福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2005年 05月 22日

朝日新聞に借問する

 朝日新聞が5月18日の社説で小泉首相の靖国参拝発言を取り上げてゐた。首相の「どの国でも戦没者への追悼を行う気持ちを持っている。どのような追悼の仕方がいいかは、他の国が干渉すべきでない」「A級戦犯の話がたびたび論じられるが、『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ」といふ衆院予算委での発言に噛みついた(つもりらしい)。
 朝日の言説に従へば、中国や韓国は「A級戦犯がまつられている靖国神社への参拝は絶対にしないようにしてほしい」と繰り返し求めてきた、のださうだ。さらに読み進むと、「欧米のマスメディアからも疑問の声が出ている」らしい。

 今更の言辞を弄すると言はれさうだが、今更ながらにしても一度は言つておきたい。A級戦犯を分祀すれば、支那と韓国は黙るか? 二度と靖国問題を「歴史カード」として使はぬ保証でもあるのか? 朝日新聞が保証してくれるのか。当該二国が保証するとでも、裏でこつそりチョーニチ新聞に囁いたか。
 
 万が一、分祀などしてみるがいい、次にはB級C級と止め処なく際限なく言ひ募り、彼らは永遠に「歴史カード」を切つてくる。「従軍慰安婦」にせよ「強制連行」にせよ、我が国が「お詫びと反省」を続ける限り、彼らはこちらから差し上げた切り札を切り続ける。これらを切り札に出来るといふルールを作つてしまつたのは我が国なのだから。
 いや、もつと言へば、朝日やNHKが近隣諸国に御注進に及び、御注進されてしまつては抛つて置くわけにも行かなくなつた支那・韓国が、ある日これはいい手だと気が付いて、以来「歴史カード」が始まつた。そもそもルール作りに精を出したのは日本のマスコミ。
 いづれにしてもルールは出来てしまつた。支那としても恐らく本音ぢや余り切りたくない切り札に相違なく、それが証拠に、今回の官製反日デモのお見事なまでの収束振り。彼の国が我が国を重要視してゐる証拠ではないか。

 ついでながら、そこまで考へて小泉は上の言葉を吐いたのだらうか。それなら小泉も見上げたものだ。一時の苛立ちからだとしたら、これも何をかいはんやである。そこまでまともな首相であれば、はなから8月15日参拝の公約を破りはすまい。13日への前倒し、4月の例大祭、元旦と、年を追ふに従つて曖昧になる参拝をされては、何を今更の感がする。最初に公約通りに参拝し、支那や韓国がクレームをつけたら、すかさず「内政干渉だ」と言ふべきだつた。
 教科書問題も然り。領海侵犯があつたら正式に抗議をし、北鮮にいい加減な遺骨を渡されたら即刻経済制裁をすればいいのだ。矜持を示す、いざとなれば毅然として我が国の意志を「行動」に移す、それで事はすむ。人間といふものはさういふものだ。国家と国家も同じ事。
 「言葉を行動で示す番だ」と支那のお方も言つたぢやないか。今や、沖ノ鳥島へ行つて日の丸を振つた石原都知事の行動は、支那では日本の稀有なる英雄として賞賛・尊敬の的に違ひない。

 話しを朝日新聞に戻す。今回の社説は、どうみても新たな御注進だらう。あるいは、提灯記事。よほど支那に媚びたいのだらう、こんなことも書いてゐる。(小泉首相自身が金大中大統領に靖国の代替施設建設の検討を約束したが)、「結局、自民党や靖国神社、遺族らの反対で…頓挫した。だからといって中国や韓国の人々の理解を得ようとする努力をやめていいはずがない」と。
 冗談言つてはいけない。我が国が何をし、どう語れば彼らは満足な「理解」とやらをしてくれるといふのか。そこを説明してもらいたい。そもそも私の考へを理解せぬ人間は我が国にすらゴマンとゐやう。まして国家間の理解などさうは簡単に成立するものではない。(テレビ朝日の愚劣きわまる「朝ナマ」のだらけた言説の垂れ流し――議論と呼ぶに値せぬ言葉の浪費をみれば、「理解」が如何に難しいことかは明白であらう)

 相互に「理解」出来ると思ふ傲慢が(欺瞞が)「歴史認識の共有」などといふ愚かな言葉を生み出すのだ。賭けても良い、いかなる国家間においても、「歴史認識の共有」など絶対に出来ない。出来るのは「歴史に対する認識の違ひ」の認識である。さらに言へば、私は歴史を認識の対象と考へた事は一度もない。歴史が私を認識するかしないかは、あるだらう。私に出来るのは歴史に学ぶこと、それだけである。歴史が人間を型造るのであつて、人間が歴史を創るのではない、まして認識するのではない。歴史が我々を育むのだ。

 しかし、どうやら朝日新聞は歴史に学んでゐないらしい。教科書問題の発端となつた1982年の「侵略を進出と書き換へた」教科書ありといふ誤報に関する頬被りやサンゴ礁の捏造記事などといふ古い話しまで持ち出すまでもなく、ホンの三月余り前の「NHK番組改変問題に関する虚偽報道問題」、あの悲しくも恥ずかしき「虚勢報道」といふ「歴史」すら健忘症的に忘却の彼方に投げ捨て、恬として恥じないのだから。(これは勿論NHKにも言へる事であらうが)
 裁判沙汰にするとまで息巻いた、朝日のあの時の興奮はどこへ行つてしまつたのか。私は裁判の始まるのを今か今かと楽しみにしてゐる。

 くだんの社説は、以下のやうに結ばれて終はる。「首相の言葉は威勢がいい。しかし参拝を続けることで失われる国益については何も語っていない。『過って改めざる、是を過ちと謂う』。孔子はこういっている。」ならば、朝日のこよなき愛読者としてはかう申し上げておかう――いつも朝日は威勢がいい。しかし虚偽報道に頬被りを続けることで失はれたマスコミの信用失墜については何も語らうとしない。「過つて改めざる、是を過ちと謂ふ」。孔子はかう言つてゐる――と。ちなみに社説の見出しは「孔子が嘆いていないか」となつてゐた。
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by dokudankoji | 2005-05-22 02:04 | 雑感


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