福田 逸の備忘録―独断と偏見

dokuhen.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:雑感( 238 )


2005年 04月 29日

主権回復記念日

 28日、夕方、靖国参拝。靖国には、思ひ立つた時、時間のある時、折に触れて参拝する。しかし、今日は違ふ。我が国が歴史上たつた一度味ははされた占領から「独立」を回復した日である。その後50年を掛けて、その「独立」を失ひ続けてゐる事実は如何ともなしがたいが。それを考へると、歳とともに涙腺のもろくなつた私は、靖国にぬかづく度に、英霊への申し訳なさで目頭が熱くなり胸が痛くなる。

 時間があるときは、参拝後必ず神社裏手の池のほとりでぼんやりと時を過ごす。社殿にぬかづき、池のほとりに休むと、ざわついた心が静まる。劇団の経営などで心落ち着かぬときなど、まさに鎮静剤の役割を果たしてくれる。おそらくは、死者の霊に頭を垂れると、己の存在の小ささを実感でき、ほつとするのではなからうか。あの戦ひに散つた英霊の背負ふたもの、散華した英霊たちの後に遺したものへの思ひに比べたら、私の背負つてゐるものなど、矮小といつてもよからう。

 私の携帯電話の待ち受け画面は、今日から暫くの間、逆光に太い影を落とす靖国の鳥居です。

 コイズミ罵倒記事にコメントを下さつた花水木様、有難うございます。お仕事の後、暗くなつても今日お参りなさらうといふお気持ち、尊いものと思ひます。コイズミは今日突然参拝すればよかつたのですよね。さうしてゐれば支那の首相、鳩が豆鉄砲喰らつたやうな顔になり、口をパクパク、何も言へなかつたでせうに。コイズミなら、その位威勢のいいパフォーマンスをして下さらなくては。さう思ひませんか?
 
[PR]

by dokudankoji | 2005-04-29 00:13 | 雑感
2005年 04月 26日

嗚呼、コイズミよ、君、死に給ふことなかれ・・・

 私の理解の範疇を超えてゐる――コイズミは痴呆症なのか。「お詫びと反省」。これで全ては終はつたのかもしれない。支那は永遠に歴史カードを切つてくるだらう。さうして、右に倣へ――いや、左に倣へして韓国も歴史カードを居丈高に切ることだらう。北朝鮮は言ふまでもない。
 そして、諸外国に対しては、我が国が外交の何たるかを知らぬといふ情けなき正体を、再びさらけ出してしまつたわけだ。外交ではなく、これからは我が国の外従とでも呼ばうか。
 
  北朝鮮に、いい加減な遺骨を持たされても、何一つ「詫びさせ」られないコイズミ、国旗を焼かれ、公館を破壊されても大使を引き上げるでもなければ、断交を宣するでもなく、「反省」を求めることすら出来ぬコイズミ。中国で起こつたことは反日デモではあるまい、反日暴動であらうが。(反日デモと報ずるマスコミの感性を私は疑ふ) せめて大使召還をなぜしなかつたのか。
 
 今回の暴動に対するコイズミの表情には、不安げで自信なさげな様子がありありと現れてゐる。いつにも増してさう見える。一国を代表する人物の顔ではない。

 そもそも、8月15日の最初の靖国参拝公約を果たし、前倒しさへしなかつたら、あそこで、踏み堪へる気概さへあつたなら、我々は今、韓国からも支那からも、畏怖と驚愕とを以つて遇されてゐたに違ひない。自らの言葉を自ら軽んずる人間が首相に納まつてゐる国家が、近隣諸国はいふまでもなく、欧米から対等に扱はれることなどあり得ようか、尊敬されることなどあり得ようか。

 考へてみれば、己が言葉を軽んずる愚かなる首相が、マスコミにコメントする時、自信に溢れた言辞をものすることなど出来ようはずもない。思へば、コイズミの言葉はいつも「自信に溢れた」が如き、威勢のよさに過ぎなかつた。空威張りに過ぎなかつた。

 そこへ持つてきて、山拓の当選である。外では支那と韓国に尻子玉を抜かれ、国内では公明の軍門に下つて恬として恥じない。
 さらには、「人権擁護法案」が如何に危険なものか、まるで分かつてゐないとしか思はれぬ能天気な応答。

