福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2006年 05月 17日

演ずるといふこと、そして日本の宿命 ( I I )

 私は単に日本の役者を腐し批判しようとしてゐるのではない。明治以来百数十年、西欧の演劇を移入し学び、少なくとも近代リアリズムを取り入れようとした(取り入れたつもりの?)新劇界、あるいは、その結果大仰で臭くわざとらしい演技へと堕した新劇に対するアンチテーゼとして生まれた様々な小劇場及びそれ以降の演劇集団――どの立場にしても、この数十年に亘つて、それぞれにリアルな舞台を求めたつもりであらうに、これらの演劇人たちの演技の殆ど全てが、何ゆゑ、かくもぶざまに「地のまま」の「持ち味」の世界に陥り充足してゐられるのか、たかだか型に嵌つた「癖」に過ぎないものを「個性」と勘違いした揚げ句、他者を演ずること=他者になることを突き詰めようとしないでゐられるのか。技術としての芸(=art)を本気で磨かうといふ意志を、残念ながら私は日本の現代演劇の世界で目にしたことなど殆ど無い。

 何ゆゑ? 私はこの答が、実は日本人といふ民族性そのものにあるやうな気がしてならない。私自身、芝居の世界で創る側としても観る側としても、最初に紹介したアラン・ハワードの舞台を観て以来、長い年月このことを考へ続けてゐるが、この十年程、いよいよその思ひが強くなつて来る。つまり、一民族が長い歴史を通して育んできた芸術(伝統芸能)とはなはだしく異なる舞台芸術(言語芸術)を生み出すなどといふことは本当に可能なのか。能・狂言・人形浄瑠璃・歌舞伎等を生み出してきた我が国が、全く別種の演技術(科白術)を必要とする西洋のリアリズムを真に自家薬籠中のものとすることなどあり得るのだらうか。(あつて欲しいと思へばこそ、私は今これを書いてゐるのだが。)

 日本の伝統芸能の方が優れてゐるなどと言はうとしてゐるのではない。そんな比較など出来るものでもなく、そんな比較など何の意味もない。西洋であれ東洋であれ、国と国との文化の優劣の比較などナンセンスも良いところだ。我々はこの国にこの国の民として生まれ、母国語を駆使するしかなく――といふことは、我々創り上げ、我々創り上げた日本語に依存し、日本語を駆使するしかなく、この日本語といふ言語の特性から免れ得る日本人は一人たりとも存在し得ぬはずだ。

 気軽にリアリズム演劇などと口にせぬことだ。絶対に七五調から脱し得ない日本語による言語芸術としての演劇を考へただけでも、この問題の深刻さを避けられぬことは容易に分からうといふものだ。では、我々はリアリズムを追及できないのか。

 西洋流のリアリズムに基づいたつもりの殆どの役者が、時の経過と共に様式化の道へと限りなく踏み迷つて行く――マナリズムへと堕し、「個性」たつぷりの「地のまま」の「持ち味」、つまりは「癖」の次元へと踏み迷ふ――この事実をどう考へたらよいのか。この「持ち味」をよしとする様式化とは、とどのつまり伝統芸能への限りなき接近を意味するのか。だとすれば、現代演劇がいかに足掻かうとも、伝統芸能には敵はぬといふことになりかねない。

 事実、歌舞伎の舞台を観てゐると、時に甚だリアルな演技を見せられてハッとすることがある。この私の言葉に矛盾を感じる方もゐよう、が、これは矛盾ではない。つまり、演目が何であれ、どんな場面であれ役であれ、身体の「動き」と言葉によつて表出される「心情」(心理)が見事に一致してゐる瞬間がある。これをリアリズムではないと誰に言へよう。しかも、さういふ瞬間こそ様式美が高度に結晶した瞬間と言へるのだ。

 さうであれば、様式美を極めた伝統芸能から生まれた役者――それこそ、個人の個性的な芸や型といふ「持ち味」の世界で勝負してゐる役者の方が、いはゆる現代演劇の役者よりも、却つて役になりきることに成功してゐるといふことになりはしないか。歌舞伎役者の中にかういふ役者が何人かゐる。様式美とリアリズムは対立した概念ではない。対立してゐるのはそれぞれに付随した観念のみであり、そんな観念は我々の頭の中にのみ存在するばかりだ。頭の中の空虚な観念の内ではなく、現実の舞台の上では、外面の型が最も光彩を放つ時、そこに造形された人物は内面の心情に最も裏打ちされたリアルな存在となつてゐる。

 今、今月の歌舞伎座で観た三津五郎の吃又(『傾城反魂香』の主人公)のことを思ひ浮かべてゐる。歌舞伎の型に則つた演技の手本と言つてもよい舞台、しかも科白回しからも身のこなしからも主人公の悲哀と、幕切れの歓喜とが溢れんばかりに表現される。その悲しみにこちらは思はず目頭も胸も熱くなる。尤も三津五郎とは一番多く仕事をしてきた私には贔屓目があるかもしれない。それなら、今年正月の大阪松竹座で勘平(切腹の場)を演じた仁左衛門、この演技もまさに真に迫る(=リアルな)ものであり、かつ様式美の極みだつた。もちろん、歌舞伎にしてもこの様な舞台にはさうさうお目に掛かれるものではない。むしろ多くの場合が悪しき「型」に寄りかかつたマナリズムに堕してゐると言つてよい。

 様式美(=型)に依拠する伝統芸能においてこそ、実はその様式美の半歩先に、癖、即ちマナリズムの陥穽が待ち受けてゐる。にも拘らず、そのマナリズムに堕す危険を察知すればこそ、ぎりぎりのところで様式美とリアリズムの融合の極地を見せてくれる舞台や役者を、我々は眼にする幸運に恵まれることも時にはあるのだ。

 現代演劇にせよ歌舞伎にせよ名舞台、名演技にはさう滅多にお目に掛かれるものではないが、そんな中で、間違ひなく毎回こちらを満足させてくれる「演技」があるとすれば、唯一、文楽の竹本住大夫のそれのみではあるまいか。この「演者」の語りに期待を裏切られたことは一度もない。

 人形浄瑠璃は、いふまでもなく人形と語りと三味線が揃つて初めて成立する。ただ、素浄瑠璃はあつても「素人形」などあり得ないことも考へてみたらよい。人形が生きるも死ぬも語り一つ。それだのに、住大夫自身の言葉を借りれば、昔、文楽は聴きに行くと言つたものだが、今では観に行くと言ふやうになつてしまつた……。ここには大夫としての自負があると同時に、自分の言葉に負けまいとする住大夫の意識の高さがある。彼の語りは、地の文と登場人物の科白を語り分けることは言ふまでもなく、登場人物が何人にならうが、その心情を的確に語り分け、役を演じ分けて余りある。

 これは住大夫がリアリズムを身に付けてゐるといふことの証だ。義太夫といふ様式・型から一歩もはみ出すことなく、リアリズムを全うしてゐるといふことだ。住大夫は一人一人の役を見事に演じ分けてゐる。つまり瞬時にして別の人物に成り変はれるといふことであり、舞台役者が別の舞台で別の役をリアルに演じる、それを一つの語りの中でしおほすだけの技術を住大夫は身に付けてゐるといふことだ。
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by dokudankoji | 2006-05-17 02:26 | 雑感


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