福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2012年 01月 15日

大磯町~明治天皇観漁記念碑

 私の自宅の裏手にある山には「王城山」といふ何やら立派な名前がついてゐる。通称を「小千畳」といふ。なぜ小千畳と呼ぶかといへば、町の背後に控へる「湘南平」といふ野暮な名称になつてしまつた、昔は「千畳敷」と呼ばれてゐた山(丘)があり、それとの比較といふわけだ。

 この千畳敷の頂上はその名の通りかなり広々として平坦で、眺望が素晴らしい。360度ぐるりと眺められ、北から西へ目をやると丹沢山塊から富士山、箱根から伊豆の山々、南には相模湾が広がり天気さへよければ大島がかなり近くに見え、東に目を移すと三浦半島と、時に更にその先に房総がかすんで見える。

 この贅沢な眺望には負けるが、千畳敷の千畳(多分それ以上)もありさうな平坦な頂上に似て、小さいがやはり頂上が平坦な王城山といふ訳で、私が子供の頃は通称「小千畳」と呼ばれてゐた。その頂上に立派な石碑が建つてゐる。これが標題の明治天皇観魚記念碑。

 さて、千畳敷の名が出たついでに、早速横道にそれて、少々大磯探索。この千畳敷へ上る道の途中には幾つもの横穴古墳があつたり、少々淀んではゐるが小さな湧水(といふより水たまり)がある。この湧水の言はれ――その昔、父の仇・工藤祐経の動静を探りにここを登つた曽我五郎の馬が急峻に泡を吹いた、そこで五郎は足で(だつたか太刀でだつたか)、地面を突く、するとそこから水が湧き出し馬に飲ませたといふ。また、馬が踏ん張つたところから水が湧いたともいふ。そして、十郎がその水を使つて虎御前に文を書いたといふので「十郎の硯池」と名付けられたとか、まぁ、眉に唾して聞いておけばよろしい伝説もある。だが、この眉唾伝説から、千畳敷はそもそも泡垂山(あわたらやま)と呼ばれてゐた。今では大磯の住人でもこの名称を知る人は少ないだらう。

 その五郎の兄、十郎と恋中の女郎が大磯の宿場の遊女・虎御前。その虎女が化粧に使つた井戸が旧東海道にポツンと「残つて」ゐる。中を覗いても別に面白くもなんともない。

 虎繋がりで、虎御石といふ有難い石まである。延台寺といふ寺にあるのだが、この石は工藤祐経が送り込んだ刺客の射た矢や切り付けた刀から十郎を守つたともいはれ、虎御前の成長とともに大きく育つたともいはれる。ま、さざれ石が巌になる国に相応しいお話。歌舞伎などの曽我ものには少なくとも虎御前は必ず出てくる。

 ただし、虎御石は出てくるはずもないが、こちらは有難いことに「本物」にお目にかかれる。毎年、確か5月の第4日曜日に御開帳される。この石に触れると大願成就、安産厄除けと霊験あらたか。恨みつらみで復讐の念に燃えていらつしやる方は是非大磯観光協会辺りのホームページで調べて、石に触りにいらつしやるとよろしい。仇打ちも成就すること請け合ひ?

 千畳敷に戻るが、昔、頂上直下に高射砲跡があり、我々子供の良い遊び場になつてゐた。高射砲自体は勿論撤去されてゐたが、砲台と掩蔽の建物は残つてゐた。高射砲は相模湾から上陸してくる(であらう)米軍を迎へ撃つためのものであり、さらに街中を歩くと、上陸して来た米兵を拝み撃ちにするつもりだつたのか、銃剣で白兵戦を戦ふつもりだつたのか、兵士が身を隠す祠のやうな穴が、相模湾から町の中心部に向かふ切通しに残つてゐる。

 さて、大磯歴史散策はこのあたりにして本題に入る。今日は小千畳の話、といふか、先に触れた「明治天皇観漁記念碑」のことを写真を付けて記しておきたい。まず、この立派な写真をご覧あれ。
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 石碑の裏に彫られた説明に基づいて簡単な歴史を記す。江戸から明治になり、明治天皇が江戸を東京と改名したのが明治元年七月のこと。同年九月天皇は京都を発ち、東京へお向かひになる。その途次、十月七日大磯にて御休息、その折、「海濱ニ幸シテ」、漁師たちの威勢よく働く姿と多くの魚が取れ飛び跳ねる様(「魚族ノ溌剌タル魚槽」)を初めてご覧になり「御興ニ入ラセ玉ヒ」、漁夫らに「御下賜品アリ」といふ次第である。その次第を「今謹テ石ニ勒シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ栄ヲ永ク後ニ伝フト云フ」といふわけである。
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 石碑を建立し、この解説(書陰)を書いたのは安田財閥の祖、安田善次郎翁である。建立は「大正七年十月吉祥日」と碑の側面にある。正面の立派な碑文は、時の内大臣正二位大勲位侯爵松方正義の手になる。