嗚呼、コイズミよ、君、死に給ふことなかれ――細川の如く、河野の如く、宮沢の如く、村山の如く、いつまでも生き恥をさらすがいい、。
[PR]

by dokudankoji | 2005-04-26 02:26 | 雑感
2005年 04月 12日

人生とは―その2

人生に意味はあるか――目的はあるか、ありはせぬ。にも拘らず我々が生きてゐられるのは、欺瞞に安住する才能を授かつてゐるからに他ならない。

その欺瞞の奥底を見据ゑた時、人間はニヒリズムに陥るか、信仰に縋るか。さもなければ、「これは欺瞞ではないぞ」といふ、さらなる欺瞞の螺旋階段を下り続けるほかあるまい、最後の一日に辿りつくまで。
[PR]

by dokudankoji | 2005-04-12 02:18 | 雑感
2005年 04月 09日

永平寺と『道元の月』――報告

 天は我に味方した? 永平寺は幸ひの強雨のお陰で、スギ花粉に悩まされること皆無。

 坐禅は面白い。いや、いつもながら不思議な体験である。夕刻の座禅は凡そ40分程なのだが、同行の役者達も私も、20分位にしか感じないのである。壁に向つての面壁坐禅は、暫くすると半分意識が飛んでゐながら、無数の想念が去来する。起きてゐるやうな眠つてゐるやうな心地よい感覚。目の前の壁がぼんやりとして、自分がそこにゐてそこにはゐないやうな感覚に捉はれる。
 終ると、誰しも心穏やかになつてゐることも面白い。同行のもの全員が、いつの間にやら和やかな会話を物静かに交はしてゐる。心が柔らかくなつてゐる。

 その後の稽古も、その心持が持続してゐるのか、穏やかに静かに、そしてスムーズに進行する。稽古場の雰囲気も、やはり和やかだ。歌舞伎座、京都南座、名古屋御園座と回を追ふに従ひ舞台に深みが増していくのも不思議と言へば不思議な体験である。再演は普通、馴れから来るダラケを招くことが多いのだが、この作品だけは別のやうだ。
 
 一つ言へることは、出演してゐる役者たち全ての年齢、積まれて来た経験と技倆、それらが偶然にも一番この戯曲の上演に相応しい時期だつたといふことだ。あらゆる要素が、この上演に向かつて収斂してきたとさへ言ひたくなる位なのだ。
 そもそも道元禅師の七百五十遠忌記念公演だつたのだが、この作品に向かふ時の役者やスタッフの真剣な姿は、道元様に導かれてゐるとでも言ひたくなる感すらある。

 少々手前味噌ではあるが、御園座公演、先づは成功と言つてよからう。25日の楽日まで、少しでも多くの方に観て頂ければ幸ひである。

 手前味噌で思ひ出した。名古屋滞在中、私は稽古はそつちのけで、食べ歩きに専念。味噌煮込み(山本屋本店)に始まり、味噌カツ(矢場とん本店)、ひつまぶし(蓬莱陣屋)、名古屋コーチン(鳥椀)と、きしめん以外は一通り制覇して来た。ひつまぶしなど、二度も食したほど嵌つてしまつた。蓬莱陣屋、山本屋、お勧めする。
 
 以上、永平寺と歌舞伎と食道楽のご報告。
[PR]

by dokudankoji | 2005-04-09 02:09 | 雑感
2005年 04月 09日

多様化…?

「価値の多様化」といふ言ひ回しが当たり前のやうに使はれるやうになつて久しい。馬鹿な。多様化したものを価値とは呼ばぬ。絶対であつてこそ「価値」と呼ばれるに相応しい――殆どの場合、多様化とは無用化の謂ひである。
[PR]

by dokudankoji | 2005-04-09 01:17 | 雑感
2005年 04月 07日

人生とは―

人生とはやり直しのきかぬ一回限りの実験に他ならぬ――

人生とは個々人のものであり、他人の容喙すべからざるものでありながら、最も容喙し得ぬのは、実は本人その人である――
[PR]

by dokudankoji | 2005-04-07 01:34 | 雑感
2005年 03月 28日

『道元の月』と永平寺

 明日から名古屋、御園座の歌舞伎『道元の月』の演出で出張。
 明日は永平寺に一泊、参禅・勤行。29日に名古屋入りして、4月2日に初日を開ける。この芝居は平成14年に歌舞伎座で初演、翌年京都南座で再演になつたもの、今回が三演目。

 初演時のスタッフと取材をかねての参禅を合はせると、永平寺行きは五回目になるだらうか。何度行つてもあの寺は良い。山に囲まれ、清流のせせらぎ風のそよぎ、その他には音一つしない。殊に早朝の勤行の静寂と、その静けさを打ち破る声明の美しさ。いつも心洗はれる思ひがする。僧侶達の洗練された立ち居振る舞ひは整然としてゐて一分の隙も無く、無駄も無く、まるで群舞を見るがごときで圧倒されすらする。

