福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2007年 07月 20日

出世払ひ

 知人から面白い(深刻な?)話を聞いた。余り具体的に話すと個人名が特定され、背景も見えてしまふので、A氏としておく。氏は若者を集めて「育て」てることに熱心な人である。先週末の一夜、奥方共々愉快な酒を飲んだが、話が「今時の若者」の話題に及んだ。

 言葉に対する鈍感さやら慣用表現が伝はつてゐないといふ話題になり、私が大学生の多くが「歯に衣着せず」とか「奥歯に物の挟まつた」といつた言ひ回しを既に知らないと話したら、A氏が笑ひながら、「うちの若い連中には食つて行けない奴もゐるわけですよ、で、金を貸してやる、さもないと飢え死にしかねない―千万を超えた奴もゐる。勿論、貸す時に『出世払ひだぞ』といふんだけどねぇ。すると相手が眼を輝かしてありがたうございますつて、安心したやうな顔をするんだよ」――

 そこまで言つて奥方と吹き出して笑つてゐる。何なんです、と私に尋ねられて、氏の曰く――「『出世払ひ』を勘違ひしてゐるンでね、自分が出世して偉くなることが、借金を返した事になるんだと思つてるんだよぉ、参つたね、これには」――私も釣られて大笑ひしたが、さて、このブログの読者の何割が、笑つてくれたか。何割が密かに辞書を引いたか……。

 読書量。それもあらうが、原因はそれだけではあるまい。たとへば出世払ひの例など、落語を聴くか聴かぬか、それだけで理解が違つてくるはずだ。パソコンや携帯でのメールへの依存。これも原因の一つになり得る。昨日だつたかネット上で、携帯がもはや「電話」ではなくなつたといふ記事を読んだ。多くの人、ことに若者が携帯をメールの手段として使ひ、殆ど電話はしないといふ。かういふ形での会話の減少も原因の一つではあらう。日本語が音を立てて壊れてゆく。

 会話の減少と書いたが、メールへの依存はただ単に言葉の減少を意味するには止まらない。メールに依存するといふ事は、本当の意味での言葉を、つまり文章を操る術を失ふことに繋がる。短い単語の羅列に過ぎぬメール、推敲といふことに縁のない単語の掃き溜めの如きメールを幾ら遣り取りしても、言葉の感覚は磨かれない。人間が人間である根つこに存在するはずの言葉を失ひ始めてゐる。日本人が日本語を失へば、日本人ではなくなる――つまり、何人でもなくなる、つまり、人ではなくなる……。

 当然知つてゐてよい言ひ回しを知らない原因は他にもある、もはや解決不能な原因が。昭和の後半から始まつた核家族化。さらにそれを越えて、現今の非婚等による孤立化(敢て一人暮らしとは呼ばない)がある。言葉は祖父母から孫へと伝へられて初めて過去に繋がると言つてもよい。大正生まれの祖父母と同居でき、その言葉を耳にして育つた人間は明治の言葉を聞いて育つことになる。

 明治十六年生まれの祖母と二十代まで共に暮らした私は江戸時代の曽祖父母の語彙を聞いてゐることは間違ひない。女中奉公をしてゐた祖母はどこやらのお屋敷で、客人として来た伊藤博文と言葉を「交はして」ゐる。祖母曰く「伊藤博文つて、いやらしいんだよ、お座敷であたしの手を握るんだから、やな奴」。かうして私には僅かなりと、明治はもとより江戸といふものが時間空間ともに身近なものとなる。歴史の伝達、過去の伝承、それらは案外この程度の些事から始まるのではあるまいか。

