福田 逸の備忘録―独断と偏見

dokuhen.exblog.jp
ブログトップ
2007年 10月 01日

仮名遣ひ

 大分前の事になるが、私のブログが正仮名遣ひであることに疑念を表し、あれは主義主張なのかと聞いて来た知人がゐる。主義だ主張だと、そんな大それた話でもなんでもなく、単に過てる「現代かなづかい」に苛立つ、それだけのことなのだ。

 例へば、「おめでとう」、といふ仮名遣ひに違和感を感じるだけの話なのだ。めでたいから、正月なり慶事に際して、「おめでとう」と書くのだらう。つまりめでたい=愛でたいからだらう。あるいは「珍しい」物事を「愛でたく」思ふから、その物事を大事にしたいのだらう。

 大事にしたく思ふ、愛でたく思ふ、すなはち、「めでたく」思ふから「おめでたう」と書くのだ。「たう」は「たく」のウ音便であり、といふことは「おめでとう」と書いたら、そのウ音便を元に戻すと、「おめでとく」となつてしまふではないか。めでといなぁ、なぞと言ふか。形容詞の語幹が、変つてよいものか。「おめでとう」と書いて違和感が無い方は、ついでに「めでとけ」れば、「めでとい」時と書いたらいい。この「現代かなづかい」のごまかしと矛盾が気持ち悪く無いのだらうか。

 なにも、表記上で「めでたう」と書いたから、生真面目に一字一字発音することは無い。「現代かなづかい」とやらで、「おめでとう」と書いたからといつて、「オ・メ・デ・ト・ウ」と一字一字発音してゐるわけでもない。「おめでたう」と書いて、喋る時は「オメデトー」と発音する、それが昔からの極まり事で、それに不便を感じてゐなかつた。事実、私達は漱石や鷗外を、昭和も半ば過ぎまで、何の苦もなくこの正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)で読んでゐたではないか。

 もう一つ。「嬉しく」存ずるを「うれしう」と書くのと、「うれしゅう」もしくは「うれしゅー」と書くのとどちらが自然か。「おはよう」に馴れてはゐるだらうが、「お早く」=「おはやく」を「おはやう」と書くことがそれ程、奇妙か。主義だ主張だといふ大仰な問題ではあるまい。

 ついでに、「珍しい」といふ言葉だが、上に書いた通り、貴重なもの珍重したいもの、つまり、大事に愛でたいものだから、文語の終止形なら「珍らし」と表現したわけだ。これはお分かり頂けよう。ならば、「めでたい」のダ行「で」に付き合つて「めづらしい」とダ行「づ」で表記するのが妥当だと言ふことも、お分かり頂けよう。

 ところが、「現代かなづかい」ではザ行で「めずらしい」と書かなくてはならない。これに何の矛盾も感じないのだらうか。これでは、「珍しい」ものだから「愛でたい」といふ語の関連性が無くなる。同じ語源(語感)から発した語をザ行とダ行といふ別の仮名遣ひで綴らせる「現代かなづかい」は言葉への暴力だ。

 戦後の国語政策のせゐで、我々は「現代かなづかい」を学ぶことにより、古典(古文・文語)を全く別物として学習することになつた。いはば、外国語を覚えるが如き気分の生徒もゐるらしい。なぜ、同じ仮名遣ひで古典も現代文も済んでゐたものを、二通りの仮名遣ひを覚えるといふ無駄を強ひられねばならぬのか。それが、我々から古典を奪つたことに、どうして気付かないのか。

 国語教師はこの矛盾に平然として、授業を進められるのか。それとも矛盾に気付かぬほど鈍感なのか。国語教師ばかりではない。言葉を生業とする者全て、この問題に頬被り出来ぬと思ふが、如何。

 「現代かなづかい」の矛盾や問題点をあげつらひ出したら限が無いから、取敢へずここまでにしておくが、最近出版された『旧かなづかひで書く日本語』(萩野貞樹著・幻冬舎新書)は正仮名遣ひへの入門書として、甚だ解りやすく親切である。お奨めする。
[PR]

by dokudankoji | 2007-10-01 00:53 | 雑感


<< 皆さん、お忘れでは……      取敢へず、釘を刺す >>


記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
XML | ATOM

Powered by Excite Blog

個人情報保護
情報取得について
免責事項