福田 逸の備忘録―独断と偏見

dokuhen.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:雑感( 238 )


2015年 01月 25日

イスラム国、人質事件~~後藤健二氏へ

唐突に久しぶりに書く。というか、フェイスブックに書いたものをコピーしておく。

You Tubeのこの画像と音声が真実であり、音声が後藤健二氏のものであるという前提(仮定)に立って書く――

 後藤氏に借問する。あなたは「彼らの要求はより簡単になった。彼らは今も公平だ。彼らは金を求めていない。だからテロリストに資金を渡す心配をする必要はない」という。では、日本国民の税金を使わなければ、何の「損害」もないから、「助けてくれ」と仰るのか? ならば聞く、一つ、「自己の責任」でかの地に赴くと言ったのはだれか? 一つ、テロリスト、サジダ・アル・リシャウィの釈放は次なるテロの犠牲者を生みはしないか?また、サジダ・アル・リシャウィによって既に犠牲になった、あるいはなり得た犠牲者やその家族のことを、考えたことはおありか? ついでに、「安倍、あなたは遥菜を殺した」とは正気の沙汰の発言か?

 勿論、すべてはイスラム国の脅迫により「言わされて」いるのだろう。が、改めて借問する、「自己の責任」で取った行動の結果は一人で引き受けよ。家族へのメッセージも出国前にしておくべきだった。自国の総理に向かって「アベ」と呼びかけるのも、私には不快である。たとえ、時の総理が「菅」だろうが「鳩」だろうが、自分の命乞いという世にも恥ずかしき行為に及ぶ時、自国の総理を再三にわたって呼び捨てにするのは見苦しい。尤も、これも「言わされている」のかもしれないが、それにしてもである。そう、言わされているとしたなら、「拒否」するのが「自己責任」である。

 「自己責任」という言葉を使う限り、日本人なら、「もののふ」の心を持ち、弁えを知るべきであろう。家族への呼びかけを聞く限り、「自己」どころか自分の家族への「責任」も背負っていないではないか。それらを切り捨てて出かけたのではないのか。だから「自己の責任」と言ったのではないのか。言葉を軽々しく使うな。

 一言、安倍総理へ――ヨルダンを通して、人質解放を策しているのだろうが、それは間違っている。身代金に応じる以上の誤りだろう。サジダ・アル・リシャウィが釈放され、後藤健二が救われたとしても、サジダ・アル・リシャウィによる次なるテロで犠牲者が出てもよいのか。この要求に応じたら、新たな犠牲者とその家族たちの悲劇は際限なく続く。その連鎖を断ち切れ。テロに屈するなとは、そこまで意味している。諜報力を含めた外交・軍事力を我々は常時備えること、そして、今回は交渉に応じず、人質を殺害された英・米二か国に学ぶべきことが多々あるだろう。
[PR]

by dokudankoji | 2015-01-25 18:00 | 雑感
2013年 07月 23日

現代演劇協会創立五十周年記念公演と協会の解散のお報せ

 落ち着いて協会解散のお報せを書くつもりでゐた。残念ながら時間に追はれてゐる。協会の五十周年記念公演といへば聞こえがよいが、作品を決めた一昨年には既に解散への「ロードマップ」が頭の中にあつた。にもかかはらず、昨年など福田恆存生誕百年記念公演などと仰々しいことを、かなりの後ろめたさを感じつつしでかした。お許しあれ。いずれにせよ、協会は、九月の公演が最後の活動となり、十一月の末に解散される。お世話になつた方々、お力添え下さつた方々に、御礼申し上げる。

 五十周年記念が「解散記念公演」になるわけだが、作品はノエル・カワードのいはば遺作、彼が最後にロンドンの舞台に立つたもの。彼自身、この作品が自分の「白鳥の歌」だと日記に記してゐる。協会の解散に、そしてまた、私自身の取敢へずのけぢめの作品には打つて付けとかなり気に入つてゐる。ぜひ、ご覧いただきたい。日時は、協会のホームページを

