反原発も脱原発もオピニオン・リーダーの振る旗であり、個々人の思考停止を招くのみだ。ファッションとしての脱原発。思考の停止。このお気楽な自己肯定がどこへ行くか、余りにも分かりやすい。

 郵政民営化選挙、政権交代、原発反対(脱原発も)、全ては思考停止のヒステリー現象ではないか。いはば、条件反射のやうな思考。ことの本質に目を向ける作業を怠たり、まづ自分の生きる座標軸を見定めることをしないで、つまり生きて行く上での拠るべき価値を見出さぬままに、あれにもこれにも反射的な反応をするばかりではないか。座標軸も価値も、見出すためには否定から入れねばならない、それでなければ「自分というものを見出せ」ないと中村光夫は言つてゐるのだ。「無制限の自己肯定」は「危なっかしくて見ていられない」。無制限に自己を祭り上げ後生大事に抱へ込むと、とどのつまりゴキブリと何ら変るところのない人類ばかりを自己肯定してしまふ事になるのではないか。昨今、自己などといふ言葉自体死語になりかねぬ、そんなご時世ではあるが。
[PR]

by dokudankoji | 2011-06-24 01:23 | 雑感
2011年 06月 17日

友人のブログ紹介

 富士通総研の代表締役会長を務める、高校の同窓生伊藤千秋氏のブログを紹介しておく。ツイッターでも時々TLしてゐるが、このブログは必読と思ふ。

 殊に今回の「本当に心配なのは電力不足か」には考へ込んでしまつた、といふか、やはりさうなのかと妙に得心。下手をすると、この日本三等国以下になりますよ、とも読める。

 国民が反原発や東電叩きに「浮かれ」、政治家が政局に「踊る」ばかりの時、二十年後を見据ゑる伊藤氏の意見は傾聴に値する。

 付記:同じブログの別の日付からの一部を下に張り付ける。

 ≪そして、自衛隊も凄い。被災者の方々で、今回の災害派遣に出動した自衛隊員に感謝していない人は誰も居ないだろう。やはり、非常時には、「議論」は要らないのだ。「行動」が全てである。議論ばっかり好きな人は、暫く、今回の大震災の問題からは離れていて欲しいものだ。

 さて、この度、仙台市に設置された、私共の会社の復興専任組織から重要なことを聞いた。長期的な復興計画のビジョンを語るには、まず、今、住民の方々が、一番困っていることを解決できる能力を持っている人や組織でないと、その資格がないということだ。つまり、福島も含めて、東北地方の多くの被災者の方々は、もう誰も信用出来なくなっている。霞が関も、国会議員も、有識者と言われる人々も、誰も信用出来なくなった。起こる筈のないことが起きた。安全であるはずのものが安全ではなかった。これは事実だから、もはや議論する必要がない。本当に信頼できる人は、議論が上手な人ではなくて、汗水流して、行動できる人だと住民の皆さんも分かったのだ。偉そうに空論を言っているTV討論なんて、もう一切やめてくれって感じだろう。≫
[PR]

by dokudankoji | 2011-06-17 02:12 | 雑感


    


記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
XML | ATOM

Powered by Excite Blog

個人情報保護
情報取得について
免責事項