2007年 11月 12日

俳優修業――そして、言葉の力(2)

 英国の舞台を観た時に感ずることだが、上手い下手はさて置いて、彼の地の俳優の演技には底流に厳然とした基準があるといふ事、おそらくはシェイクスピア以来の演劇の歴史と伝統が生み出したせりふ術と、生身の役者が自分とは別の人格を舞台上に現出させる演技術とを多かれ少なかれ身に付けてをり、しかも、誰しもが共通の演技術を身に付けてゐるといふ事だ。

 他でも書いたことだが、私にとつて忘れがたい舞台がある。初めて英国を訪れた昭和四十三年のこと、ストラットフォードで三夜連続でシェイクスピア劇を観た。『リア王』『トロイラスとクレシダ』『お気に召すまま』の三作品である。一晩目に観た舞台に若いが実に上手い役者がゐた。シェイクスピアの詩形ブランク・ヴァースを見事に美しく聴かせてくれるし、『リア王』のエドガーといふ青年の苦難と信念とを的確に演じてゐる。感心してパンフレットの俳優紹介に丸印を付けて宿に帰る。翌日『トロイラスとクレシダ』を観ると、傲慢なエイキリーズ(アキレス)の役を朗々としたせりふで演じ、シャープな体つきの筋骨逞しい武人に造り上げてゐる役者がゐる、しかも凛々しさは群を抜いてゐる。パンフレットに丸印を付けようとして驚いた。昨夜と同じ役者ではないか、全くの別人としか思はれないのに。さらに三晩目の『お気に召すまま』、初老のジェイキーズ――あの厭世的で皮肉屋、ウィットに富んだせりふと人生への深い洞察力を示す人物――これがまた見事な出来栄えで美しいブランク・ヴァースを聴かせてくれる。いふまでもなく、これまた同じ役者なのである。にもかかはらず、三役とも声音や歩き方から、頭・胴体・脚のバランスまで別人のやうに見せる。この年度に、この役者は最有望新人賞を取つた、つまり演劇学校を出て間もない無名の役者だつたにもかかはらず、このレヴェルなのだ。

 今にして思へば、私はこの経験で演ずるといふ事の本質を掴んだと確信してゐる。役者は自己を抑へ隠し、別の人物を舞台上に造形するものなのだ。そのための技術を身につけたもののみが俳優といふ名に値するのだ。私が感謝しなくてはならないこの役者の名はアラン・ハワード、その後ピーター・ブルック演出の『夏の夜の夢』が来日公演を行つた時、シーシアスとオーベロンの二役を演じてゐた、あの俳優である。その後、酷いマナリズムに陥り活躍の場が減つたが、それからも私は長い間に三回彼の舞台を観てゐる。一つはベルイマンの『結婚の風景』の夫役、後はシェイクスピアの主役二つ、『コリオレイナス』と『マクベス』だが、どの演技をも私は堪能した。

 自己を抑へ隠して他人になる、別の人物を造形する――言ふは易く行ふは難し。英国でも全ての役者がさうだなどといふつもりはない。しかし、映画で御馴染みのアンソニー・ホプキンスを思ひ出して頂けば、分かりやすいのではないか。『羊たちの沈黙』のレクターと『日の名残り』の執事と、娯楽映画『マスク・オブ・ゾロ』の初代ゾロと。全てが全く別のキャラクターであり、喋り方・身のこなし・声音、どこから見ても別の人間を造形してゐる。演ずるとはさういふ事だ。

                       *

 翻つて日本の新劇界はどうか。例へば仲代達也、西田敏行、江守徹……。例を挙げれば切がない、といふより、新劇界出身の役者といふ役者を思ひ返してみても、誰も彼もほぼ一つの、精々二つか三つのキャラクターの使ひ回しをしてゐるではないか。仲代など、同じ抑揚のない喋り口と死んだ魚のやうな目と無表情、それが自分の技術(持ち味)だとでもいふのだらうか、少なくともそれを売り物にしてゐる事は間違ひなからう。それをよしとする観客や視聴者、そして劇評家!

 なぜ、彼らは役によつて別の人物を造形しようとしないのだらうか。別の人物になり変はることにこそ、役者の醍醐味があるのではないのか。さうではないといふのなら、実人生で自分自身を「演じて」ゐれば十分ではないか。何のために職業として、専門職として俳優を選んだのか。金を取るため? ならば客が払ふ金に見合ふ藝術=技術を見せなくてはなるまい。さもなければ詐欺だ。それを見せてゐると信じ込んでゐるなら、相当の極楽トンボ的自己欺瞞と呼ばう。

 舞台なら、その場限りで消える。が、映像が残る現代では、以上のことは容易に万人の目に明らかになる。幸ひこの国は、何事につけ寛容の精神に満ち溢れてゐるらしい。前に観た映画と次に見たテレビと、役柄が違ふのに同じ声と顔と身のこなしだからと言つて文句をつける観客どころか、そんなものを比較する客は皆無なのだらう。

 新劇が始まつて、いや、歌舞伎などの伝統芸能とは別に逍遥や小山内薫が新しい演劇運動を始め、西洋から借り物の演劇を移入して既に一世紀半にならうといふのに、新劇あるいは「現代劇」は、一向に演ずることを身につけてゐない役者で溢れてゐる。

 これを怠惰と呼ぶべきか、日本人の性情と呼ぶべきか、今、私には俄かには判断が下せない。が、少なくとも私はしばしば「底知れぬ絶望感に襲はれる」。十五年前RADAとタイアップしてワークショップを始めた時と今と、何ら変りがないのだ。

 変つたことといへば、混乱は一層顕著となり、舞台に立つた人間これすなはち俳優、と言つても過言ではないほど、誰も彼もが何の基礎もなく、何の技術も経験もなく舞台やテレビを闊歩して、喚き叫び飛び跳ねて、だらけて平板なせりふ廻しで悦に入り、自己満足を観客に押し付けてゐることくらゐか。

 観客も結構それに満足し、例へば社会風刺等を舞台から学び何やら知的な気分に浸つて悦に入り、あるいはエネルギッシュな舞台の躍動感とやらに感覚を擽られ、舞台と体験を共有した気分になつて満足し、劇場を後にするのだらう。これでは日本の新劇だか演劇だかの世界は前には進まない。幼児化と退嬰の道を進むだけだ。

 舞台にせよ映像にせよ、観客は「嘘」の世界を楽しみに足を運ぶ。その対価がマナリズムにも程遠いやうな、生身の役者を見せられては飽きるだけだらう。演劇なら演技といふ「嘘」を見せてもらひたい。演技すなはち技術を楽しませてもらひたい。役者がある役を造形する手を、それをつかさどる役者の知性と人間性を見せてもらひたい。「嘘」を「眞」と信じ込ませる芸すなはち技術をみせてもらひたい。そこにこそ舞台芸術の醍醐味があるのではないか。だからこそ俳優修業は人間修業だといへるのであり、それを怠つてゐる役者には真の魅力も人間味もありはしない。
[PR]

by dokudankoji | 2007-11-12 00:30 | 雑感 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://dokuhen.exblog.jp/tb/6549627
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by 世留 at 2007-11-14 13:00 x
意は似せ易く、形は似せ難し。
いえ、私が言ったのではありません。言われたような気はするのですが。
Commented at 2007-11-14 17:58 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


<< 俳優修業――そして、言葉の力(3)      俳優修業――そして、言葉の力(1) >>