福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2007年 11月 20日

俳優修業――そして、言葉の力(4)

 身近な例を挙げる。翻訳劇上演の多い劇団昴の役者達は――至極当然かも知れぬが――たまには所謂和物を演じたくなるらしい。しかも出来れば現代の新作を。その結果が何を齎すか。残念なことに現代の戯曲(と呼べるとして)の多くには役者と等身大の人物が登場する。すると役者は良くも悪くも背伸びせず、自分の生地のままで演じることが多くなる。さうなるといよいよ仲代達也の例ではないが、どんな役を演じてもその役者の癖=マナリズム丸出しの舞台ばかりになる。

 せりふは現代の日本人のそれであり、配役に無理のない限り、役者は自分と同年代の役を演じるわけだから、よほどの想像力を働かせて自分とは全く異なる人物の造形に務めない限り、生のままの姿を舞台に曝すことになる。これでは演技でも技術でもない。

 ここに、優れた翻訳による翻訳劇や古典に挑戦する意味が浮かび上がつてくる。自分から遠いもの、自分にはないもの、自分の手の届かないものを目指すこと。さうすることによつて、せりふ術は磨かれる。等身大の人物の等身大のせりふに終始してゐたのでは、限りなく日常に近づき、せりふが力を持つ可能性は限りなく最小に近づく。

 それでは、演じてゐることになるまい。力強いせりふは、観客や相手役より何より、先づその話者自身を突き動かし、等身大から遥かな高みに役者自身を引き上げる。前に挙げたアラン・ハワードのことを思ひ出して頂きたい。三十にもならぬデビューしたての役者が、リアの苦悩の一部を背負ひ、神話の世界の偉大な人物になりきり、世間を見尽くし老成した人間に成り変はる。全てはシェイクスピアの言葉の力によるものだ。そのせりふに挑んだ結果だ。ブランク・ヴァースをこなすことで、自分の肉体にどこまでせりふの裏打ちをなし得たかだ。

 和服を着て日本旅館の女将でも演じてゐれば確かに居心地はよからう、安心感もあらう。だが、そこには、多くの役者を待ち受ける陥穽がある。驚くべきことに、昭和が過ぎ去り平成も二十年近くを経ると、日本旅館の女将が一種の類型として演じ出される。和服を着た時は、かういふ歩き方、お辞儀、身振り、喋り方をする――さういふ類型を役者が演じ始める。女将とは「かういふものだ」といふ観念で類型を演じ、個々の女将の人物を造ることを忘れ去つてしまふ。結果は類型と個々の役者の癖のみが舞台の上を動いてゐる。私は殆ど絶望した、寒気すら催した。

 いふまでもないが、そんな「演技」を許してしまふやうな軟弱な戯曲にこそ、問題は潜んでゐるのだ。せりふに説得力も力もリアリティもない。あるのは作者の自己満足と、殆どの場合は予定調和のハッピーエンドに終る、テレビドラマにも及ばぬ粗雑で脆弱な筋書きのみである。

 何度でも言ふ。言葉が役を役者を突き動かしてゐない。言葉が登場人物を行動へと駆り立ててゐない。己の吐いた言葉が相手役はおろか、吐いた自分に何の力も及ぼさぬやうでは、「劇」のせりふとは呼べまいが。激白=劇白といふ言葉を考へてみることだ。舞台上の役者たちがせりふに突き動かされてゐないやうな舞台は、観客の心を動かすことは決して出来ない。

 やはり古典に学ぶべきなのだ。優れたものなら翻訳劇にも学ぶべきなのだ。繰り返すが、自分から遠いもの、自分の手の届かぬものへの挑戦にはそれだけの意味がある。自分の枠を広げることだ。可能性を拡げること。自分の中には存在してゐないかもしれぬ人物を想像し造形しやうとすること、そのための取つ掛かりは優れた戯曲に書かれた優れた言葉以外にはない。
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by dokudankoji | 2007-11-20 21:30 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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