福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2005年 08月 25日

政界再編を望む(二)

 承前。
 宮崎哲弥氏が二十一日付けの産経新聞で、堀江出馬について、「自民党は……その軸足を新自由主義の方向に大きく移動させ」これは「日本の保守の転機」であり、堀江はリバタリアニズム(徹底した個人の自由を重んじる主義)の象徴的存在だと論じてゐる。つまり過激な自由主義者が台頭してきてをり、その当選があれば日本の保守が変質すると論じてゐる。「堀江氏の言動を見れば、彼が自覚せざるリバタリアンであることは明らかだ」「新自由主義に『純化』された小泉自民党は、遂にリバタリアンにまでウイングを拡げた。この思想的意味は限りなく大きい」と。確かに。
 ただし、これは「保守の転機」といふより、「保守の滅亡・消滅」だらう。

 堀江を担ぎ出した小泉自民党は保守とは呼べなくなつてゐる。宮崎氏の言ふやうに新自由主義。個人主義。しかもかなり過激な自己中心性。そこで忘れてはならないのは、この「リバタリアニズム」といふ言葉、徹底した個人の自由に立脚するわけであるから、究極はアナーキズムに通じ、事実、「無政府主義」といふ訳語も当て嵌められる。(無政府主義と、堀江の「世界は一つ」と、見事に相通ずるではないか。)

 ここまで考へると、今の小泉政権の高支持率も頷けるのではあるまいか。外面のみの威勢のよさ、声の大きさ、今までの政治家とは違つて何だか何かをやつてくれさうな「雰囲気」、任せておいて自分達は何も考へないでよささうな「印象」。そんなところが小泉の最大の魅力なのではないか。かういふのを張子の虎といつたのではなかつたか。

 気が楽なのだ――多くの国民は小泉の強引さに身を委ねることが心地よいのではないか。任せておける安心感を求めてゐるのではないか。とすれば、無政府主義どころか、一歩先に待ち構へてゐるのは、強権政治であり、独裁政治となる。結局、衆愚は英雄を待望する。それだけの単純な図式が出来上がつてゐるやうな気がしてならない。

 自民党二十三日辺りから、過半数割れを意識してか、造反組が自ら離党すれば将来復党の可能性を示し始めた。権力維持のためなら野合結構といふわけだ。そして、これが現実の政治の世界である。造反組諸氏(変な新党はこの際、措く)に敢へて無謀なる進言をする、節操が無いと言はれるのを百も承知で。ここは是非とも「乗る」べきだ。国はあなた方を必要としてゐる。今は理念や面子を脇に置き、絶対譲れぬ信念を胸の奥底深くに秘め、現実の愚劣な政治の世界に付き合ふことだ。それは屈服でも屈辱でもない。

 そして、晴れて当選の暁に、リバタリアンといふ日本破壊主義者共と手を切り、自民を「壊し」、民主の一部も糾合して真の保守主政党の再生に向つて頂きたい。一国民の切なる願ひである。この政界再編のためなら、私は一時のその妥協を敢へて「善し」としたい。もちろん、選挙区・後援会の事情もあらう、私にはその辺りは全く分からない。従つて無所属での当選、そして除籍で復党もなく真性保守を守れる目算が立つのなら、それこそ天晴れ、飽くまで信念を貫き通して欲しい。いづれにしても、真の政界再編を、真の保守主義の再生を願ふばかりである。小泉がそこまでの動きを見通し、再編と日本再生を目指してゐるとは到底考へられないのだから。

 付記:ここで再び、樋口季一郎語録。前記記事、前掲書p.66より――
 ≪「我々は国家人乃至社会人である前に先ず自己の完成を企図すべきだ」というようなことをいう。しかし国家、社会、世界を離れて「個人」の完成は存在し得ないのではないか。いな、国民のすべてが個人主義に徹したのでは社会も国家も成立し得ないであろう。それはニーチェの悩みであろう≫
ホリエモンに聞かせたい言葉である。戦後六十年、日本は個人主義だ、民主主義だ、自由だ、平和だとお題目ばかりは騒々しい。が、実体が伴はぬがゆゑに、国民も政治家も軽佻浮薄への坂道を転落し続けてゐる。
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by dokudankoji | 2005-08-25 02:05 | 雑感


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