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福田逸の備忘録――残日録縹渺

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2006年 10月 22日

我は海の子・再説

 先日「我は海の子」を書いてから、気になつてゐることがある。七番までに出てくる漢字の幾つかを正確に読めない若者がかなりゐるのではないか。

 二番の「浴して」はまづ間違ひなく「ゆあみして」と読むだらう。それは、さう歌つて記憶したからさう読めるといふことだらう。

 となると、私のエントリーを読んだ方の中に、学校で歌はされなかつた四番の「百尋千尋」を「ひゃくじんせんじん」と読み、五番の「幾年」を「いくとし」、「赤銅」を「あかどう・せきどう」と読んだ方もあり得るといふことだ(ちなみに、「箱根の山=箱根八里」の「せんじんの谷」は「千仞」と書くのが普通)。

 もしも、小学校で、この唱歌を取り上げ最後まで教へてゐれば、さういふ誤まりはなくなるどころか、言葉の教育にもなるではないか。情操は言葉を通して育まれる。文語体にも親しめる。この歌が気宇壮大で、若者の大志を抱くことの清々しさを感じさせてくれるのは、歌詞が文語体であることに負ふこと大であらう。この唱歌を教へぬことで文科省は若者たちからどれだけのものを奪ひ去つてゐるのか。この喪失は人を人たらしめぬことにすら繋がるものではあるまいか。

 一番の「とまや」も苫屋となつてゐたら、「あ、さういふ字だつたのか」といふことにもならうし、教師が苫屋の意味を教へてやる機会にもなる。四番冒頭の「丈余」も授業で意味を説明してやれば、国語教育にもなる。「ろかい」は「櫓櫂」であることを知れば、歌舞伎に親しむ機会に恵まれた時、きつと役立つ。文語体に親しむ機会が子供の頃から少しでもあれば、歌舞伎や人形浄瑠璃どころか鷗外・漱石にも親しみやすくなる。

 しつこく書いておく。現代のダラケタ文体ではなく、文語体に、しかも美しい詩句に子供の頃から多く接する機会を作つてやるのは大人の義務と思ふ。それが人となりを形作り情操を豊かにし人間性を富ましめる。母語は民族の、個々人の背骨である。二千年の歴史を有するこの国の言葉の山脈(やまなみ)に触れさせることが、日本人を日本人たらしめる。

 唱歌をたかが一曲の歌と侮つてはいけない。音楽の授業を主要科目ではない、受験に役立たないなどと馬鹿にしてはいけない。音楽や数学が情操を富ましめること国語に決して引けを取らない。が、国語教育が情操教育であるといふ認識を国語教師のどれほどが持つてゐることか、大いなる疑念無しとしない。

by dokudankoji | 2006-10-22 18:11 | 言葉、言葉、言葉、


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