 以下、知人友人に送付した公演の案内状を以下に張り付けておく。

**************************************

拝啓

 酷暑の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃のご無沙汰お許し下さい。
さて、秋口に上演する舞台のご案内です。同封のチラシの通り九月四日から八日まで、現代演劇協会の創立五十周年を記念してささやかな舞台をお見せ致します。ぜひ皆様にお出かけ頂きたく、ご案内申し上げる次第です。
 三百人劇場を売却し、財団、劇団、制作・演劇学校と分社化してからは、当協会としてはほぼ一年に一作品のペースで上演を続けて参りました。チェーホフと福田恆存の戯曲に続いて、今年は二十世紀の英国が生んだ天才ノエル・カワードの一幕の秀作を上演致します。カワードがその晩年、自分の人気が衰へた折、俳優として自分自身もう一度ロンドンのウエスト・エンドの劇場に立ちたいと願つて書いた三部作中の最後の作品、恐らくは作者の心情を最も直截に描いてゐるシリアスな戯曲です。人生の終末を迎へた男が、自分の死に立ち向かふ姿、神や信仰に頼らずに生き抜かうとする姿は明らかにカワード自身の投影と思はれます。カワード自身、日記にこれは自分の「白鳥の歌」だと書いてゐますが、大人の芝居と呼ぶにふさはしい、お芝居好きの方には存分に堪能していただける科白劇です。
 ところで、協会の創立五十周年記念とご案内申し上げましたが、実はこの公演が当協会にとりまして最後の公演になります。本年暮れに現代演劇協会を閉ぢるのも、これはいはば私の役回りかと、さう思ひ定めて父親の仕事を受け継いだといふところが半ば以上の真実でもあります。長いやうで短い時間でした。協会の歴史の半分以上の責を負ふのが私であつたことの善し悪しは、近々に発行する協会の五十年誌を見れば自づと明らかと申せませう。いづれにしましても、長い歳月、様々な形で当協会を支へて下さつた皆様に、ご案内と共に、かうして協会解散のお知らせを致しますこと、忸怩たる思ひなきにしもあらずと申し上げるほかありません。
 私個人は、今後もいろいろな形で演劇の世界に携はり続けるつもりであることは申すまでもありませんが、今後かうした形で自ら企画上演をすることはないと存じます。今は、取り敢へず今回の舞台を私の「白鳥の歌」としておきませう。今後いつかういふ形で翻訳作品や演出のご案内をお送りできるか心もとないのも事実です。ぜひぜひ一人でも多くの皆様に「最後の」舞台をご覧いただければ幸ひに存じます。
                                                   敬具
     平成二十五年七月吉日

  皆々様
[PR]

by dokudankoji | 2013-07-23 23:46 | 雑感
2013年 07月 01日

ノエル・カワード最後の戯曲

 9月4日~8日、シアターグリーンにてノエル・カワードの最後の戯曲を上演します。私の訳・演出。実はこれを訳したのがちょうど30年前。30代半ばでよくまあこんな大人の芝居を訳す気になつたと半ばあきれ半ば感心してゐる次第。今ならよくわかるのだが……当時どこまで分かつてゐたのか? ただ、当時の幻の配役まで記憶にあるから、かなり本気だつたのだらう。

 もちろん、今回かなり訳し直してゐるが……日時等はこちらを
[PR]

by dokudankoji | 2013-07-01 00:25 | 雑感
2013年 03月 29日

英語よりも大事なもの~国語、文学、国史

≪……いい文章を書くといふことが、いい政治をするといふことと同様に、あるいはそれ以上に、人間の未来にとつていかに大切であるかを、あなた方は知らないのです。政治が悪ければ国が亡ぶとは考へても、一国の文学が亡びれば、また国が亡ぶとは考へない。政治家も啓蒙家も、もうすこし文章といふものに想ひをひそめていただきたいとおもひます。よく考へてみてください。文学者の政治的な無智と、政治家、あるいは啓蒙家たちの文学的な無智とどちらがひどいか。が、世人は文学者の政治に対する無智は世を誤るもののやうにおもひながら、政治家の文学にたいする無理解は大したことではないと考へてゐる。それは現代日本の文学者にろくな作品がないといふのではなく、文学そのものの人生における効用を知らないからです。ぼくにとつては、そのはうが由々しき問題です。ぼくはむしろさういふ世間にたいして、文学の効用を説くことこそ、文学者の社会的な責任のひとつだと考へてをります……(福田恆存「文学者の政治的責任」より引用、原文正漢字)≫

