2006年 10月 31日

国宝――その1

 十月半ば、僅かの時間を見つけて上野の博物館へ行つた。勿論、目当ては菩薩半跏像。普段、なかなか美術館博物館の類に足を運ばぬ怠け者の私だが、この木像展、最初にその開催を知り、この菩薩像の写真を観た時から何があらうと行くと決めてしまつた。いはば一目惚れ。

 この半跏像、すでにご覧になつた方も多からうが、四囲のどこからでも見られるように周囲に十分の余地を作つて展示してある。おかげで正面、背後、左右とあちこち移動して見ることが出来る。そして、どこから見ても美しい。柔らかい。静謐で穏やかな面持ち、衣の掛かり方、全体の描く曲線、各々の部分が相互に生み出す角度、何を取つても美しいの一語に尽きる。

 自分がこの像の周りを何周したか、数へもしなかつたが、回れば回るだけ、新しいものが目に入つて来る。その間、この像との交流が出来たのかどうか、私には分からない。ただ、そこに生ずる一種の「交流」のみが文化財と付きあふことであり、その交流そのものを私は文化だと考へてゐる(人と人との交流も同じだと考へてゐる)。文化とはさういふものだらう、日常の行動形態そのもの。その延長にこのやうな文化財との交流もあれば、文学や音楽との交流もある。

 菩薩像に戻る。その背後に掛かる衣が背中で十字に交はつてゐるが、左肩から右下に流れる線は胴体から前方へ、右肩から流れる衣は左の腕に掛かり、背中の真ん中でのきりつとした袈裟懸けの交はり方と、バランスを少し崩したその流し方も見事なら、驚くべきことはその後姿から正面の姿が窺ひ知れるところだ。像の背後など大方はただの背中に過ぎず、正面との繋がり、一体感などなかなか窺へるものではない。が、この像はまさに生きてゐる。息をしている。背中を見ただけで、その精神が伝はつてくる。何度背後から正面の神々しい面立ちを眺めたか知れない。肩の線、首の線が表情を見せてくれるとしか言ひやうがない。

 像全体の統一感のためだらう。精神性、親和感、見る人を柔らかく受け止め受け入れる力まぬ強さがある。私は仏像はおろか、美術については全くの素人である。正直に言つて、私にはこの像の何が優れてゐるかを表現する言葉がない、能力がない。十一月五日の展示替までに是非ご覧になることをお勧めするしかない。必見といふ言葉を超えてゐるとだけ申し上げておきたい。

 追記
 ある方から教へて頂いた次のサイトで写真が観られます。
http://event.yomiuri.co.jp/2006/butsuzo/win/05.htm
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by dokudankoji | 2006-10-31 18:54 | 雑感 | Trackback | Comments(2)
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Commented by TKW at 2006-11-03 08:49 x
福田先生、「傳如意輪觀音像」の御紹介ありがたうございます。この畫像を取込み、デスクトップの「中央」に(背景「色」は黒に設定)おきました。なかなか雰圍氣があります。ところが、PCを起動すると、矢印ポインタが觀音樣の臍を指すのです、これはどうしたことでせう(笑)。
Commented by dokudankoji at 2006-11-03 18:11
TKW様 私も現在菩薩半跏像を待受け画面にしてゐます。暫く楽しみます。


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