 上の青空を背景に写した画像は一月十四日のものである。で、それこそここからが本題、この画像をご覧いただきたい。
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 これらは昨秋写したものである。我が家からは頂上まで歩いて十分ほどの格好の散歩コースなのだが、この数年、夏から秋に登るとご覧の通り荒れ放題。ほんの数年前まではこんなことは無かつた。町の歳入が減つてゐるのだらうか。一方では、この町は、車でなくては行けないやうな不便なところに町民のための運動公園を造つてみたりする、そこへ歩いて往復するだけでも半日かかる、その上運動などする必要もない。最近では全く不要な診療システムを新規に発足させたりと歳費の無駄遣ひはしても、町が誇るべき懐かしい歴史には目もくれない。これつてなんでせう。歴史を蔑ろにしたら、必ず歴史に逆襲される、予言しておきます。

 かういふ言ひ方はお分かり頂けようか――大磯町が私といふ一個人の歴史を破壊してゐるのだといふ……私の中にある記憶、常に整然と手入れの行き届いた裏山と記念碑の記憶、間違ひなく明治に繋がる私の記憶と人生を町が破壊して行く。それを私は許したくない……。

 以前は手入れが行きとどいてゐたため、薄その他の雑草がはびこることは皆無、いつ行つても美しい相模湾を眺め歴史に思ひを致し……絶好の散歩コースだつた、といふか私の遊び場、庭だつた。今は正月前後に一度雑草を刈り取るだけとなり、夏草が茂り出す季節からは山頂に近づづくにはかなりの覚悟が要る。

 で、昨十四日、散歩に出かけて小千畳に登つたところが次の写真のやうに見事に草を刈つてあつた。暮のうちに刈つてないので、遂にそのまま年を越し、もはや荒れるに任せるのかと思つたら、「一応は」手入れをする気だけはあるらしい。
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 だが、この写真をよく見て頂きたい。「一応は」といふ意味はお分かりだらう。
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 荒れ果ててゐること一目瞭然。造形は立派ではあるし、これを財閥とはいへ個人が建立すること自体、頭が下がる。90度ずらした下の台座は蔓延りだした薄が徐々にその敷石を押し広げ破壊し、年々崩れて行く。正面の階段の上の二本の柱にお気づきだらうか。昔、この柱から石組の上に正方形の石柵が廻らしてあつた。左の柱の陰になつてしまつたが、上の囲いの左端前の柱上部にあつた宝珠は壊れて崩落。階段上の周囲も上の囲いの中側も、薄は一応は刈り取られてなくなつてゐるが、数年間、根を取らずに蔓延らせたため、もはや手の施しやうがない。草の、殊に薄の根は強い、種子からの繁殖も含め、数年のうちに継ぎ目裂け目を狙つて出てくる薄のためにこの石組は土台から崩落し、中央の石碑だけが傾いた無残な姿を曝すのだらう。さうして、記憶といふ形の私の一部も崩壊させられる。

 この王城山の裏手に「釜口古墳」といふのがあり、これは一応町が管理して見学する人も散見される。が、この明治天皇の観漁記念碑を省みる人はもはや誰もゐないらしい。寂しい限りである。ちなみに、明治帝がお出ましになられた海辺にも観漁記念碑があるが、こちらはこの安田翁建立のものほど立派ではないが、人目に付くところでもあり、規模も小さいせゐか一応の手入れはされてゐる。

 最後に、この小千畳(王城山)の麓に今なほ安田邸が保存されてをり、年に一度開放されて見学できる、興味のある方はネットでお調べ頂いて、冒頭に長々と書いた町内の散策もなさるとよろしい。安田邸、昔は富士銀行の行員の寮として使はれてゐた。校倉造の蔵などもあり、往事私はほとりの池で蛙の卵を取つたりお玉杓子を捕まへたりしたものだ。今では、警備厳しく、お花見に門から入らうものなら管理人に咎められる。昔正門は開かれたままであり、内門との間の広場は私達の野球場でもあつたのだが。これまた寂しい限り……。
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by dokudankoji | 2012-01-15 02:32 | 雑感


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