 机の上を片付けていて、上の文章のコピーを見つけた。英語教育の底上げやTOEFLも頭から否定するつもりはない。が、保守政権なら、国語こそ国を民族を保守する根幹であることを知れ。理数系の学生に国語教育を! 小学生からの日本史(国史)と国語教育こそが、この国を守る。
[PR]

by dokudankoji | 2013-03-29 23:06 | 雑感
2013年 03月 12日

フェイスブックより転載~安全などない

 暫く前から私も評議員の末席を汚してゐる国家基本問題研究所が会員向けに「今週の直言」をネット配信してゐる。それをほぼ毎週フェイスブックで発信しているが、昨日上げたものをそのままここに掲載する。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
 国家基本問題研究会「今週の直言」~~櫻井よしこ理事長による。後段の自然との関係において「絶対的安全」などないといふ発言、賛同。自然との関係とまで言ふ必要もない。この世の中に「絶対」はない。この単純明快な事実を3・11を機にもう一度考へてみることだ。従つて、再び想定外のことは起こるし、100年もすれば、我々の子孫は震災も津波も忘れ果て、フクシマとヒロシマを混同することだらう。

 さういへば、思ひ出した。一年ほど前京都の小さなバー(バーの老舗と言つてもいい)で客が私一人の時、90近い創業者の女将が大震災(原発事故)につて言つた言葉に唖然とした。「イヤどすなぁ、京都は福井がすぐそこ。原爆、怖いどすぇ」。年寄りゆゑの無知と決めつけてはなるまい。世の中といふものは、その程度であり、下手をすればフェイスブック上にもそのレベルの発言がゴミのように漂つてゐるのだらう。
 
 以下、「直言」を張り付ける。

**********************************

【第184回】                                       平成25年3月11日
≪理性的な震災復興策で国民に勇気を ≫

国基研理事長
櫻井よしこ

 東日本大震災から丸二年が過ぎた。あのとき私たちは、日本人は自己の利益よりも他者への思い遣りを優先し、究極の困難の中で助け合う、礼儀正しく忍耐強く、真の勇気を持つ人々であると、国際社会から高い評価を受けた。いま私たちは、その賞讃に値する国民であるのかが厳しく問われている。

●放射能への過度の恐れ
 岩手、宮城、福島3県の復旧・復興は遅々として進んでいない。主因の一つが、3県平均で全体の3分の1にとどまる瓦礫処理の遅れである。全国約1800の自治体の内、瓦礫を引き受けたのはわずか75にとどまる。非協力の主たる理由が根拠のない放射能への恐れで、それは瓦礫処理のみならず、3県とりわけ福島県産農産物の風評被害となって復興を妨げている。
 国際放射線防護委員会(ICRP)の基準では、緊急事態から回復に向かう状況下での放射線許容量は、年間20~1㍉シーベルト(SV)だ。にも拘わらず、福島では、恰も1㍉SVが安全基準値であるかのように受け止められている。塩分の摂りすぎ、野菜不足、受動喫煙がなんと100~200㍉SVに相当する害であることを考えれば、1㍉SVに拘るのは愚かであり、1㍉SVの壁ゆえに古里への帰還が進まず、古里再建もままならない悪循環こそ断ち切らなければならない。
 人々が戻らないもう一つの理由が避難生活を支える援助である。被災者支援が重要なのは言うまでもない。しかし、働いて得られるよりはるかに多額の援助が避難生活者に配られ続ける結果、あらゆる意味でよき働き者だった東北の人々が、怠惰へと流れつつあるのが現実がある。彼らを忍耐強さと自主独立の精神から引き剥し、他力依存へと誘導したのが政府の安易な迎合策だ。

