福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2009年 05月 17日

自分シンドローム

 先づは「自分を褒めてあげたい」シンドローム――この言葉が流行語大賞になつたのは、無論、有森裕子の復活劇、つまり平成八年(1996)のこと。ただし、有森は正確には「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と言つたはずで、自分を褒めて「あげたい」とまで、甘つちよろく生ぬるい言葉は使つてはゐない。いづれにしても――自分で自分を褒める――さう言はれると、勝手にすれば、と言ひ返したくなる。自分のことを活かさうと殺さうと、アンタの勝手だよ、一人で黙つて褒めればいいだらうがといふ気にさせられる。さういふ私がひねているのか。それなら、喜んでひねりまくらう。

 多分、このフレーズの流行の頃からだらう、「自分」がやたらに正当化され、大事にされ、世の中に臆面もなくのさばり出した。尤も潜伏期間は、昭和も四十年代半ばから既に三十年くらゐはあつたと思はれる。

 そしてお次が「自分探し」シンドローム――探して見つかる自分なら、探さなくとも見つからうものを、と思ふのは私だけか。いやいや、探さなくてはならぬほど自分が気になるとは一体アンタは何様だ? 自分などといふものはありはせぬ、さう腹を括つておくに越したことはない。なぜさう思はないのか気が知れない。

 さういへば、「アタシッテ、……ジャナイデスカァ」といふ、何とも押し付けがましい言ひ回しはもう流行らなくなつたのだらうか。テレビをとんと見なくなつた昨今、今でもこの言ひ回しが口癖になつてゐる間抜け面がテレビの世界を席捲してゐるのか知りやうもない。これは「自分探し」の逆を行く、探さなくても分つてゐる自分といふ趣だ。が、アタシといふ自分を自ら売り込む、その何ともいい気な言ひ回しには、簡単に探せる自分を裏返しにした――自分のことはよく分つてゐるといふ自惚れた――自己肯定の悪臭が芬々としてゐる。お前がどうなのかなんぞ、こつちの知つたこつちやないよと、そつぽを向きたくなる、オマヘなんぞに興味はないよ、と。さう、褒めるも、探すも、押し付けるも――どれもこれも、安易なる自己肯定の世界。

 時は移つて平成も二十年。今度は更に進化して「自分がいましたシンドローム」が始まる。この数年、あちこちで見かける言ひ回し。勿論お気づきだらう。例えば、「留学先で一人ぼっち、日本に帰りたくなって二週間、フト気が付くと、様々な人種の沢山の友達に囲まれている自分がいました」、と来る。別の例、「主人に愛されていると感じた時、子供に優しくしている自分がいました」とさ。さうかい、さういふアンタがゐたのかい、よかつた、よかつた。

 さて、ところで、さう仰るなら、かういふ自分は果たしてゐないのか。「友達に囲まれて楽しげに笑つてゐる時、フト気が付くと孤独で冷酷な自分がゐました」とか、「むづかる幼い我が子をあやして疲れきつた時、隣でいびきをかいてゐる主人の首を、思はず絞めてゐる自分がゐました」なんてのは如何ですか。ついでに、「彼との密かなる逢瀬の後は、主人を優しく迎へ入れてゐる自分がゐました」なんて。

 私はふざけてゐるのでもなければ、酔つ払つて書いてゐるのでもない。嫌味を言つてウサ晴らししてゐるのでは、勿論、ない。

 「自分がいました」といふ時、さう言つてゐるのは誰なのか。もう一人の自分なのか? 同じ自分なのか? 同じといふ事は論理的にあり得ない。では、同じ自分が新たな別の自分を発見したとしたら、つまり同じ自分ではなくて、別の自分を発見し描写してゐる訳だらう。つまり、もう一人の自分が客観的に見て、よりよき自分とか、成長した自分とかを発見したといふことになる。客体視して、冷静に、新たなる自分をよき存在と褒めてしまふ。

