福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2012年 07月 18日

恆存対談集・第六巻

 既に店頭に並んでゐるはずだが、第六巻が出た。私の方は、予定を早めて9月に出ることになつた最終巻校了! これで、秋の「明暗」の演出を済ませれば、まぁ、父親の面倒を見るのも十分、いや十分過ぎるだらう。

 その第六巻から、何箇所か気になるところを挙げておく。第一は芥川比呂志との対談で、当時上演した「罪と罰」を話題にしてゐる。芥川がポルフィーリーを演じた。ここでドストエフスキーや「罪と罰」の意図や主題について云々しようといふのではない。恆存の脚色について語るつもりもない。で、早速抜粋――その一。

芥川 ポルフィーリーは原作でも脚色でもそうですけれども、三十五六くらいの男でしょう。ところが、読んでみると、かなり……。
福田 ふけて感ずる。
芥川 ええ、成熟した人間を感じるでしょう。
福田 それはシェイクスピア劇をやるときもそうなんだけれども、日本でも戦前と戦後では違うので、江戸時代なら四十といえば御隠居です。明治時代でも四十といえば成熟した年代でしょう。
芥川 だから時代によって成熟する年齢がずいぶん違うということはありましょうね。
福田 それは一つの文化というものが、よかれあしかれ型をもって成熟している時代には、悪くいえば早くふけやすいし、よくいえば早く大人になれるということでしょう。型がないと、いつまでたってもお小大人にならない、貫禄がつかない。戦後のわれわれの時代というものはそうだし、四十になっても、まだ鼻たれ小僧ということがあると思うのです。「罪と罰」が書かれた一八六〇年代、そのころの三十五六といったら、おそらくその人がいま突然現れてくれば、ずいぶんふけて見える。四十五六に見えるのじゃないかという感じがしますね。≫

 これにはちよつとショックだつた、驚いた。ポルフィーリイーは五十から六十の男だと私は思ひ込んでゐたのだ。私の同僚や友人で三十代半ばの方たちの顔を思ひ浮かべて慄然といふと大げさ、不謹慎で失礼かもしれないが噴き出しかけた。私のイメージではその方々が主人公の青年ラスコーリニコフであつても少しもをかしくないのだから。

 そのくらゐに私たちの世代(時代)は成熟が遅い、成長が遅いといふことか。「型がない」、これは重要な指摘。日々の暮らしの中で、父親が取るべき態度、佇まひが失はれ、公共の場で個人が節度を守るといふ嘗ては間違ひなく存在した礼節といふ「型」が崩れ去り、そのことを誰も一顧だにしない。さう、「顧みる」こと自体が生きる上での大いなる「型」ではないか。

 自由尊重、個性尊重、何でも平等の戦後といふ時間が壊したのは、この社会の枠であり型なのだ。

 私は自分だけ例外視してゐるのではない。自分をこそ外側から眺めての一種の嫌悪に近い観察である。還暦を過ぎ、それ相応の経験も積んできたはずの人間が、どうやら一回りも若く見られてしまふこと、俗に言へば年齢八掛け説は事実だといふこと、それが厭になる。周囲を見回しても年相応の顔など滅多にお目に掛かれるものではない。

 具体的にいふと差し障りがあらうが、周囲にゐる五十代半ばの知人を見てもかなりの割合で八掛けが相応しい方が多い。四十代までが八掛け、三十代は七掛け、二十代になるともはや六掛けと言へる。二年ほど前、どこかで齋藤環が言つてゐた、今の大学生は十二三歳くらゐだと。それは私が教育現場にゐて実感してゐたことに符合する。大学の二年でも中学生としか思へぬ表情と知能・知識。日常の起ち居振る舞ひもそんなものである。

 「型」といふ言葉でなくてもよからう。社会や生活にはルールがあるのだといふ教育を戦後の私達は放棄した。そのことを意識してゐる政治家に私は未来の日本を託したい。あるいはかういふことも言へる。震災の時に被災者が見せた振舞ひにこそ型があるといふこと、そして、あの時以来、多くの国民が意識するとしないとに関らず気がついたのが、自衛隊や警察のやうな組織こそ「型」がなくては行動できず、「型」があればこそ、その型が要求するルールに従つて人間は整然とした行動が取れるといふことではないか。
 
 それは、もしかしたら、己を律するといふやうなマンネリ化した言葉でこそ表現可能なのかもしれない。他者の前で自己を滅する、自分は一歩退く、さういふ心構へが自ずと日常生活の型を生み出して行くのではあるまいか。

抜粋――その二。これは菊田一男との「甘い芝居と辛い芝居」というふ昭和四十二年の対談から。商業演劇とそれに対してのアヴァンギャルドとしての新劇の話題になり――

福田 ……そういうふうに商業演劇が非常に甘くなっていますから、それに対応してアヴァンギャルドである新劇も甘くなっちゃうんですよ。向う(例えば英国=逸注記)だったら商業演劇が非常に辛いから、たとえばその結果として非常に低俗なものができても、それに対抗するアヴァンギャルドは徹底的にいこうということができるんですよ。日本では違う意味で甘くなっているし、なれ合いで甘くなっているから商業道徳も守れないという形になっていて、いまに私は商業演劇とアヴァンギャルドの線がだんだんあいまいになっていくだろうと思いますね。それがどちらかにプラスになっていけばいいのだけれども、両方にマイナスになる可能性がなくはない。≫

 これについては語る言葉もない。時代は恆存の予測をはるかに超えて進んでしまつてゐる。いいかわるいかの判断は措くとしても、昨今の演劇界は新劇はとうの昔に死語となり、この対談の行はれたころには既に新劇に対するアヴァンギャルドすら産まれてゐた。そして、今や、「ジャンルを超えて」などといふ言葉は宣伝用の惹句にすらなり得ない。クロスオーバーといふ言葉も既に古い。そして商業演劇も新劇もその後の前衛たるべき小劇場の人々も、「あいまい」のごた混ぜ、すべてはメディアを媒体とした「人気」といふ「価値」の奴隷になり下がつてゐる。ここには舞台成果も演技術も問はれぬ世界が出現してゐる。それが現今の芸能の世界だとだけ、今は書いておく。

抜粋――その三。国語問題について。私がこのブログだけは正仮名を使つてゐることはお気づきだらう。(正仮名は横書きに馴染まない、日本語は横書きに馴染まない。)その正仮名正漢字をぶち壊した戦後の国語改悪に話題が及んだ、「ウェルメイド・プレイ讃」といふ山内登美雄との対談から、短い引用。

福田 僕はまあ国語問題でももう絶望的ですね。もうどうにもならない、人間というのは一度易きについら――下り坂に一度かかったら、もう一度上がろうという気にはならないものですよ。個人的にはたまたまそういうのがあるけれど、一つの民族なり国民なりが一致してそういう気持ちになろうということはあり得ない。それがあるとすれば非常に望ましからざる危機がきたときですね。外敵にせめられるとか、クーデターが起きるとか、そんなことでもない限りはそういうことはおき得ないのですね。≫

 ここで、私は「決定的」に恆存と「袂を別つ」。なぜなら、私にはさういふ「危機」を「望ましからざる」と表現する気はさらさらない。もはや、さういふ危機しか、当てには出来ぬご時世だと言わざるを得ない。どの政治家に何を期待せよと言ふのか。

 付記。英国滞在記といふか向かふで考へたことと、文楽の補助金問題など、この後、書きたいと思つてゐる。仕事の合間を縫つて何とかしたい。
 以上、誤記変換ミス多謝。
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by dokudankoji | 2012-07-18 22:35 | 雑感


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