●失政を象徴する巨大防潮堤
 政府の施策は復興に関しておよそ全ての面で間違っていたが、そのことを象徴するかのように、いま東北の形が根底から変わりつつある。美しい海の恵みに祝福されてきた3県各地に、高さ数メートルから十数メートルの巨大なコンクリートの防潮堤が築かれつつある。1000年に一度の巨大地震と巨大津波から地域を守るためだそうだ。
 よしんば無機質な髙壁が幾ばくかの安心感を与えるとしても、人々は朝な夕なに眺め暮らした海から断絶され、東北の地で育まれた感性、風土、文化の多くが失われていくだろう。
 自然との関係で絶対的に安心なものなど存在しない。古来、日本人はそのことを知っており、自然を畏怖しつつその中に抱かれて生きてきた。いま目につくのは、畏怖を超えた無闇なる恐れである。政府はこうした状況でこそ、恐れすぎることや愚かな思い込みが敗北を導くことを国民に語り、理性と科学を反映した新しい再建策を示し、人々の心に困難に立ち向かう勇気を呼び起こさなければならない。         (了)
[PR]

by dokudankoji | 2013-03-12 16:25 | 雑感
2013年 01月 01日

「約束の日」~安倍晋三試論

 暮れになり漸く出来た時間に手に取つたのが「約束の日」といふ新刊。あつといふ間に読める引き込まれかた。

 著者の小川榮太郎氏とは旧知の間柄といふか、20年近く前にあるきつかけで知遇を得て後、いつも同人誌を送つて下さつた。文藝評論、音楽評論が専門の博学多識。世に出ることより、真理を究めることが氏の身上と思つてゐた。

 しかし、壊れ行く我が国の行く末を憂へた末、安倍晋三試論を世に問うた。
 
  一日も早く文藝・音楽の世界に戻つて静かな世界に棲みたい小川氏渾身の政治家論・日本論。読み始めると止められない文章、練達。テンポとリズムが良い。

 まだ手に取つてゐない方にはお勧めする。安倍がただの政治家・政治屋でもなければ、「右」でもない、この日本を愛してやまぬ謂はば本物のまつとうな日本人であること、しかも自分が歴史から課せられた使命を知つてしまつた男だといふことがよく分かる。

 ついでに「安倍の葬式」を出すのが朝日新聞の「社是」だそうである。今回の第二次安倍内閣を早速潰しに掛かつてゐるのは皆さまご存じ、政治家を葬るのが社是であるメディアを、私たちはメディアと認めてよいのか。

 必読と申し上げておく。Kindle版も出てゐる。
[PR]

by dokudankoji | 2013-01-01 23:55 | 雑感
2012年 12月 12日

自民党圧勝ですか?~~選挙報道の怪

 この数日といふか選挙に突入して以来、マスコミ各社が流す予測には多くの方々が疑問もしくは違和感を抱いてゐるのではあるまいか。自民・公明の圧勝、民主の激減、第三極の伸び悩み(自滅)。どの報道も世論調査と称して、このやうな傾向を指摘してゐる。

 私個人は民主主義を否定するものではないから、次善の策として(つまり最善はあり得ない。それは、想定外を想定することが論理的に不可能なのと同じくらゐ自明のことだから)、次善の期待としては安倍自民が政権政党になること望む。

 序でに言へば、そこで政界再編が小規模といへども生じて、自民が公明を切り捨て(民主が日教組や自治労を切ることと同じ)、必ず起こるはずの日本維新の会のゴタゴタ(分裂)に乗じてその一部を取り込むことになれば、かなり最善に近い。それ以上の「真正保守」の結集といふ最善は、起こるとしても想定外(あり得ないでせう)。従つてそこまでは私も期待しないが、ほんの少しでも骨のある政権政党の誕生を望むし、それには安倍が総理になるしかない、教育・軍備・外交・経済・憲法改正等々、あらゆる面でせめて安倍自民に期待するしかないと考へてゐる。

 といふわけで、冒頭の各メディアの世論調査や報道の結果は、取敢へず私には「満足」なはずであるのだが。しかし、この種の報道を目にする度に、そんなに自民が圧勝するか、するならその要因はなにかと訝つてしまふ。民主党への幻滅と第三極の合従連衡とも呼べないやうな、醜悪な選挙互助行動に国民がしらけた目を向けてゐるといふ解説も成り立つのだらうか。

 私には、それほどこの国の今といふ時代にまともな民意があるとは信じられない。民主党に一度任せてみて目が醒めたと、もつともらしいことをいふ御仁も多くみられるが、私はさういふ人物を信じない。任せてみたこと自体既にそれらの人々の浮薄は極めつき、目が醒めてもほぼ間違いなくそれらの票は未来永劫浮動票に過ぎない。

