2007年 11月 27日

俳優修業――そして、言葉の力(最終回)

 『鹿鳴館』を二度も私が観に行つたのは、偏に日下武史といふ現代には稀な知性を備へた俳優の演技を確かめたかつたからであり、初演時には、見事とは思ひながらどこか物足りなさを覚えたからなのだが、「凱旋公演」では期待通りの名演技を見せてもらへた。他の共演者は総じて四季独特の朗誦術に雁字搦めになつてゐて、せりふを肉体の中に取り込むことが出来ず、リアリズムからは程遠いと言はざるを得ない。

 だが、今の私は四季だけを、そのマナリズムともいへる朗誦術ゆゑに否定する気にはなれない。もしそれを論ふなら、他の劇団、他の舞台は如何なるせりふ術を身につけ、聴かせてくれるか。

 これは我が劇団昴についても同様である。昴は確かにせりふを大事にしてきた。福田訳のシェイクスピアをそれなりにこなしてはゐる。が、せりふを肉化してゐるかといふ点では決して合格点は付けられない。人物の造形をせりふの肉化、すなはち劇的リアリズムに昇華する所までには到つてゐない。せりふがせりふを呼び、せりふに突き動かされてその役が生き、相手役を突き動かすといふ意味ではまだ未消化といはざるを得ない。さういふせりふの力が役者を動かし観客を感動させるところまでは到つてゐない。せりふが心を動かし形になつて見える、さういふ意味でのせりふ術は未だに身につけてゐない。

 三百人劇場閉鎖を記念して、昨年上演された『億万長者夫人』にしても『夏の夜の夢』にしても、その点で観客に消化不良を起こさせて終つてゐる。せりふの力といふものを役者や演出家がどこまで信じてゐるのか、どこまで追求してゐるのか、私には疑問だつた。

 この問題の背後には人間観察も含めた人間性や人間修業の問題が潜んでゐはしないか。他劇団のことはさて置き、昴にだけはそのことをもう一度考へてもらひたいものだ。

 観客を感動させる、つまりは突き動かすだけのせりふを語れる技術を身につけてゐるか。さういふせりふを語るためには技術のみならず、日常の森羅万象が観察の対象であり教師であることに、昴の、日本の俳優のどれほどが思ひを致してゐることか。私はやはり「底知れぬ絶望感」に似たものを感じざるを得ない。

 実は、ここまで書いてきても、私はその責めを負ふべきは俳優だと断ずる気は毛頭ない。勿論俳優の怠慢はある。住大夫の憂鬱の原因に文楽の若手の不勉強があることも事実であらう。が、冒頭の引用のうち、ここまで私があへて触れなかつたことに、俳優が修業のために拠つて立つべき、そもそもの「文化の荒廃」がある。

 その荒廃は、その後少しでも回復してゐるか。いふまでもない、生活様式、言葉、思考、何を取つても溶解の一途を辿つてゐることは誰の目にも明らかだ。全ての根底を支へる国語の衰退、国語力の衰亡は目を覆ふばかりの惨状を呈してゐる。それを、私は俳優達の責任とのみ言ふつもりはない。が、せめて、俳優たるもの、言葉を生業とするなら、この問題を黙過することだけは許されまい。

 そのことなのだ、私が劇団昴の諸君に、我が国の演劇界に言ひたいことは。俳優たらんとするなら、何が最も重要なことか、何を身につけるべきか、何を学ぶべきか、そのことなのだ。福田恆存の言ふ「人間修業」か、住大夫の言ふ「人間性」あるいは「基本に忠実に」なのか、まさに今こそ、全ての演劇人が基本に立ち返つて謙虚に考へる時ではあるまいか、「絶望感」を撥ね返して言語芸術の世界から日本文化の建て直しをするくらゐの意気込みを持つて。(了)
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by dokudankoji | 2007-11-27 00:26 | 雑感 | Trackback(1) | Comments(6)
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Tracked from 藪の眼には涙もでない at 2007-12-26 22:47
タイトル : 大根役者には務まるまい
副題は「以退為進」 福田首相の紹介本、中国で出版2007.12.26 09:59 このニュースのトピックス:少子・高齢化社会 中国で出版された「福田康夫伝」 福田康夫首相の27日からの訪中を控え、中国でこのほど「福田康夫伝」が出版された。執筆した共産党機関紙`..... more
Commented by matheux-naif at 2007-11-29 23:48 x
「俳優修行―そして,言葉の力」,演劇とは遠い世界に棲息する小生にとつても日頃の関心と連なる含意も感じられ,大変興味深く拝見いたしました.dokudankoji様は,演者の作り上げる演劇の質を論じて,まさに,どこからかういふ世界の質的な差が生じてゐるのかを問ひ質し,答へとして標題にある「言葉の力」を十全に身に付けてゐるかどうかといふことを示唆してをられます.

お話の内容が,一部ではありますが,小生の立場でも日頃考へさせられてゐることに符合するところがあるやうだと申し上げたのは,お答への裏に,違ひはかういふことではないか,演者自身がおのれをどう位置づけてゐるのか,字義通りの卑近なところに自足してゐるのか,それとも伝統の一端といふかおのれを超えた全体の一部といふ意識が潜んでゐて,それは,守旧と言ふのではなく創造的な意味を篭めて歴史に加はつてゐると言つてもよいのですが,さういふ自覚に到達してゐるのか,さういふことではないかと読み取りました.

解釈に確信は持てませんが,一応の感想まで.
Commented by 世留 at 2007-12-08 13:58 x
昨夜、NHK(3ch)を観ました。
あります。確かに、見覚えあります。住太夫さん。
素人が食っ喋るわけにはまいりませんが、横でしきりに女房が不思議がるのです。つまり、歌と三味線のところですけど、どう同期をとるのか全く解らない、って。西洋音楽を中途半端にやっているものには、好い加減か奇跡か、どちらかにしか聞えない、とのことです。
私には、ウルトラモダンなジャズセッションのように聞こえました。成るほど、これに摑まっちまったのか。じゃあ、しゃうがねぇや。
まぁ、そんな気持ちでしょうか。
Commented at 2007-12-14 12:41 x
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Commented at 2008-02-16 13:48 x
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Commented by 『福田恆存を讀む會』:吉野櫻雲 at 2008-03-05 12:32 x
 『福田恆存評論集』のご發刊洵に喜ばしく存じ上げます。『福田恆存を讀む會』もそれを記念して過日(一月、二月)、『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』『教育の普及は浮薄の普及なり』をテーマ評論に取り上げました。遅ればせながらご報告申し上げます。以下HPに拙發表文を轉載致しましたので、ご高覽を賜りますれば幸甚と存じ上げます。
 尚、本日「俳優修業――そして、言葉の力(最終回)」を拜讀して、私共が兩囘で追究した「文化と儀式・型」との關聯、及び以下の點が此處にも同じく取り上げられてをられるのに吃驚しました。

「せりふの力學、換言すればせりふ(言葉・物)との附合ひ方、扱ひ方、即ち「フレイジング」「So called」「型・仕來り(躾)・生き方・様式」の用ゐ方の適不適で、場との關係を適應正常化(非沈湎=文化存在)させる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎=文化喪失)に陥らせる事にもなり得る」

『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』について。
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page083.html
『教育の普及は浮薄の普及なり』について。
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page085.html
Commented at 2008-03-11 12:18 x
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