 今回は3:50起床だが、夏や秋口には3:00前に起こされる。15分くらいで着替へから洗面を済ませ、朝の半時間あまりの坐禅が始まる。その後、法堂でのお勤めが1時間から1時間半。朝食は7:30頃。しかも少量。ここまでの空腹(前日の夕食は17:30頃!)は相当のものだが、それでも、朝の冷たい空気の中の勤行は身が引き締まる。
 一晩この経験をするだけで、寺を後にする時、大袈裟ではなく、役者たちの表情が変はつて来る、引き締まつてゐるのだ。この勤行をするとせぬとでは、芝居の出来が変はつてくる。舞台の緊張度が全く違ふのだ。この作品がさういふものを必要とするのは間違ひない。作者、立松和平の狙ひも、道元の精神性にあるといつてよからう。

 来年あたり、歌舞伎座へ戻つてもう一度東京の観客にも見てもらひたい作品である。今まで20作近く歌舞伎の演出をして来たが、劇場が違ふとはいへ、二度も再演される作品は初めて、是非とも東京「凱旋」公演をしてみたいと思ふ。

 ところで、今までは夏秋冬のみだつたが、今回初めて春(向こうでは早春か)に訪れる。楽しみの中で唯一の恐怖は杉花粉。小生、「花粉症」といふ言葉が生まれる前からの花粉症。もう30年になる。永平寺は全山、鬱蒼たる杉木立の中。幸ひ雨天になつてくれる由、これも道元様のお導きか、日頃の小生の行ひの良さ故か。
 もう一つ、恐怖とまでは行かぬが、夜型の小生、普段の就寝が午前3時か4時。明後日はその時間に起床。これは寝ないでゐるのが一番なのだが、夜9時消灯就寝ゆゑ、催眠剤で無理やり寝るしかない。
 いづれにせよ、その日、名古屋入りしての稽古は時差ぼけ状態に違ひない。

 といふわけで、ブログもまたしばらく休み。
 以上、まづは『道元の月』と永平寺の宣伝。殊に永平寺は2~3泊のコースで座禅の経験を是非お勧めする。経験者の殆どが、普段我々が如何に無駄に物を喰らつてゐるか、我々の生活に如何に無駄が多いか、といふ同じ感想を抱くやうである。
[PR]

by dokudankoji | 2005-03-28 02:12 | 雑感
2005年 03月 20日

取り敢へず

 本日はブログ開設のご挨拶がわりに、タイトルの由来をひとくさり。

 世に独断ならざる議論無く、偏見ならざる意見なし―と、高飛車に構へるほどではないが、常々さう思つてきた。もちろん、私も含め、誰しも己の思考が過つてゐるなどと思つてはゐない。が、自分ほどいい加減なものは無いのではないか、あるいは、自分がそんなに信じられる代物か、何事に於いても、まづはさう疑ふところから始めた方が間違ひあるまい。

 大学で教へ始めて間もない二十代後半のこと、某短大で英語の授業をしてゐた。授業中、私はよく脱線する。気が付いてみると、英語の教科書はそつちのけで、しばしば時事問題やら国語問題など自分の興味のある話題に夢中になつてゐた(=ゐる)。
 ある日の授業で、私の話(何の話かはもはや覚えてゐない)を遮つて、挙手をした女子学生が一人。曰く、「先生の意見は独断と偏見だと思います」。それまで、シーンとして私の話に聞き入つていゐた(と勝手に思ひ込んでゐる)学生達に、この勇気ある発言は大いに受けたらしく、教室は沸きに沸いた。
 一瞬、虚を突かれた形の私は、何と答へるべきか考へつつ一呼吸置いて、私の次の言葉を期待して直ぐに静まつた学生達ににつこりと笑ひかけ、件の女子学生にかう答へた。
 「世の中に独断と偏見ではない意見などありません」、この答にも学生達は大喜びしてゐた。じつくり考へて答へたわけではないが、若かつた私は自分の即座の応答に、結構悦に入つてゐたと記憶してゐる。

 以来、今に到るまで、この応答は間違つてゐなかつたと思つてゐる。といふ訳で、ブログ開設にあたつて、自分の備忘録を兼ね、「独断と偏見」といふタイトルにした次第である。

 このブログに、これから何を書くか、はつきりと決めたものがある訳でもなく、思ひついたことを思ひ付いた時に書いていく。全く不定期になることもあらかじめ「宣言」しておく。


 
[PR]

by dokudankoji | 2005-03-20 01:23 | 雑感


    


記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
XML | ATOM

Powered by Excite Blog

個人情報保護
情報取得について
免責事項