 それらの票が今回、ワッと自民圧勝への投票行動に結びつくなら、そのこと自体憂慮すべきことで、何度も言つて来たが、それらの票は、郵政民営化・政権交代のキャッチフレーズに乗せられた時同様、選挙後一年も経たぬうちに、再び、今度は「自民党に勝たせ過ぎた」といふフワッとした民意を形成するだらう。そんな民意が一番恐ろしい。無定見といふ言葉にぴつたり。それはやがて、右であれ左であれフワッとした英雄待望・全体主義に流れる。(小泉進次郎や橋下徹の一時の人気を思ひだすとよい。)

 以上の浮動票的投票行動への私の危惧とは別に、同じくらゐ恐ろしいのは、今の各メディアの世論調査が、恣意的なものだとしたらといふ可能性である。これはフェイスブックなどのネット上では、既に多くの保守的な人々、つまり自民シンパがほぼ100%疑つて掛かつてゐる。いはゆる「負け
犬効果」を狙つて、メディアが自民に勝たせないために、日本人の判官贔屓を当て込んで、殆ど売国的な民主党や日本未来の党に肩入れしてゐるのだらうといふ見方。これはこれで、その可能性があることは十分予想が付く、これこそ想定内の話かもしれない。しかし、それはそれで、日本のメディアの衰退といふ嘆かはしい現実に我々が直面してゐる事にもなる。これも恐ろしい光景と言はねばならない。

 以上、分析でも何でもなく、私がこの一週間余り感じてゐる違和感を書きつけたまでなのだが、自民公明圧勝の予測が事実になるのであれば、私はその結果に対しては一応の快哉を叫ぶことにする。だが、それが浮動する民意の結果に過ぎないといふ点においては、限りなく憂鬱になるだらうといふこと。

 もしも、自民が200議席強で終はり、民主が100議席は維持したとすれば、現在の報道が如何に恣意的であるか又は分析能力がないか、といふことになり、やはりメディアの衰退を憂慮せねばならず、報道通りの結果が出たとすれば、民意の浮動を歎かねばならない。どちらにしても、再起不能のこの国の姿を反映してゐるやうな気がしてならないと、私は結局憂鬱になるわけだ。

 最後にもう一点、郵政民営化・政権交代の二回の選挙と、今回の自民圧勝の予測がその通りの結果が産まれたとするなら、一刻も早く小選挙区制の是非を我々は問ふべきであらう。死に票が多過ぎる。そして三度に亙つてお祭り選挙をしてゐては、この国は三等国になり下がるだけだ。ま、格差が無くなり、国民のほぼ9割が貧乏人といふのも、それはそれで悪くはないが。
[PR]

by dokudankoji | 2012-12-12 17:25 | 雑感
2012年 12月 10日

「絶対」と「孤独」――幕の降りたあとに 

 まづは現代演劇協会主催公演『明暗』にお出で下さつた方々に御礼申し上げる。とはいへ、このブログを訪れる方でお出で頂けたのはごく限られた方だらうと思ひ、公演のパンフレットに書いた「演出ノート」をここに載せておく。会場にお出での方を前提にしてはゐるが、そのまま掲載。(なほ、これを書いたのは十一月の六日の夜と記憶する。)以下、転載。

**************************************

 この「明暗」といふ戯曲を私は今までに何度読んだことだらう。上演の可能性を探るため、あるいは文藝春秋社から刊行された福田恆存戯曲全集編纂に携はつた時、この三十年ほどの間に折に触れて読んだが、今回の上演に関る以前に、既におそらく十回を超えてゐるのではないか。

 そして、「詩劇」と銘打たれたこの作品に紡がれてゐる言葉の美しさ、逞しさ、繊細なそして時に凝りに凝つた言ひ回しに、いつも心惹かれ、酔はされた。俳優に挑戦してくる、まるで日本語を破壊しかねないフレージングと、いつか格闘してみたいと漠然とだが思つてゐた。従つてこの生誕百年記念に何を取り上げるか考へた時、私は躊躇ふことなくこの作品を選んだ。選んで、夏前に稽古の準備に入り本格的に読み直し、正直慌てた。自分の頭の中にほぼ組み立てられてゐると思ひこんでゐた構図の陰に何かが見え隠れする。そのちらつきが気になりだして、私は戸惑ひ混乱した。考へてゐた以上に曖昧な科白も多い。そこからの私の格闘はさておいて――

