2011年 11月 12日

短く~承前

 玉三郎の舞台に我々が観るのは何か。住大夫の語りに私たちが聴くのは何か。それは意味でも意義でもない。「芸術」に我々は「今日的意味」や「テーマ」など求めはしない。求めなければ済まされないとしたら、それはそれが芸術ではなく、観るに値せず聴くに値しないものといふことにならう。

 では私たちはこれらのものに何を求め、何を観、聴いてゐるのか。いふまでもない。魂である。演者の魂。その魂を彼らが持てる技術の総てを動員して提示する姿に我々は心を打たれるのだ。魂といひこころといひ、これらは目に見えぬ抽象的精神的なものではない。手にも触れられさうなほど具体的な、たとへば、舞踊の技術であり語りの技術以外の何物でもない。演者が自分の技術に魂を込めて演ずること。それに観客は心を奪はれる。

 ここにはテーマだ今日的な意味だといつた、頭デッカチの入りこむ余地はない。小林秀雄流に言ふなら、「お悧巧な人はテーマでも意義でも、たんとお考へなさい。私はバカだから考へない。」

 「堅壘奪取」を演出する時、理屈ではなく技術あるいは外面を意識したといふのはさういふ意味である。その結果が、住大夫の域に達してゐないことは百も承知、玉三郎と比べるのは冗談にしかならぬことも分かつてゐる。が、自分が彼らと同じ土俵に立ち、同じ戦ひを、つまり自分との或いは自分を超えた存在との戦ひを戦つてゐるといふ確信が、私にはある。
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by dokudankoji | 2011-11-12 16:44 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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