2009年 04月 09日

オーバー・アクション

 過日、確か民放の番組だつたと思ふが、何の気なしに見てゐて、以来ずつと引つ掛かつてゐることがある。なんといふ番組だか、どういふ流れでそのことに話題が及んだのかは忘れた。雑用に追はれながらの、殆ど「ながらテレビ」の状態だつたから。

 その番組でアメリカのどこやらの大学のサークル活動の映像が流れ、学生たちがカラオケに(学内で)興じてゐる。歌つてゐるのは日本のアニメ・ソングで、サークルは日本製アニメ研究会とでもいふものらしい。(学内でカラオケを歌ふサークルがあるのかい、アホらしい、さすがアメリカだね、軽い軽い。日本といふとアニメかコスプレ、これにもウンザリだ、一昔前のフジヤマ・ゲイシャと変らんぢやないか。しかもそれを文化と呼ぶ、何をか況や。さういへば日本のその種の「サブカル」<寒軽!?>に一番夢中なのがフランスらしい、一体どうなつてゐるんだ、この世界は。)

 と、益体も無い独り言はさておき、そのサークルの学生の発言に、私は空いた口が塞がらなかつた。大略、このやうなことを言つてゐた。「日本のテレビのお笑ひタレントつてオーバー・アクションだよね!」……。この発言が日本人の口から出たものなら、聞き流したところだ。だが、欧米人に、お笑ひタレントであれなんであれ、オーバー・アクションだと言はれたことに、私は、オーバーかもしれないが衝撃を受けた。日本人がオーバーなジェスチャーをするやうになつたのも、元はといへば欧米人の物真似からだらう。

 お笑ひタレントにしても、一般人にしても、日本人のアクションあるいはジェスチャーが大仰になつたのはいつ頃からだらう。およそ、物事に大雑把な私には、かういふ時に頼るべき確たるデータは何も無いが、それは平成の二十年やそこらの問題ではあるまい。コント55号? ドリフターズ? いやいや植木等だつてかなりオーバーだつた。

 事のついでに、女性が大口開けてガハガハと笑ふやうになつたのはいつの頃からか? 公私の場を弁へなくなつたのはいつの頃からか? 女性だけでレストランなり居酒屋なりで酒を呑み、辺りを憚らず大声で喋る風景を我々が何とも思はなくなつたのは、いつの頃からか?

 テレビの世界にも始めはオーバーなジェスチャーなどありはしなかつた。今や、お笑ひタレントのみならず、それを真似した子供が大人になり、さらに子供を産んで、既に二代に亙る再生産、オーバーなジェスチャーを奇矯とも思はぬ社会を生み出してゐる。一例を挙げれば、子供にカメラを向けてみるがいい。大学生に至るまで、一斉に手を挙げてピースサイン、何やらロボットでも見てゐる気になる。この十年余り、ことに酷い、目に余る。

 一方、同時に、かうも言へる。テレビが普及して間もなく、気が付いてみると、お笑ひが茶の間に忍び込み(たとへば、トニー・谷)、それは際限もなく堕落し、やがて芸でも芸能でもない下卑た笑ひの世界へと堕して行つた。恐らくその堕落に十年も掛かつてはゐないはずだ。その後は一気呵成、今どのチャンネルを見ても、似たり寄つたりの間抜け面が大口開けて、オーバーに手をバタバタ叩いて、面白くもない仲間内の、ギャグにもならぬギャグに自分達だけで面白がつて金を稼いでゐる。そのギャラは、疑ひもなく我々の消費によつて購はれてゐるのだが。
 
 話はあちこちに飛ぶが、かつて西洋に倣つた新劇が、そのオーバーなジェスチャーを揶揄されたのはいつの頃だらう。それに反発するやうにリアリズムと称して、限りなく等身大のチマチマしたつまらぬ「演技」へと傾斜する「舞台人」が現れ、一方で児戯に類する跳んだりはねたり喚いたりの、これまた異質なオーバー・アクションがエネルギーを感じさせてくれると観客を思ひこませたのは、いつからだらう。いやいや、この種の舞台は今でも主流か。

 ともあれ、少なくとも昭和の三十年代には、あるいは四十年代の半ばまでは、日常の世界では、日本人は遥かに遠慮がちであり、いはゆるオーバーなジェスチャーからは遠く隔たつた存在ではなかつたか。その挙措も言葉遣ひも穏やかで品があつた。一言で言へば未だ戦前が残つてゐた。つまり、明治大正が厳として残存してゐた。明治の生まれの人が矍鑠としてをり、大正生まれの人々が社会を引つ張つてゐた。芥川の『手巾』(ハンケチ)の世界がまだ身の回りに生きてゐた。感情を面に出さぬ事が美しいと思はれ、楚々たる佇まひがよしとされてゐた。そこに何の疑ひの余地もなく、社会がさういふ世界を当然のこととしてゐた。

 そして、かつては欧米の事象を先進のものと「憧れ」真似した日本人が、今や欧米の人間から、オーバーなアクションと言はれて、面白がられるまでに、そのジェスチャーは異常な発展を遂げたらしい。コスプレが「クール」なものと持て囃され、パリで人気になるまで日本の「文化」は進化を遂げ――いやいや、文化の概念をいとも軽々と覆し、さらにマンガやコスプレが「学問」の対象とまでなり「大学」の研究対象にすらなり得る御時世が来てゐるらしい。

 マネをした オーバーアクション マネをされ……と、川柳にもならぬ軽口を叩きたくなる。日本の芸能も日本人の資質も、どこまで坂を転がり落ちるのか。いや、落ちて行くのも構ひやしない、もしも落ち続けてゐることに気が付いてゐるのなら……。

 政治の世界も同じことだ。だが、政治家の愚劣を口にするな。与野党を問はず現今の政治家の愚昧な浮き足立つた言動は、笑つて済ませられるものではあるまい。からかひ軽蔑して済ませられるものではあるまい。それは何も政治家だけのことではないではないか。政治家を嗤ひ侮蔑する時、忘れてはならない、我々も同じオーバー(大仰)で大雑把で貧弱で粗雑な世界に生きてゐることを。我々は、ああいふ姿に――お笑ひ芸人の姿に、政治家の姿に、己が姿の投影を見る筈だ。

 かつて、誰かが人間は変らない、ギリシアの昔から変らないと述べてゐるのを読んだ記憶がある。が、それは違ふ気がする。人間は劣化する。際限なく劣化する。明治から大正へ、戦前から戦後へ、昭和から平成へ。どう考へても、日本人は顔付き一つとつても弛緩し、弱々しくなつてゐるのではないか。ジェスチャーやアクションがオーバーになつた分、中身は空疎になつた、それだけは確かではないか。
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by dokudankoji | 2009-04-09 00:36 | 雑感 | Trackback | Comments(2)
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