 この戯曲を観客の前に提示する時、作り手の私たちがまづもつて留意すべきことは、この戯曲のサスペンス劇としての側面を絶対に失つてはならないといふことだらう。起承転結を踏まへた四幕の構成の鮮やかさも印象付けられねばならないし、スリリングな筋の運びに、いささかの遅滞があつても舞台は失敗する。潔癖と言つてよいほど完璧な科白術と演技、リズムとテンポ、それらが劇的サスペンスを支へて運ぶ。それを生の役者の肉体を通して具体化しなくてはならない――

 今もし幕の開く前にこれをお読みなら、ここまででこの雑文を読むのをお止めになつて、取敢へずはサスペンス劇とその物語の展開に身を委ね、存分に楽しんでて頂くのも一法かもしれない。後は幕の閉じた後、帰宅の途次あるいは帰宅なさつてから、読んで頂いた方が良いかもしれない。

 さう、戯曲の主題だとか作者の意図などは、実は「観劇」といふ行為とは無縁だ、恐らく福田恆存自身がさう考へてゐるに違ひない。私もまた、芝居を観るのにテーマだ主題だと、野暮なことは言ひなさんなと思つてゐるし、さういふ近代以降の「トリヴィアリズム」も「教養主義」も好きにはなれない。が、この作品を本気で読み込みだすと、サスペンス的な構成だけでは、舞台を造り上げる芯が足りず、そこに福田恆存がおそらく生涯抱へてゐた最大のテーマを読み取らざるを得なくなつたといふのが、この夏以来の私の戸惑ひなのだ。お前、気が付くのが遅いと言はれるかもしれぬが、十六年前の劇団昴による再演の舞台にも、その主題の問題はちらとも感じ取れなかつた。文学座の初演がどうであつたのかは知る由もない。が、実は、私はそれすらも疑つてゐる。

 さて、では作者がこの戯曲を書く時、何を考へてゐたのか、主題に据えたものは何か。キーワードは「道徳」。さらに言へば、「日本人の道徳観を支へ、その道徳を要請=強要してくるものは何か」といふテーマを恆存は考へてゐるのだ。昭和二十八年からの一年に亙る米英滞在と、殊に英国でのシェイクスピア劇体験が恆存に与へた影響はここではおそらく計り知れないものとならう。シェイクスピア劇に立ち現れる無数の背徳、それを描いたカトリック的なシェイクスピア――恆存は考へる、西欧の世界、キリスト教の世界には、人々に道徳を要請=強要する背後に、つまり、物事の是非善悪を規定する背後に神が存在する、と。では、日本人に背徳と道徳の別を要請するのは世間態なのか法律なのか、日本人にとつて西欧の神に代はるものは存在するのか、と(玉川大学出版部刊『福田恆存対談・座談集』第七巻収録の「現代人の可能性」参照)。

 確かに、日本民族は西洋的な意味での信仰も宗教も持たない。さうだとすると、我々の道徳心はどこから来るのか、世間態や法律などは持ち出す意味すらなからう。「明暗」の主題とは関連のないところでだが、恆存は「いつそのこと日本はキリスト教(信仰)も持ち込んでしまへばよかつた」とも言ひ、また晩年「最近は汎神論のことを考えたい」と言つてゐたともいふ。疑ひもなく恆存は自己存在の根底に据ゑるべき宗教を探し求めてゐたと言つてよからう。

 これらのことを頭において「明暗」を読み返すと、「罰の下らぬ世界」とか「なにもいはなかつた女のうへに下された罰」といつた科白が気になり始める。過去が現在を規定する世界の、その過去の出来事が現在を破滅させるといふ構図が、背徳に対して下される罰を浮かび上がらせる。不義密通を犯した人々がすべて劇中で死ぬ。いや、犯した人々のうち、それを罪と感じた人々には死が待ち受けてゐる。そして、幕切れでは、その背徳を黙つて見てゐるばかりで何も言へず行動もできなかつた杉子と祥枝は現在に立ち竦み、過去の沈黙へと遡及する。一方、背徳の世界に反逆した洋子にも未来が開けてゐるわけではない、あるとすれば、現在の自分の孤独のみであらう。

