2006年 05月 20日

演ずるといふこと、そして日本の宿命 ( III )


 私は現在の日本の演劇界や舞台をただ批判したいのではない。日本人の民族性と言語芸術における可能性と宿命の関連を考へてゐるのだ。現状を確認し直視したいだけだ。前に書いたやうに新劇は西洋のリアリズムを移入し、それに学ばうとした。しかも、今なおリアリズムの片鱗すら身に付けてはゐない。伝統芸能とは異なる新たな舞台芸術へと漕ぎ出した明治以来の歴史を意識すらせず置き去りにし、リアリズムだのなんだのと七面倒なことは忘れ去り、テレビの視聴率よろしく受ければよし、人気さへあればよしとしてゐるのではないか。

 といつて、今さら日本回帰など出来るはずもない。そもそもが近代西洋の芝居を範としてしまつたのだから。回帰しようとすれば、そこには伝統芸能が待ち構へてゐる。したがつて、いはゆる規範など意識もせぬ小劇場系の演劇集団が二十世紀の後半から雨後の筍の如く生まれ出たのも当然であり、アンチテーゼとしての存在でしかあり得ぬ彼らの行き着いた先が、ただ大仰であるだけであつたり、叫ぶ喚く飛び跳ねるだけの自己満足であつたのもむべなるかなである。結局は日本語を武器にして西洋流の言語芸術を我が物にすることに失敗し、一方では伝統芸能から離れた新たな舞台芸術を生み出すことも叶はず、その混沌と悲鳴とが現代演劇の現状なのではないか。

 このことに気づかなければ、新劇であれ何であれそこに未来はあるまい。この日本の言語芸術としての演劇がぶつかつてゐる問題を避けてゐる限り、見てみぬ振りをしてゐる限り何の可能性もなからう。歌舞伎(役者)とのコラボレーション? 舞台芸術に壁は無い? 冗談ではない。現代劇の役者には歌舞伎は演じられぬ。他方歌舞伎役者はその壁をやすやすと乗越えてゐる、その現状をどう考へるのか。この問題から目をそらしてはなるまい。これが日本の現実であり、この現実から始めぬ限り我々の現代演劇に明日はない。

 西洋と日本の融合に成功するでもなく、対立と均衡の綱渡りをするでもない。演劇に限らぬことかも知れぬが、明治以来、我が国がおかれたこの宿命を克服するでもなし、いつの間にか「西洋的」なるものに呑み込まれ、歳月のみが過ぎて行く。日本文化を背骨にして西洋文化に対峙することを忘れ、物質文明の海を漂ひ流されてゆく、クラゲのやうに。

 この現実を演劇人とて片時も忘れない方がいい。伝統芸能の世界に身をおくのでもない限り、この綱渡りを必ずや余儀なくされることを忘れないことだ。(いや、伝統芸能の世界でも形は違へ、同じことが言へるはずだ。)極端な物言ひをするなら、西洋流のリアリズムと日本の様式美=型との、あり得ないかも知れぬ接点を見つけるほかは無い。規範=型を蔑ろにしたところにリアリズムは成立しない、そのことにすら思ひ及ばぬなら無惨といふ外あるまい。

 明治以降、日本人はさういふ所に立たされた。それが宿命なら、それを見据えぬ限り演劇人が如何に足掻かうとも、リアリズムは根付くことなく、一人の役者が別の舞台で別の役に成り変はり、演じ分けることなど不可能だ。いつまで経つても西洋流のリアリズムがこの国の舞台に根付くことなど、ありはしない。

 あへて言ふ、根付かないことを宿命として受け留め、しかも諦めることなく、根付かせようと意志し続けるほかに道はない。矛盾といふ名のタイトロープの上を歩き続けるしかない。そのことを見失ひ、平坦な道を歩み続けられると信じ込んでゐるとしたら、日本の演劇人は、日本人は、いつになつても虚ろな目をした擬ひ物の浮遊物に過ぎない。 (了)
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by dokudankoji | 2006-05-20 02:08 | 雑感 | Trackback | Comments(4)
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Commented by th224jp at 2006-05-20 08:10
 我々の宿命は我々の国語である。いはば、我々は「国語」といふ神に創られた創造物であつて、我々が国語の創造主ではない。創造物である我々は、創造主である国語を称へる義務がある。むしろ、その義務の中に居るあひだだけ、我々の物質的生命は小林秀雄のいふ意味での「精神」を発揮できる、と言へる。
 問題は、西洋の神は、異なる国語、文化の優劣を比較する神であり(いふなれば、戦争をもちかけてくる嫉妬深い神であり)、日本文化が生き残るためには、我々の「姿の美」が、西洋の「絶対神」といふある種の精神的トラウマを癒す事ができるか否かの一事にかかつてゐる。かつてない戦争に負けた今日、この人類史的仕事は大変に難しい。(続)
 
Commented by th224jp at 2006-05-20 08:12
 日本文化は間違ひなく三島由紀夫のいふ「(物質的)生命以上の価値」に基づゐた文化である。姿が美しいのはそこに「小さな死」を我々が認めるからだ。「美しい花」はあつても、「花の美しさ」などは在り得ないのである。なぜなら観念としての美は死する肉体を持ち合はせてゐないから。今日の我々は己の「日本人としての肉体」といふ問題と真向ひで対峙してゐる。これから西欧精神が呼ぶ「黄色い肉体」のなかで奴隷として生き続けるのか。それとも、能舞台の上で、生命以上の価値としての型を演じ切つて見せ、日本人の原点である「美しい死」を再び手にして見せるのか。
 福田先生の健筆を陰ながらお祈りしてをります。
Commented by 世留 at 2006-05-22 21:49 x
>タイトロープの上を歩き続けるしかない。

そこを時速200キロ、ファラーリやポルシェじゃなく、スカGでブッ飛ばして下さい。事故っても相手の方が悪いのです。
Commented at 2006-06-14 10:34
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


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