2006年 05月 16日

演ずるといふこと、そして日本の宿命 ( I )

以下は平成十三年にシェイクスピア協会の機関紙に『私を育ててくれた舞台』と題して書いた短いエッセイである。

 ≪随分昔の話になるが、初めて渡英した1968年、ストラットフォードで三夜続けて観た三つの舞台が忘れられない。順序は忘れたが、『リア王』『お気に召すまま』『トロイラスとクレシダ』である。舞台そのものの出来といふより、ある若い役者の上手さに目を見張らされた。エドガー、ジェイクィズ、アキリーズをそれぞれ演じてゐるのだが、父を思ふエドガーの慈しみと悲しみ、諧謔に富むジェイクイズ、倣岸なアキリーズ、しかもそれらがどうしても別人が演じてゐるとしか見えない。体型、発声、仕草、物腰――どれ一つ取つても一人の役者が演じ分けてゐるとは思へなかつた。毎晩うまい役者がゐるなと思つてパンフレットを確かめると、そこにはキャリアなど殆どない無名の一役者の名が載つてゐるといふわけである。
 この三つの舞台で、私は役者の演技の何たるか、演技者が行ふべき作業の何たるか、そして舞台創りとは何であるかさへ直感的に把握できたと確信してゐる。その後四半世紀、自分が翻訳や演出といふ形で実際の舞台創りに関はつて来られたのも、この経験あつてこそと信じてゐる。
 その若い役者はその年の最優秀新人賞を取つたが、他でもない、後に我が国にも巡業に来たピーター・ブルック演出の『夏の世の夢』でオーベロンを演じたアラン・ハワードである。その後の彼の演技が酷いマナリズムに陥つたことも事実だが、あの三つの役を演じ分けた技量とその美しいブランク・ヴァースは、未だに鮮烈な記憶として私の中に生きてゐる。≫

 以上旧稿。以下追加。

 この時は紙数の制限もあつてここまでで終つたが、実はこの旧稿では本当に言ひたかつたことには少しも触れてゐない。問題は役者の役創りに関はることだと御推察頂けるだらう。一人の役者が別の役を演じたとき、まるで別人にしか見えないといふこと――これは比喩ではない――アラン・ハワードは役ごとに全く違ふ歩き方をし、衣装の援けもあらうが、身長から脚の長さまで異なるかのやうに見せた。身体の動かし方、顔付き(顔の締まり方)、身のこなし、声音に到るまで、何もかも別の人間を造形してゐた。

 これは名優たるための必須条件だらう。多くの人が知つてゐると思はれる映画から例を挙げるなら、アンソニー・ホプキンスがその筆頭に来ようか。『羊たちの沈黙』と『日の名残り』と『マスク・オブ・ゾロ』と、それぞれの役の造形を思ひ起こして頂きたい。彼はすつかり映画俳優に転向したやうだが、私の観た限りの映画の中では、かつて英国の舞台で異彩を放つた名優振りをホプキンスは遺憾なく発揮してゐる。

 翻つて我々は日本の舞台でさういふ役者を目にしたことがあるか。Aといふ役者は常にAにしかみえない。いや、映画にせよ舞台にせよ、AならAの持ち味を活かして配役し、造る側も観る側もその「持ち味」を芸と思ひこんで得心してゐはしないか。芸(技術)とはそんな安直なものではあるまい。役者が役を演ずるといふことが役者の「持ち味」を活かして「地のまま」の自分をさらけ出しただけのものであつてよいのか。そんなものを「演技」と呼べるか、「技術」と呼べるか。

 例に挙げて悪いが仲代達也はいつも仲代達也でしかなく、何の役を演じようが、舞台だらうが映像だらうが、表情も発声も科白回しも変はりはしない。いつも同じ無表情と単調な科白回し。(その目はまるで死んだ魚の目の如く、常に虚ろである。少なくとも私にはさうとしか見えない。)変はるのは衣装とメイクだけ……。それを批評家も観客も役者の「個性」「持ち味」と考へ、納得し満足するらしい。時に感銘まで受けてしまふのだから始末に負へない。私は何もここで仲代個人を批判するつもりではない。日本の現代演劇において殆どの役者が、同じ弊害に陥つてをり、違ふ戯曲の異なる役を演じてゐるつもりで、実は役者自身の生地丸出しでしかないことに平然としてゐられるのは何故か、私は常々疑問を感じてゐるのだ。

 舞台出身の役者たちがそんな状態だから、何ら演技訓練をしたこともないポッと出の美形(?)タレントや歌手たちが、ある日突然「持ち味」だけでテレビの売れつ子になつたとて何の不思議もありはせぬ。そして、その「地のまま」の「演技」を「自然だ」「リアルだ」と納得してゐる制作側と視聴者。「俳優」たちののつぺりとした無表情、ぼそぼそと平板な科白廻し。さういへば、日常生活で我々の話す言葉も若者を中心に平板化の一途を辿つてゐる。おそらく、一時凄まじい勢ひで日本中を席巻した「語尾上げ」口調もその結果だらう。頭からはつきり強く発話し、最後まで言ひ切る(語り切る)威勢といふものがなくなつて来てゐるのだらう。近頃の唇を閉ぢることのないダレた喋り方、それが日常からテレビへ、そして近い将来、舞台にまで蔓延することを私は恐れる。
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by dokudankoji | 2006-05-16 03:35 | 雑感 | Trackback | Comments(4)
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Commented by てっく at 2006-05-16 08:43 x
うーん、ペルソナについてコメントするつもりが、最後の段落の言葉に引っかかってしまいました。
かつて新人類と呼ばれた世代もすでに不惑を過ぎ・・・
語尾上げは、その世代をも侵食していたことを昨年に認識しました。
卯月のころでありましたか、たぶん最初で最後であろうある集まりをたまたま見につれられたとき。
わが周りではついぞ耳にしない語尾を上げた口調が当代の学者の口から発せられたのが妙に印象に残りました。
Commented at 2006-05-16 08:50 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by dokudankoji at 2006-05-16 14:00
管理者だけに見えるコメント欄に、ある方が、40を過ぎて語尾上げをする御仁に驚いたと書き込んでくださつたが、いやいや、某劇団の50を越えた演出家がしつかり未だにやつてゐますから・・・・・・しかも10年近く前、語尾上げ「一世風靡」の只中で役者に注意されてゐたのに。
語尾上げは、この記事のテーマからいへば刺身のツマです。いづれ、言葉の問題として取り上げたいとは思ひつてゐます。

ところでてっくさんの書いてくれた当代の学者つて誰なんでせうね。東大の学者先生?
Commented by patra at 2006-05-17 03:27 x
ごぶさたしておりました。すばらしいエッセイをトラックバックしてくださってありがとうございます。
甘い視聴者として耳が痛い部分、有りですが(笑)
役者仲代さんへの感じかたが先生と同じなので「やった!」と手を叩きました。
語尾が上がる喋り方もゾっとしますが江戸っ子としては父がのこの
ガギグゲゴ・・・とがぎぐげご・・・の区別を非常に喧しかったのを思い出します。「最近はNHKのアナウンサーでも遣い分けられないな。世の末だね」と。

鼻音とでも言うのでしょうか?


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