 神を求めるものは自己を神の前に晒さざるを得ぬ、従つて孤独に直面する。耐へる耐へられぬという言葉の埒外にある孤独のみが孤独と呼ぶに値するのだらうが、この孤独こそがおそらく「明暗」の作者が生涯抱へてゐたものに違ひない。幕切れの洋子に作者の姿を思ひ浮かべるのは演出家の読み込み過ぎだらうか。

 日本人の道徳の背後にあるのは何か、作者が抱いたこの疑問は平成の時代を生きる私たちが抱へてゐる命題でもあるのではないか。そこに、絶対を見てしまつた時、我々は恆存と同じ孤独を見据ゑずにはゐられないのではないのか。
[PR]

by dokudankoji | 2012-12-10 22:49 | 雑感
2012年 11月 16日

芝居の稽古~「明暗」余録

 芝居の稽古をしてゐると、いつも同じ思ひに駆られる。ひと山越えてあそこが頂上と思つて、そこまでたどり着くとさらに先に峰が聳えてゐる。いつも同じである。そこで昨年の「堅塁奪取」から、役者や他のスタッフはさておいて、自分の中で初日を一週間くらい前倒しで設定する。

 今回の「明暗」でも同じ作業をしてゐる。従つて俳優の生理を無視して稽古初日から結論を急ぐ。俳優との間に齟齬が起こることもなくはないが、あくまでダッシュする。役者たちがそれに乗つてくれればしめたもの、最後の十日か一週間は余裕で短い稽古時間で切り上げる。明日(金曜日)は稽古休み。その後、計8回の稽古場での稽古がある。私は、この8日間はいはば余禄のつもりでゐる。

 もちろん、完璧はあり得ぬわけだから、恐らく他人の目には隙だらけなのだらう。しかし、性格だらうか、この稽古の進め方、私には向いてゐるやうだ。明後日からはせいぜい緻密な細かい手直しに入るつもり。観に来て下さる方に、なんだ口ほどにもない、と思はれぬやう、余禄の8日間を余禄以上のものにしてみたいと、切に思つてゐる。ただ、演出家にはどうにも手の貸しやうのない範疇といふものがある。これも配役したのはこちら。その範疇も含め出来不出来は私の責任だらう。
[PR]

by dokudankoji | 2012-11-16 00:56 | 雑感
2012年 11月 03日

「明暗」~稽古たけなは

 現代演劇協会公演「明暗」の稽古に入つたのが10月の半ば、稽古の三分の一以上を読み合はせに充てるといふ、いはば前代未聞の稽古の進め方で、「文化」の日に合はせたわけではないが、大雑把な立ち稽古(粗立ち)に今日入つた。

 読みこんだだけのことはある。セリフがほぼ入つてゐるので、稽古がすらすらと進む。役者も演出のこちらもストレスがない。お互ひに遠慮なく疑問点を提示し、修正して行く。いざとなつたら、あと一週間で初日を開けても、何とかなる気配。細かなところまで緻密な舞台を造りたい。

 昭和30年に書かれたこの作品、古いと思わはれるか、難しいと言はれるか、演出が、はたまた俳優がダメだと言はれるか。私自身興味津々。主題は……いや、これはここには書かない。来て下さる方に先に解答を見せるのは、ある意味卑怯と思ふ。尤も、主題を頭で理解していただくより、劇場では、サスペンス劇を存分に楽しんで頂きたい。テーマだ意図だと小難しいことは、後から付いて来ることだと考へてゐる。

 稽古初日には半時間ほどかけて出演者に、作品のl主題や構造の説明はした。が、それが舞台に絵に描いたように出てしまつたら、娯楽としての演劇の失敗。あくまで主題は背景に引き下がらせる。役者やスタッフが創造する背後にある主題は、いはば背骨。観客の皆さんには血肉をお目に掛けたい。

 ぜひ、お出かけ下さい。11月28日から12月2日まで、新宿南口の紀伊国屋サザンシアターにて。
[PR]

by dokudankoji | 2012-11-03 23:10 | 雑感


    


記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
XML | ATOM

Powered by Excite Blog

個人情報保護
情報取得について
免責事項