福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2006年 10月 15日

『源氏十二段』――岡崎の素浄瑠璃

 牛若丸が奥州への徒次、岡崎に投宿した折り契りを結んだ浄瑠璃姫との悲恋の物語が、その後街道筋で語られたのが、そもそもの浄瑠璃物語の始まりで、それに人形が付いたのが今の人形浄瑠璃だといふ。つまり「浄瑠璃」といふ言葉の由来はこの姫の名から、そして姫の名は経典の文字に由来するさうだ。

 その悲恋物語が『源氏十二段』といふ名で残り、それを近松が五段ものにしたといはれてゐる。真偽のところは更なる研究を俟たねばなるまいが、竹本住大夫と三味線の野澤錦糸が数年がかりでこれを復刻した。これには岡崎市の呉服組合を始めとする多くの人々の努力があつてのことである。

 昨十四日、その素浄瑠璃の復刻上演を岡崎に聴きに行つた。作品そのものは素朴で骨太、良くも悪くも、時代を経るうちの改作による練りに練つた結果の洗練度には欠ける。クドキとかチャリ場もない。

 一昨年復刻された三段目が牛若と浄瑠璃姫の出逢ひと契りまで。今回の四段目が悪党籐太による姫への横恋慕と殺害の場、そして五段目の奥州から戻つた牛若の悲しみと姫の墓前で祈る牛若の前で墓石が割れて姫が姿を現し、薬師如来の化身であると明かして、牛若に平家を滅ぼして太平の世をなせと命じ姿を消して終る。

 しかし驚いたのは、錦糸の作曲も住大夫の語りも見事に古典の作品となつてゐることだ。住大夫の弟子の文字久大夫も、しきりにそのことを言つてゐた。「自分は(四段目の冒頭十分ほどを語るのだが、)どうしてもさらさら滑つてしまふ」と。確かに気の毒ながら、聴いてゐても捉へどころなく薄味なのである。(ただし、文字久大夫の名誉の為に付け加えるが、中堅の大夫でまともに真面目に芸と向き合つてゐる大夫はさうはゐない。いつも爽やかな語りを聞かせてくれる。これは人柄のしからしむる所と、私は睨んでゐる。大成を望む。)

 それが住大夫に代わつた途端、まるで別の作品を聴いてゐるやうな心持になる。上演後の呉服組合のパーティで住大夫師匠にそのことを話すと、自分ではまるで駄目だつたとのたまふ。演じた当人の気持ちはその通りであらう。他の古典と違ひ、一度も客の前で語つた事もなければ、十分な稽古が出来たと安易に満足する人柄でもない。錦糸の作曲が如何に素晴らしくとも、あらゆる意味で、いはば新作物を初めて客の前で人形もなく語るわけだ。

 いかな名人とて不安を感じぬわけがない。語りながら、おそらくは駄目だ駄目だと思ひ続けてゐたのではあるまいか。ご本人は新作物に聴こえてしまはなかつたか、随分気にしてゐたが、新作どころの話しではない。師が常々口にすることだが、「基本に忠実に」、ただそれだけを心掛けて語つてゐたに相違ない。結果は、古典も古典、浄瑠璃作品の新たな復活を見事に成し遂げてゐる。おそらく十年前、二十年前の住大夫ではここまで到達しなかつたのではないか。

 であるからこそ、今、五十代六十代七十代の大夫達に、私は歯がゆさと絶望を感じながらも頑張れと声を掛けたくなる。住大夫師は八十を越えて現在なほも進化形なのだ。どこまでも、一公演ごとに深みを増してゆく。人形遣ひの亡き玉男師匠のこともある、後輩達はこの先達の元気なうちに、その真摯な芸への精進に見習ひ、教へを乞ひ、少しでも上達したいと、どうして思はないのか。

 ともあれ、今は住大夫師の健勝を祈るばかりである。師匠は今月二十八日、国立劇場で「寺子屋」を語る。一時間半になんなんとする大作に、住大夫師匠は私の顔を見るたびに「しんどいでつせ、最後まで勤まるか不安で…」と美しい大阪弁で仰る。この不安を乗越えようとする住大夫に挑む大夫は出てこないのか。

 「寺子屋」は確かに山場だらけの、しかもその山がそれぞれに異なり、芝居の流れの緩急も激しく変化していく大作中の大作である。歌舞伎役者が一人で一つの役をやつても、少なくとも松王丸と源蔵の二役だけでも相当の体力を消耗するはずだ。それを一人でその他の役から地の文まで含めて一時間半近く語り続けるのだから、並大抵のことではない。いかにも不安さうに「しんどいでつせ」といふ住大夫の心中察するに余りあるが、私は二週間後を楽しみに指折り数えてゐる。多くの方に聴いて頂きたいと思ふが、座席は発売当日即日完売だつたといふ。住大夫への期待の大きさが分かるといふものだ。

 蛇足ながら、『源氏十二段』を改作し人形もつけ、三業一体の復活を楽しみにしてゐるが、それには住大夫に後十年は現役でゐてもらはねばなるまい……。
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by dokudankoji | 2006-10-15 10:42 | 雑感


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