2006年 05月 27日

文楽無惨

 国立劇場の文楽公演、第二部(夜の部)に行つた。演目は『義経千本桜』と『生写朝顔話』。目当ては『千本桜』の「すしや」の段、いふまでもなく住大夫が前半を語る。悪い聴衆と言はれるだらうが、そこをしつかり聴きたいが為に、前の二つ――「椎の木」と「小金吾討死」の段は、ぐつすり眠らせて頂いた。

 住大夫が、どれ程優れてゐるか言葉に表すことは殆ど不可能、ただ上手い、それしか言ひやうがない。床が廻つて語りに入る前、どの大夫も必ず床本を捧げ持つ。その姿が大夫の優劣の全てを語る。住大夫は捧げた手を暫く止め、じつと動かない。客席から大夫の顔は見えないのだが、ここで、多くの大夫はただ、形式的に床本を捧げ、心が入らない。

 住大夫は違ふ。すでにそこにすら「型」が存在する。隠れた顔がどんな表情を湛えてゐるか容易に想像がつく。彼は間違ひなく祈つてゐるのだ。「少しでもよい語りが出来ますやうに」「師匠や兄弟子に一歩でも近づけますやうに」、住大夫は浄瑠璃の神に祈つてゐる。その心が床本を捧げ持つ姿に表れてゐる。謙虚な性格まで見て取れる。これが、前回まで取り上げたリアリズムの典型なのだ。型通りのことを形式に従つて行つてゐるにすぎない、にも拘らず、観客に心情・心持が伝はつてくる。

 私は舞台の人形より、語る住大夫を見てゐることの方が多い。聞き惚れるのみ。住大夫は決して上手く語ろうなどとはしない。従つて技巧に走ることは寸毫もない。ひたすら基本に忠実に、それしか考へてゐないと私は確信する。本人自身、自分を上手いとは思つてゐない、そこが住大夫の優れたところと言つてもよい。八十を過ぎてなほ、自分はまだダメだ、さういふ思ひに駆られてひたすら芸の上達に精進してゐる。だから聴ける。「すしや」の娘お里の哀れと誠実が素直に客席に伝はる。

 ところがそれだけ聴かせてくれる大夫が今や他に一人としてゐない。住大夫の後を受けて「すしや」の後半を語つた十九大夫など、語るべき所をことごとく大声を張り上げて歌ひ上げてしまふ。自分一人好い気持ちになつてゐる。しかも自分の「美声」だか「芸」だかに酔つてゐるとしか聞こえない。その上、上ッ滑りに滑つていく。三味線との掛け合ひなどありはせぬ。それぞれ勝手に、ただバタバタばらばら、うるさいだけ。その巻き添へを食つて舞台の人形までバタバタして見えてしまふ。

 よほどのことがない限り、この名作のこの場の幕切れは涙なくしては観られぬものであるはずであり、本来なら、悪党と思はれてゐた主人公いがみの権太が立派な立ち役の英雄に見えてくるはずであり、それゆゑ悲劇が成立する筋立てになつてゐるのだが、十九大夫の語りのお陰で、権太は最後まで田舎物のチンピラにしか見えず、舞台全体も悲しくもなんともない。感動もない。悲劇の幕切れにならず、どういふ芝居を観てゐるのか分からなくなつてしまふ。前半の住大夫の努力は悲しいことに水泡に帰す。十九太夫は即刻廃業したらいい。

 『生写朝顔話』でも有名な「宿屋の段」を語る嶋太夫が情けない。客に語り聴かせるといふ姿勢が全くないのだ。あるのは熱演のみ。熱演なら素人でもできる。それにしても、あの語り癖、つまり一字一字を切つて発音するやうな発声は願ひ下げだ。あれで、自分では力が入つた熱演のつもりなのだらう。

 これらの大夫と住大夫の違ひは実に単純といはうか、はつきりしてゐる。一つは、自分の未熟を知り少しでも上達しようとしてゐるか、悦に入つて自分の語りに酔つてゐるかの違ひ。もう一つ、腹から声が出てゐるか、胸から上だけで発声してゐるかの違ひである。

