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2012年 12月 10日

「絶対」と「孤独」――幕の降りたあとに 

 まづは現代演劇協会主催公演『明暗』にお出で下さつた方々に御礼申し上げる。とはいへ、このブログを訪れる方でお出で頂けたのはごく限られた方だらうと思ひ、公演のパンフレットに書いた「演出ノート」をここに載せておく。会場にお出での方を前提にしてはゐるが、そのまま掲載。(なほ、これを書いたのは十一月の六日の夜と記憶する。)以下、転載。

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 この「明暗」といふ戯曲を私は今までに何度読んだことだらう。上演の可能性を探るため、あるいは文藝春秋社から刊行された福田恆存戯曲全集編纂に携はつた時、この三十年ほどの間に折に触れて読んだが、今回の上演に関る以前に、既におそらく十回を超えてゐるのではないか。

 そして、「詩劇」と銘打たれたこの作品に紡がれてゐる言葉の美しさ、逞しさ、繊細なそして時に凝りに凝つた言ひ回しに、いつも心惹かれ、酔はされた。俳優に挑戦してくる、まるで日本語を破壊しかねないフレージングと、いつか格闘してみたいと漠然とだが思つてゐた。従つてこの生誕百年記念に何を取り上げるか考へた時、私は躊躇ふことなくこの作品を選んだ。選んで、夏前に稽古の準備に入り本格的に読み直し、正直慌てた。自分の頭の中にほぼ組み立てられてゐると思ひこんでゐた構図の陰に何かが見え隠れする。そのちらつきが気になりだして、私は戸惑ひ混乱した。考へてゐた以上に曖昧な科白も多い。そこからの私の格闘はさておいて――

 この戯曲を観客の前に提示する時、作り手の私たちがまづもつて留意すべきことは、この戯曲のサスペンス劇としての側面を絶対に失つてはならないといふことだらう。起承転結を踏まへた四幕の構成の鮮やかさも印象付けられねばならないし、スリリングな筋の運びに、いささかの遅滞があつても舞台は失敗する。潔癖と言つてよいほど完璧な科白術と演技、リズムとテンポ、それらが劇的サスペンスを支へて運ぶ。それを生の役者の肉体を通して具体化しなくてはならない――

 今もし幕の開く前にこれをお読みなら、ここまででこの雑文を読むのをお止めになつて、取敢へずはサスペンス劇とその物語の展開に身を委ね、存分に楽しんでて頂くのも一法かもしれない。後は幕の閉じた後、帰宅の途次あるいは帰宅なさつてから、読んで頂いた方が良いかもしれない。

 さう、戯曲の主題だとか作者の意図などは、実は「観劇」といふ行為とは無縁だ、恐らく福田恆存自身がさう考へてゐるに違ひない。私もまた、芝居を観るのにテーマだ主題だと、野暮なことは言ひなさんなと思つてゐるし、さういふ近代以降の「トリヴィアリズム」も「教養主義」も好きにはなれない。が、この作品を本気で読み込みだすと、サスペンス的な構成だけでは、舞台を造り上げる芯が足りず、そこに福田恆存がおそらく生涯抱へてゐた最大のテーマを読み取らざるを得なくなつたといふのが、この夏以来の私の戸惑ひなのだ。お前、気が付くのが遅いと言はれるかもしれぬが、十六年前の劇団昴による再演の舞台にも、その主題の問題はちらとも感じ取れなかつた。文学座の初演がどうであつたのかは知る由もない。が、実は、私はそれすらも疑つてゐる。

 さて、では作者がこの戯曲を書く時、何を考へてゐたのか、主題に据えたものは何か。キーワードは「道徳」。さらに言へば、「日本人の道徳観を支へ、その道徳を要請=強要してくるものは何か」といふテーマを恆存は考へてゐるのだ。昭和二十八年からの一年に亙る米英滞在と、殊に英国でのシェイクスピア劇体験が恆存に与へた影響はここではおそらく計り知れないものとならう。シェイクスピア劇に立ち現れる無数の背徳、それを描いたカトリック的なシェイクスピア――恆存は考へる、西欧の世界、キリスト教の世界には、人々に道徳を要請=強要する背後に、つまり、物事の是非善悪を規定する背後に神が存在する、と。では、日本人に背徳と道徳の別を要請するのは世間態なのか法律なのか、日本人にとつて西欧の神に代はるものは存在するのか、と(玉川大学出版部刊『福田恆存対談・座談集』第七巻収録の「現代人の可能性」参照)。

 確かに、日本民族は西洋的な意味での信仰も宗教も持たない。さうだとすると、我々の道徳心はどこから来るのか、世間態や法律などは持ち出す意味すらなからう。「明暗」の主題とは関連のないところでだが、恆存は「いつそのこと日本はキリスト教(信仰)も持ち込んでしまへばよかつた」とも言ひ、また晩年「最近は汎神論のことを考えたい」と言つてゐたともいふ。疑ひもなく恆存は自己存在の根底に据ゑるべき宗教を探し求めてゐたと言つてよからう。

 これらのことを頭において「明暗」を読み返すと、「罰の下らぬ世界」とか「なにもいはなかつた女のうへに下された罰」といつた科白が気になり始める。過去が現在を規定する世界の、その過去の出来事が現在を破滅させるといふ構図が、背徳に対して下される罰を浮かび上がらせる。不義密通を犯した人々がすべて劇中で死ぬ。いや、犯した人々のうち、それを罪と感じた人々には死が待ち受けてゐる。そして、幕切れでは、その背徳を黙つて見てゐるばかりで何も言へず行動もできなかつた杉子と祥枝は現在に立ち竦み、過去の沈黙へと遡及する。一方、背徳の世界に反逆した洋子にも未来が開けてゐるわけではない、あるとすれば、現在の自分の孤独のみであらう。

 神を求めるものは自己を神の前に晒さざるを得ぬ、従つて孤独に直面する。耐へる耐へられぬという言葉の埒外にある孤独のみが孤独と呼ぶに値するのだらうが、この孤独こそがおそらく「明暗」の作者が生涯抱へてゐたものに違ひない。幕切れの洋子に作者の姿を思ひ浮かべるのは演出家の読み込み過ぎだらうか。

 日本人の道徳の背後にあるのは何か、作者が抱いたこの疑問は平成の時代を生きる私たちが抱へてゐる命題でもあるのではないか。そこに、絶対を見てしまつた時、我々は恆存と同じ孤独を見据ゑずにはゐられないのではないのか。
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by dokudankoji | 2012-12-10 22:49 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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