 出世払ひの「小噺」で笑へなかつた方は、江戸とはいはぬ、せめて明治大正、あるいは昭和前期の書物と付き合つて、慣用表現や語彙を増やすことをお奨めする。と、偉さうに書いてゐる私自身、必死でさうしてきたし、今や、恐るべきことに知つてゐたはずの言ひ回しを忘れまいと冷や汗物の毎日である。ブログを書きながらも、どこかにあるに違ひない、自分自身の言葉の誤用や思ひ違ひに戦戦兢兢としてゐるのだが。
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by dokudankoji | 2007-07-20 22:02 | 雑感 | Trackback(1) | Comments(6)
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Tracked from 本からの贈り物 at 2007-07-24 13:26
タイトル : 『夏の庭―The Friends』 湯本 香樹実
夏の庭―The Friends湯本 香樹実 (1994/03)新潮社この商品の詳細を見る この本は児童書であるようだが、他の本ブログで採り上げられていることが多く、また英語にも訳されていたりと、評判が良さそうなので読んでみた。 ... more
Commented by milesta at 2007-07-21 01:23 x
こんばんは。
私はよく「意表を突く」「させていただく」などと書いてしまうのでコメントしにくいのですが、たまたま私も祖父母からよく聞いていた言葉を思い出していたところなので、つい書き込みをしています。「往来」「おもて」「こしらえる」「ご不浄」「はばかり」「腰掛ける」「おしゃま」「きまりが悪い」、父からは「半ちく」「お釈迦にする」「前掛け」等。小学生の頃は、こうした言葉のいくつかを使って日記を書いていたのに、最近はとんと使わなくなりました。「とんと」も普段はあまり使いません。
先日は「弁慶の打ち所」と言ってしまい、「あれれ?何か違う。」と気づいてから正解を思い出すまで数秒かかりました。祖父母と離れている子供達に言葉を伝えるのは私たち親の務めなのに、親がこれではだめですね。
Commented by dokudankoji at 2007-07-22 02:08
milesta様
「弁慶の打ち所」、とてもよく分かる気がします。
「ご不浄」「はばかり」は殆ど死に絶えましたね。情けないことに死に絶えた言葉を、三十年前には使つてゐたのに思ひ出せない、使へない。使つたとしても、分からない人が沢山ゐる。「半ちく」も懐かしい。言葉は順番に死んでいく要素もあるのですが、現代はそのスピードと程度と、共に異常です。せめてさう思つた者が間違はないことと、語彙を減らさないことですね。難しいことですが…。
Commented by 元広告文案家 at 2007-07-23 14:51 x
としては、他人事とは思えません。敢えて会話の中に、失敬な奴め、などと時代錯誤な言い回しを使ったりと、折々の抵抗ごときものはするのですが、居士の言われるごとく、また。居士に言われたら私ごときは恥ずかしき日々と言わざるを得ません。先日、民主党に某鳩山氏の”させていただく”云々のオカシナ日本語の連発は聞き苦しく、説得力にも欠けると書きましたが、案の上、シカトされました。彼らのHPって何の意味があるのでしょう。かの党も偉い人には鈴をつけられないのでしょうか?
Commented by dokudankoji at 2007-07-23 15:27
 元広告文案家様
 シカトつて、今でも使はれてゐるのでせうか? 最近の若者は、すでに新しい、そしてすぐに消え去る造語(語とは呼べないが)を使ひ「無視」といふ言葉は知らずに大学に入る時代が、すぐそこに来てをります。「猫も杓子も」とか「杓子定規」を知らぬどころか、当然「杓子」をも知らぬのです・・・。
 学年が一年上だ下だといふ場合に、平然と「一個」上・下と、これを普通に使ふのが、学生ではなく、既に今大学で教員となり、しかも四十歳くらゐから下の方は全く意に介しません。
 店先で売つてゐる林檎は「三個」三百円、でもそれを買つて家に持ち帰つて、お母さんが、家族皆に皮をむいてお皿に出してくれた林檎は「三つ」、この感覚を失つてはだめですよね。
 やがて、「この教室に学生何個ゐる?」、「休みが五個、出席は30個」などといふ会話が交はされないといふ、保証はどこにもないのです。学年が個なら、階段だつて三個上つてもをかしくないですよね。車もバットも布団も箪笥も靴も一戸建て住宅も猿も鳥も魚も牛も、全部一個二個・・・。
Commented by dokudankoji at 2007-07-23 15:28
 続き。それはさうと、政治家ですが、哲学がなさ過ぎますね。国家国家といふけれど、国民国民といふけれど、人間について考へなくなりました。民主は同床異夢(この言葉も学生の殆どが分からない)、今回たとへ過半数を取つても、それは漸くの政界再編の序章に過ぎない。一度徹底的に壊さなくては駄目でせう、もちろん自民も。
Commented at 2007-07-23 19:03 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


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