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2012年 02月 02日
グスタフ・フォスといふ名前を記憶していらつしやる方は今の時代にどれ程ゐるだらうか。私と同じ団塊の世代までだらうか。神奈川の栄光学園の初代校長で後に理事長を務めたドイツ人であり、栄光学園を育てた教育者、神父である。1933年に来日し、一度米国に留学、戦後再び来日(1990年逝去)。 そのフォス神父と教育評論家の鈴木重信と恆存との鼎談「日本の教育・七不思議」も是非、現代の親たちに読んで欲しくて『世相を斬る』に収録した。これなど、文字通りそのまま現在の教育論、親論になる。例によつて引用を中心に記しておく。主にフォス神父の言葉であるが。 ≪教育は明治の時代から政治のために利用され、場合によっては悪用されてきた。物質的に考えれば、その結果日本は近代化に成功しました。わずか百年の間に、あれほどの成績をあげたというのは、やはり人類の歴史上初めてだったと思います。しかし日本人はそこでずっと背伸びしてきたわけですから、例えばヨーロッパ文明の裏にある精神的なものを考える余裕がなかったのと同時に、日本の伝統的な文化に対しても関心を持たなくなってしまった。戦前は伝統的な価値がまだあったけれど、戦後になりますと、修身もダメ、教育勅語もダメということで、近代化に役立った物質的な考え方だけが残ったわけです。そういうところに入ってきた米国の民主主義は、あたかも一つの道徳、あるいは贋(にせ)宗教であるかのように信じられたということではないでしょうか。≫ これに応じて、少し先で恆存が、「戦後教育では、国家意識を否定しなければ西洋流にならないというふうに思ったことは事実でしょう。国家を戦前の軍国主義と混同してしまって、国家という概念は古くて危険なものだというわけです」と応へる。昭和54年の鼎談だが、うんざりするほど、現代の発言だとしてもをかしくない。爾来30年余り、日本の伝統的文化は衰滅の一途を辿つて来たことは誰の目にも明らかだらう。 この国では未だに国歌斉唱や国旗掲揚に纏はる議論が喧しいが、フォス神父に言はせれば、「私は今までいろんな国を歩きまわったけれど、国旗掲揚しない国は一つもない。ソ連だって当たり前のこととして揚げます。それとおかしいのは、例えば今、日本の高校の教科課程をみますと、国史という科目は自由選択です。取らなくてもよろしい。こんなことがあっていいのでしょうか(中略)米国なんか、私はカリフォルニアにいましたが、米国史を教え、またその州の歴史も教えます」と、つまり、自国の歴史は強制的にたたきこんで当然だといふわけだ(もちろん、自虐史観ではなく。私なんぞ、自分の国の歴史は思い切り美化してよいと思つてゐる!)。 この国旗掲揚の話は、フォス神父が初代校長だつた昭和24年に高松宮殿下が栄光学園をお訪ねになられた時のエピソードとして語られるのだが、そのいきさつを鈴木氏が少し詳しく説明してゐる。 ≪国旗を掲揚する、「君が代」を歌わせるということをフォス校長が言われたとき、職員会議で日本人の職員が難色を示した。占領下の今そんなことをすれば問題が起るというわけです。するとドイツ人である校長が、日本人の教育をやるのに国旗を揚げ国家を歌って何が悪いかと言って、非常な勇断をもっておやりになった。ところが、高松宮がみえるというので臨席していたデッカーという、横須賀に駐在していたアメリカの海軍司令官が、今の妙なる調べは何だという質問をしたわけです。あれが「君が代」という日本の国歌だと言うと、実に荘厳な立派な音楽だといって賞賛した。そして沢山の列席者の中で戦後久しく聞かなかった「君が代」を聞き、日の丸を見て一番感動して泣いたのが日本人の父親たちだった。日本人がやるべきことをドイツ人のフォスさんがやって、日本人が泣き、アメリカ人が感激した。これは象徴的な出来事ですよ。国家とか国旗とか言うと何か犯罪であるかのような意識が戦後ずっと、あったけれど、国歌を考えないところに一体民主主義はあり得るのだろうか。≫ さう、今でも国歌や国旗が犯罪だとでも言はんばかりの言説が巷に流布され、大きな声で「君が代」を歌へる日本人は殆どゐない。爽快ですぞ、高らかに「君が代」を斉唱すると……。 サッカー選手が君が代を歌つたとかなんとか言ふが、私に言はせれば、あの連中、まるで腰が引けてゐる。恰も正に罪悪ででもあるかのやうに、心もとない顔で口をもごもごさせてゐるだけ。その気が引ける分を誤魔化すのだらうか、左胸の日の丸(のつもりか)、あるいは日本サッカー協会のシンボル・マーク、八咫烏(やたがらす)のワッペンに敬意を表したやうな恰好で、左胸に手を当てたりシャツを掴んだり。実にすつきりしない。スポーツ選手だらうが、もつと正々堂々としろぃ、と言ひながら私はテレビでサッカー観戦をしてゐる。 ついでに、大相撲の優勝力士、5年ばかり日本人が出てゐないのだから仕方がないが、日本人が優勝した時にはマイクから聞こえるくらゐの声で君が代を歌へ、お前の優勝を寿いでゐるのだぞ、国技の勝者よ。さもなくば、そろそろ国技の看板を下ろしたがよからう。と、言葉も荒く苛立つたところで、少々恥ぢながら(?)フォス神父の言葉に戻る。 ≪言葉というのは心を育てるのです。ですから国語を軽んじれば、やはり日本の心というのは死んでしまうのです。≫ 心にしみる言葉だとは思ひませぬか。このフォス神父の言葉は国を守るといふ文脈で語られるが、前後の出席者の発言を並べる。「伝統を尊重することこそ、国民の教育として大事」「自分の国を尊重することができない人間に、よその国を尊敬したり尊重したりできるか」「自分は日本人だから日本が好きなのだという素朴な気持ちにどうしてなれないのか」「愛国心というのは結局自国の言葉を愛すること」等々。 これらのことを自明のことと思へぬ人間が政治の世界にゐることが私には理解できない。教養とか知性とか、そんな大げさな理窟ではなく、素朴な市井の人間の感覚こそかくあるべきでもあらうし、逆説的に言へば、市井の人々にこそ知性も教養も備わつてゐるのだと私は思ひたい。それを破壊したのが戦後教育であり、国語政策であり、その結果、鈴木氏に「4、50年前の文学作品を読めないような国語教育をどこの国がやっているだろうか」と言はしめる。 最後に鼎談の締めくくりになるフォス神父の言葉を引用する。 ≪……子供の権利だ、権利だと騒がれるけれど、一般に日本では一つだけ権利が守られていない。それは子供には叱られる権利があるということです。≫ この重み、如何ですか。フォス神父の著書「日本の父へ」は今や絶版ではあるが、ネットで古本を入手できる。子育てに悩む親世代に是非読んで頂きたい良書である。良書といふより、道標にすらなるのではないか、新潮文庫だつたと思ふが復刊を望む。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
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