2007年 11月 09日

俳優修業――そして、言葉の力(1)

 今年の春、拓殖大学日本文化研究所発行の『新日本学』春号に書いた拙論を、数日置きに、五六回に分けて掲載する。執筆時期は今年初頭。

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 のつけから身も蓋もない引用で始める。

 ≪俳優修業は人間修業といふ事になりませうが、現代の日本を顧みた時 に生活や文化に根づいた役者といふものが、どこにゐるのか、その文化の荒廃といふ現実を前にして、私は時折、底知れぬ絶望感に襲はれます。(福田恆存『せりふと動き』)≫

 『せりふと動き』は昭和五十四年の秋に玉川大学出版部から単行本として出されたが、そもそもはその二年前から雑誌『テアトロ』に連載されたものである。いづれにせよ、今からおよそ三十年前に書かれてゐる。

 そして、私のこの論考も「絶望感」に始まり「絶望感」に終ることになりさうである。勿論「絶望感」などといふもの、口に出してゐる本人自身、真の絶望に打ちのめされたら立ち直りやうもないのだが、福田恆存にしても「時折」襲はれる「絶望感」を払ひのけ払ひのけして、劇作・演出・劇団主催に邁進してをり、その日常は至極オプティミスティックなものであつたに違ひない。

 どれほど絶望「的」になつても旨い料理には舌鼓を打ち、女の色香には血道をあげる、その態の絶望感だらうと言つてしまつては、これまた身も蓋もなからうが、一方において、絶望に裏打ちされぬ人生など生きる価値があるのかといふ問もまた成立するであらう。事実、福田恆存はさういふ人間論を書き続け、さういふ重層的な人生を生き続けたと私は考へてゐる。

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 俳優修業が人間修業であるなどと、改めて言ひ立てる程の事でもないともいへる。さらにいへば、何も俳優修業でなくとも、あらゆる職種が人間修業だらうといふ反論も聞こえてきさうである。その通りであらう。いつそ、俳優修業ほど人間修業を必要とし、それに裏打ちされてゐなくてはならぬ職業は、他に例を見ないとまで、突つ込んだ物言ひをした方が分かりやすいかもしれない。

 現実に演劇の世界に足をふ踏み入れると、このことを嫌といふほど実感する。多くの俳優や演劇人と接してゐて感ずるのは、驚くほど観察眼を持たず、芝居のこと以外に何の興味もなく、社会性に甚だ乏しいといふ事、そして人間洞察に甚だ欠けるといふ事だ。それらが最も要求される職業であるにもかかはらず、厚みのある人間は少ない。いふまでもなく、これらの事は、あらゆる職業に於いて要求されることには違ひない。が、演ずるといふ職業は最も冷徹な、醒めた観察眼と洞察力を必要とする職業のはずだ。その、必要とされる程度に応じた観察眼と洞察力をどれ程の役者が持つてゐるか、それらを磨かうとしてゐるか、大いに疑問と言はざるを得ない。それらが必要だといふ事実に気付いてゐない、考へたこともない俳優すら大勢ゐよう。

 俳優=役者ほど奇妙な存在はないだらう。我々は当たり前のやうに映画・テレビ、あるいは舞台での俳優の「仕事」を目にし、それをなんとも思はずに受け止め、受け入れてゐる。韓流ブームに至つては、視聴者は殆ど没我的自己同化までして画面の中の役者に感情移入し、それが「演じられて」ゐるものだといふことなど考へてもいない。

 が、役者はそこで「嘘」を演じてゐる、職業として、金のために。そんなことは分かつて観てゐるのだといふかもしれない。韓流など持ち出すと誤解を招くといはれるかもしれぬが、実は人気を博してゐるあらゆる舞台についても同じことが言へる。私の知る限り、新劇(現代劇)の俳優ほど怠惰な人種は少ない。少なくとも「専門職」でありながら、その専門職として、金を稼ぐに足るだけの技術を磨かうと日々努力してゐる役者は私の周りでも極僅かであらう。「嘘」を演じるためには技術が、演技術が求められる。

 が、それをどこで身に付け、どこで伸ばしてゆくのか。日本に本当の意味での俳優養成学校は存在しないし、劇団付属の養成所等はあつても、一旦そこを卒業してしまふと、その後はどこにも研鑽の場がない、教へを乞ひに行くべき師匠もゐない。必然、「先輩の背中を見て学ぶ」などと言ひ出す。聞こえはよいが、何のことはない一生をかけて学び続ける努力を怠けるための、体のよい言ひ訳に過ぎない。

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 今年の夏で十五年目を迎へるが、私の主催する現代演劇協会では英国一の演劇学校、王立演劇アカデミー(RADA)から、演技・発声・身体訓練の教師三名を招き毎夏三週間、プロの俳優のためのワークショップを開催してゐる。

 私がこれを始めた経緯は、以前『誘惑するイギリス』(大修館)に一文を寄稿したので、詳しくはそれをお読み頂くとして、要は演技術(規準)に共通項を持たぬ日本の演劇界に一石を投じたかつたといふ一事に尽きる。
俳優修業は人間修業だといふ福田恆存より、一歩後退して、まづは役者とは何か、そして演技とは何かを日本の俳優達に考へて欲しかつた、演劇界に再考を促したかつた。その成果が上がつたか否かはさて置き、このワークショップを数年間続けた頃からをかしなことに気付いた。例へば私が身近に接してゐた劇団昴の役者達が二派に分かれた。RADA崇拝派と反RADA派である。勿論常に無関心層、中間派も存在はした。

 だが、この二派、私の目には同じものとしか見えないのだ。どちらも同じ穴の狢、要は西洋万歳と西洋糞喰らへ――どちらにしても西洋コンプレクスが、この平成の御世に未だにあることを、図らずも垣間見せられた思ひだつた。

 しかも、シェイクスピア劇にリアリズムを見よといふ旗印の下に生まれた劇団、翻訳劇や西欧の翻案物にはかなりの力を発揮してきた劇団雲・欅を継承した劇団昴の役者たちがこの体たらくである。マナリズムに陥りがちな、そして演技術を磨くことを怠る役者達に刺激をと図つた企画であるだけに、私は「底知れぬ絶望感に襲はれた」。

 とはいへ、十五年が過ぎようといふこの頃感ずることは、今や各種の演劇ワークショップが花盛り、新国立劇場にはまがりなりにも付属の演劇学校が出来、演ずるためには「何やら技術がいるらしい」といふ空気が生まれかかつてゐるやうに見えることも、あながち否定は出来ない。これが真に日本の演劇界の演技術向上に資するなら幸なるかな、である。

 だが、演劇界全般を見回したとき、一旦配役され舞台に上がつた俳優達が、技術を置き去りにした「演技」をしてゐるといふ厳然たる事実は、十五年前と、あるいは福田恆存が俳優修業に絶望感を表した三十年前と大差ない。それどころか、演劇界の「主流」は、むしろそんな地道な技術習得などどこ吹く風とばかりに、有名タレントを集めて集客を図るか、観客数の大小にかかはらず、各々にごく一部のファンを対象とした、言つてみればオタクと何ら変はらぬ世界に浸つた舞台造りをテンデンバラバラに行つてゐるのではないか。
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by dokudankoji | 2007-11-09 00:49 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
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Commented at 2007-11-09 14:27 x
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