 十九大夫も嶋大夫も何故、住大夫に教へを請はぬのか。八十を越えた越路大夫に七十を越えて稽古をつけてもらつた住大夫が、今でも自分は先達に及ばぬ、まだ稽古が足りぬ、上達が足りぬと思つてゐる、さういふ素晴らしい先輩が眼の前に存在してゐるのに惜しい、勿体無い、さうは思はぬなら愚かと呼ぶよりほかはない。客も悪い。そんな嶋大夫に「嶋大夫!」「待つてました!」とバカな声を掛ける。こんな客に、浄瑠璃が分かつてゐるはずがない。

 この「宿屋の段」、詳しい筋は省くが、人形の見所はなんと言つても蓑助の遣ふ朝顔であらう。盲目となつた朝顔が長い間会へなかつた夫に、一旦はそれとは気づかず出会ひながら、再び離れ離れになる悲劇が描かれる。次の「大井川の段」は夫を追ふ朝顔が大井川の増水のため、遂に夫に会へぬところで終る。その朝顔の悲しみと半狂乱を蓑助は丁寧に遣つて見せてくれる。前半など、自分の遣ふ人形を蓑助がいとをしく思ふ、その思ひが人形の姿・動きを通してひしひしと伝はつてくる。

 それなのに嶋太夫の語りが邪魔をする。大井川の場を語つた呂勢大夫もひどい。若いから仕方がないとも言へるが、蓑助の折角の人形の動きが半狂乱ゆゑとはいへ乱暴にすら見えてしまひかねない粗雑なうるささ、絶叫。興ざめもよいところだつた。さういへば、一箇所、音が調子外れに外れて、客席に僅かにざわめきが起こりさへした。これは最初の場の南都大夫の第一声も同じ、客席がひやつとするほどの音の外れ方だつた。今まで、さう多くの舞台を聴いてゐるわけでもないが、これ程の素人芸を立て続けに見せられた記憶はない。

 義太夫(語り)の存在なくして文楽は成り立たぬ。語りが酷ければ人形も美しくは見えなくなる。人形遣ひが大夫に向つて、「俺について来い」、「俺の舞台を観て上手くなれ」、とは言へないだらう。立場が逆だ。引つ張るのは義太夫語りの責任ではないか。

 住大夫が元気に語れるのはあと何年か。その後の文楽の舞台を思ひ描くことは私には出来ない。五年、十年後のガラ空きの客席と無惨な舞台が目に浮かぶ。事実、今月も住大夫の出が終はり、『千本桜』の幕間に多くの客が帰り、やたらに空席が目立つた。人形遣ひには、蓑助を筆頭に文雀、文吾、勘十郎、玉女、和生と、重鎮にも中堅にも素晴らしい遣いひ手が大勢ゐる。だのに人形浄瑠璃といふ「語り」が全体を引つ張つてゆく芸術で大夫に優れた後継者がいまだ一人も見当たらぬこと、何と寒々とした光景だらうか。

 ついでに――玉女といへば勘十郎と共に中堅若手の中心、人形遣ひの次代を担ふ立場だらう。その玉女に一つ注文がある。茶髪は止めたがいい。あなたは、自分の遣ふ人形の髪を茶色に染めることが出来るか。観客は人形遣ひと人形を一体化して観てゐることを忘れるな。

 しかも主役の主遣ひを任せられた紋付袴姿の出遣ひなのだ。さらにいへば偉大なる玉男師匠の後継者たる玉女ともあらう人形遣ひが、やや抑へぎみとはいへ、黒子姿の左遣ひ足遣ひに囲まれて、黒紋付姿で茶色の髪はなからう。大井川の夜の場はブルーの照明のお陰でまだ目立たぬが、宿屋の場では室内のアンバー系の入つた照明のせゐもあるのだらう、おそらく実際以上に茶色が強く見えてしまつたのではあらうが、私の目には異様に映じた。生真面目な玉女の人形が好きなだけに、どういふ理由があるか知らぬが、染めるなら黒髪にして欲しい
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by dokudankoji | 2006-05-27 02:11 | 雑感 | Trackback(1) | Comments(4)
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Tracked from Let's Blow! .. at 2006-06-16 08:12
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Commented by Kihara at 2006-05-27 15:39 x
興味をもって読ませていただきました。

