2011年 11月 12日

「堅壘奪取」の稽古場から

 芝居の稽古といふと、普通なら稽古初日に演出家から演出意図なり作品解釈なり「方向性」やらの話があつて稽古に入るものだが、今回父の「堅壘奪取」を演出するに当たつて、私は一切それをしなかつた。今回稽古初日は、もう一本の「一族再會」と合同の顔合はせとなつて、かなり形式的(儀式的?)な読み合はせから始まつたことにも一因あるが、それぞれ単独の稽古になつてからも、私はその種の話をせず、その後、正味30日に近づく稽古の間、テーマだとか意図など説明しようとも思はなかつた。

 読めば分かるでせうといつた気分も無くはなかつたが、どういふ芝居を創るかの理屈を捏ねてゐるより、科白の一つ一つを書いてゐる作者の筆が、その書いてゐる瞬間に躍動する姿を、そのまま舞台に移し替へることに専念した。さうとでも言ふしかない。今まで、このやうな手法で演出したことは一度もない。必ずと言つていいほど御託を並べた。

 では、今回どういふ稽古を進めたかといふと、やたらに形だとか間だとかタイミングだとか、あるいは科白の抑揚やテンポやリズム、そんなことにばかりこだわり続けた。極端な話、登場人物の性格すら無視して、その場、その科白がどういふ効果を持つべきか、その種のダメ出しに終始した。

 特にこの「堅壘奪取」といふ戯曲が他の作品以上に形を要求するのかもしれない。あるいは何が書いてあるかなど、説明するまでもない単純な戯曲だといふこともできるかもしれない。だが、何より私の頭にあつたのは一つ一つの科白が要求する姿を「外面的」に創ることに専念すれば内面は自然と浮かび上がるはずだといふ確信だつた。テーマやら意味は後からついて来る、さういふ発想に立つて稽古の終盤に掛つてゐる。

 稽古が始まつて三週間ほどした頃、若い役者のO君が笑ひながらかう言つたものだ、「最初の稽古の日の、あのダメの量の多さには絶望しました」と。さう、敢ていふなら、私は役者が徐々に体に染み込ませるべき登場人物に、相当せつかちに、ただただ結果を要求し続けた。稽古の初期から、例へば、をかしな科白ならその科白がをかしいといふことを見せてくれ、技術を見せてくれと要求し続けたともいへる。結果が見えてナンボのもの、さういふ要求ばかりした。

 理屈はいらない、ここでAの役が不機嫌になつていゐないと次のBの科白がはあり得ないとするなら、何でもよい、Aが不機嫌なことを客席に伝へてくれ、そこから先にこの芝居の展開が生まれる、さういふ創り方を役者に強ひ続けた。

 一幕物にしては長い稽古期間だが、後半の稽古に入るころ役者達は、私のダメ出しのを、それが何であれ、ほぼ100%理解し、細かな稽古など繰り返さなくとも、翌日にはほぼ答を出してきてれくれるやうんみなつた。従つて、毎日の積み重ねがないなどといふ日は一日もない。何かダメを出せば必ずそれを咀嚼して数段階段を上つて舞台を緊密にしてくれる。かういふ稽古は久しぶりの経験である。一言でいへば気持のよい稽古場。

   ***********************************

 これ以上の具体的なことは、観に来て下さる方のために書かずにおくが、この稽古を進めてゐてつくづく思ふことがある。

 文学にせよ演劇にせよ、あるいは音楽においてさへ、我々はどうしてテーマや作品の意図をしつこく論じたがるのか。モーツァルトを聴くとき我々はテーマなど考へ、それを理解しつつ聴くだらうか。ただ、その楽曲を楽しみ、気分が弾んだり明るい気分になつたりしんみりしたり、それだけのことではないか。

 前にこのブログでもさまざまの音楽や舞台について書いてきた。しかし、私は一度として観念的な理屈を述べたつもりはない。いつも、それらの演者たちが作品群が私の心にどう響き、どう感動させ、私の胸をどう打つたか、さういふ事ばかり書かうとしてきた。が、往々にして人は「芸術」に触れる時、「理解」しようとする。いはく「この作品のテーマは何か」、「この作者は何が言ひたいのか」……これは「芸術」に接する態度ではない。或いは、さういふところからさ舞台を創るべきではない。頭では舞台は出来ない、心で考へろ。