 その時、褒めた側、客体視した側の自分は、進歩以前の過去の自分のはずであり、といふことは過去の自分は進歩してゐないといふ前提に、実は立つてゐる。その事は忘れるかこつそり捨て去り、その存在には目をつぶつてゐる。気付かないふりをしている。あるいは本当に気付かないでゐる。気付かないのは愚かといふことだらう。そして、成長したからもう自分はよき存在だと、過去の劣悪なる自分の視点から現在の自分を肯定するのは矛盾だらう。

 現在既に成長してゐるのなら、現在の視点で過去を振り返るはずだらうに、それをこの言ひ回しは現在にゐながら、過去と違つた自分を発見したと悦にゐる。いや、かう言つた方が分りやすいかもしれない――過去の劣つた自分から今や優れた自分に生まれ変はりましたと、その成長を寿ぐのだが、過去の自分が劣つてゐたことよりも成長の発見自体を寿いでゐる、欺瞞と文章のごまかし、そこにこの言ひ回しの捩れたやうな、落ち着きの悪さがある。

 この種の言ひ回しをする人種は、次の瞬間に一体どんな自分を発見してゐるのか、是非とも聞いてみたい。成長した自分を発見したのだから、いいぢやないか、などと幼稚な反論は止めてくれ。それなら、成長する前の自分を凝視するところから始めるのが筋だ。それでも不服だといふなら――

 ――仮にこの言ひ回しをよしとしてみよう。言ひ回し自体のいやらしさは忘れて考へてみよう。さうしてみても、何とも嘘臭さがついてまとふとは思はないか。過去と現在といふ縦軸ではなく、同時存在としての横軸で見るといい。何らかの自分を見つけた自分、即ち背後の自分は、人間として当然のことながら、あらゆる悪や汚れ穢れ狡さ、何もかも背負ひ込んでゐるわけだらう。この、人間の裏面を放り出して「~~な自分がいました」などよく言へたものだといふのが、正常な感覚ではないか。

 裏面は全て背後に隠して、どんな自分を見つけても、傍から見ればオメデタイ以外の何ものでもなく、結局アンタの勝手だよ、押し付けるなよ、といふところに戻つて行く。いはば、限りない自己肯定の欺瞞、それが「自分」シンドロームの核心ではないか。だから私は不快に感ずるのだと思ふ。
 
 なので!――私自身にはどんな自分もゐなくて構はぬ。

 以上、何十年振りかで「三四郎」を読了した夜、記す。

 蛇足ながら、自分探しの果てに益体もない自分を見つけて悦に入つてゐる御仁にお薦めの図書がある。いや、恋だ不倫だ、子育ての悩みの果てに別の自分に逃避する柔な御仁だけではなく、むしろ、生きることのキツさを本当に感じてゐる若者に薦めたい。「ゲド戦記」、ことに第一巻第三巻。生きて行く事を援けてまではくれないにしても、救つてまではくれないにしても、一度は読むべき作品だ。いや、十代二十代で一度、三十代四十代で、そして老境に差し掛かつてと、三度四度手に取る意味のある図書だと思ふ。
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by dokudankoji | 2009-05-17 00:48 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
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Commented by romy at 2009-05-17 19:59 x
ずっと感じていたことでしたが、専門家(?)の方に言葉にして
いただいて大笑いしてしまいました。
自分探しシンドロームに陥っている人たちの前提には、
「自分は何ものかであるはずだ」というのがあるんですよね。
なぜ自分が何ものでもないということが、そんなに怖いのでしょうか。
結局は恵まれているということだと思うんですけどね。
そして自分自身と同様、時間を持て余してしまってる。
だからやはりこういう人たちは女子供が多いです。
恵まれた国に生まれ暮らしている(それに気づくことができない)
からこそ陥る自分探しシンドロームということなのでしょう。
戦後教育で個性個性とナントカのひとつ覚えのように言い続けた
弊害のような気もしますが。
いつも思うのですが、戦後教育で個性個性と言い続ければ個性が
希薄になり、何よりも命が大事と言えば、前者同様、戦前とは比べ物に
ならないほど自殺が増えている、これって何なんでしょうか。
いい加減気づいた方がいいような気がします。
長くなって申しわけありません。


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