わたしは素人だから先生のように住大夫の良さというものが未だよく分かりません(住大夫は上手いけれども、美声じゃないですよね)が、


「「語り」が全体を引つ張つてゆく芸術で大夫に優れた後継者がいまだ一人も見当たらぬこと、何と寒々とした光景だらうか。」について。

語りは大事ですね。伝統芸能の教育にかぎらず、一般の国語教育においても、もっと「語り」を重視したらいいのに、と思いますよ。


でも、わたしはやはり人形と人形遣いを観るのが好きです(笑)。
「義経千本桜」なら「道行初音旅」の静御前を観に行っているようなものです(私が過去に観たときは桐竹勘十郎さんでした)。
三味線も好きです。
私はその人形や三味線をつくる職人さんが未来の日本にいるだろうかと心配になります。
Commented by Kihara at 2006-05-27 15:40 x
「五年、十年後のガラ空きの客席と無惨な舞台が目に浮かぶ。」について。

大阪は土日でも空きが多いですよ。平日は観たことがありませんが、がら空きじゃないでしょうか。ちょっと想像したくないですね。客席ががら空きだと、演ずる方もやり甲斐がないでしょう。



「玉女といへば勘十郎と共に中堅若手の中心、人形遣ひの次代を担ふ立場だらう」
「観客は人形遣ひと人形を一体化して観てゐることを忘れるな。」について。

そうですね。玉男、蓑助の名コンビの時代が段々と過去のものになりつつあるのを感じます。これからは玉女、勘十郎の時代になるのかな?ならば是非、精進して玉男、蓑助に負けぬ名声を獲得していただきたいと願う者です。その玉女さんが茶髪でしたか。玉女さんは(玉女さんに限らず)黒髪が似合うと私も思いますよ。

でも人形遣いを観るなら、私は和生さん(文雀の弟子)の飄々とした顔が好きですね(笑)。
Commented by dokudankoji at 2006-05-27 23:48
Kiharaさん  勿論、私も人形と遣ひ手が一体となり魂を感じられる時は嬉しくなります。その時の美しさはジンと来ます。遣ひ手の心ですね。玉女に苦言を呈したのは彼の黒髪、きりっとした表情、さういふ彼の遣ふ人形が好きだからです。期待する若手の一人です。
実は、文雀の、あのなんとも言へぬとぼけた味はひと、忠信を遣ふ時などの文吾の几帳面さとでも言つた感じも大好きです。文楽は三位一体であることは、上の記事の大前提のつもりです。
伝統芸能や日本文化は職人から崩壊して行くかもしれません。ご心配の通りの危惧を感じます。
大阪のがら空き、信じられませんね。文楽発祥の地でせうに。平日に観ることもありますが、半分から六割の入りといふ感じの時もありました。当日売りがないことなどないでせう(苦笑)。
住大夫は、自分の悪声をいやといふ思ひ知つてゐるからこそ、それを克服するための精進を重ねてゐるのです。これは住大夫師匠ご自身から伺ひました。天才ではなく努力で山城少掾の域に到達したのだと思ひます。ここを訪れて下さる読者が住大夫の健在なうちに是非聴いておいて欲しい。優れたものに接する、それしか人間の感性を磨くものはありませんから。
Commented by Kihara at 2006-05-28 11:16 x
福田先生、ありがとうございます。

「大阪のがら空き、信じられませんね。文楽発祥の地でせうに。平日に観ることもありますが、半分から六割の入りといふ感じの時もありました。」について

平日に半分から六割の入りなら、入ってるほうですね。安心しました(笑)。空きが多いか少ないかの判断はもちろん主観によります。ただ大阪より東京のほうが盛況だという噂をどこかで読むか聞いたかしました。



「住大夫は、自分の悪声をいやといふ思ひ知つてゐるからこそ、それを克服するための精進を重ねてゐるのです。」について

住大夫さんの謙虚さ、努力の足跡、そして(お客様に対する)責任感。これは強く感じられますね。住大夫さんの話は、一般人が聞いても有益ですよ。話にはユーモアもあって、面白いです。NHKには住大夫さんのインタビュー付きの上演番組をもっと作ってほしいですよ。



「優れたものに接する、それしか人間の感性を磨くものはありませんから。」について

御意。これに関して付け加えさせていただくと、蓑助さんのつかう「娘」の人形の可愛らしさ。顔も仕草も、どんなに可愛い女優より可愛いので、是非観ておくべきですね(笑)。


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