 あらゆる芸術の根幹になくてはならぬもの、観せるにせよ聴かせるにせよ、いかなる芸術も、理屈は抜きにして、まづお客を楽しませもてなす、そのことを忘れると、ただ生真面目で理屈っぽい、退屈な舞台を産むだけだ。頭デッカチの舞台創り。それだけは私は避けたい。今度の稽古場では殊にさういふ気持が強い気がする。

 これは、実は言語そのものについても言へることかもしれない。文章といふもの自体、実は理屈以前に、読者を楽しませもてなすことが大事なのではないのか。小説であつても、筋や物語以前に、読者にさまざまな味はひの「心地よさ」を提供するべきではないのか。読んで心地よい、さうではない文章にどれ程の価値があるのだらう。

 もし、このブログの読者が16日に始まる「堅壘奪取」を観て下さり、そこに言葉のリズムや間合ひや、そして語られる内容が当然のごとくに心に伝はることの「心地よさ」を感じることが無かつたら、それは私の演出が間違つてゐる、さう言はれても仕方がないと私は思つてゐる。

    **************************************

 たとへさうであつたとしても、この戯曲ほど、外面から内面へといふ常套的な演出を拒絶されたのは初めてといつてよい。が、悔しい(?)のは結果はご覧じろとは言へぬのが舞台の妙。総ては生の役者の肉体といふ「楽器」を通して観客に伝達され、かつ、総てはその日その日の異なる観客と舞台との呼吸で微妙に変化する。舞台稽古を済ませれば、演出家の出場はなくなる。後は総てひとまかせ、あなたまかせ。

 以前はさういふ舞台芸術に苛立つことが多かつた。日々の舞台の出来に役者を恨みたくなり、観客の「鈍感」に腹を立て、そんな時期もあつた。が、どういふわけか、今回の「堅壘奪取」の稽古を進めるうちに、さういふ気持ちが消えてゐる。そのことに自分で戸惑つてゐるくらゐである。

 大げさに言へば舞台創りは人生に似てゐる。何かのはずみで営々たる努力が一瞬で水泡に帰することもあれば、必死の努力も苦労も、どうにも報はれない、そんなことばかりだ。たまさか何もかも上手く行つたとか思つても、さして長くもない時の経過とともに人々に忘れ去られる。それをさびしいといふのではない。さうであるからこそ、忘れ去られる宿命であればこそ、芝居屋は、人間が明日を生きようとするのと同じやうに、明日も同じ舞台を勤めようとし、新たな舞台を創らうとするのではないか。人生と同じ、生きることに何の意味もないことの確認のために人は生き、舞台など夢のやうに消えうせることを知りつつ、そこに少しでも痕跡を残さうともがく。

 50歳を過ぎたころから、そんなことを思ひ始め、還暦を過ぎてそれは確信となり、ただ、稽古場に通ふのが苦しいとともに、あういふ私もまた私の一人と思つてゐる。この項目を書き始めた当初とは、少々話が脱線といふかずれてゐるが、近頃、スポーツ選手などの言葉でよく耳にする「プレッシャーを楽しむ」といつた分かつた風な口のききようが私は嫌ひだ。私は今回の稽古では徹底的に自分を追ひ込んだ。

 父の作品を演出するのは初めてである。しかも父の生誕100年を自分で企画して、作品を選び、その父親の戯曲を自分の選択した役者とスタッフの手で舞台に掛ける。これで失敗しては洒落にもならないと事あるごとに周囲の人々に言つてゐるのだが、言へば言ふほど自分に負荷がかかる。それを私は楽しめない。キツイだけである。キツイことが分かつてゐてもさらに負荷をかけ続けてゐる。プレッシャーは楽しむものではない。撥ね退けるか、打ちひしがれるか、さもなければ逃げるか、これしかないと私は思ふ。さう思ひながら、「堅壘奪取」の最後の仕上げに掛つてゐる。お見逃しなく。見逃せば、損をなさるのはあなたです。これも自分へのプレッシャー。(以上、出先にて馴れぬノートパソコンで記す。誤字脱字誤変換、乞御寛恕。)
[PR]

by dokudankoji | 2011-11-12 03:09 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://dokuhen.exblog.jp/tb/14927343
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 短く~承前      お報せを兼ねて >>