2011年 06月 24日

自己肯定と自己否定と

 恆存対談集第三巻の最終稿を見てゐて、私自身が出発したところが見えるやうな気がしてゐる。「潮」の昭和43年8月号に載つた中村光夫との対談「現代文学への不満」だが、文学論としてもなるほどと思へるのだが、その最後が「現代若者への不満」で終つてゐる。少し長いが引用する。

福田 ……ぼくたちの場合、(明治の)文明開化をそんなに無縁に考えることはできないが、戦後は親父のやったことは親父さんのやったことで俺の知ったことじゃないと、言える時代が随分出てきた。そういう点ではぼくらはちょっとついて行けない。
中村 ついて行けないよりも危なっかしくて見ていられない……。
  ぼくら、自己否定から出発したけれども、それがなんとなく無制限な自己肯定に変りそうな危機は感じますね。自己否定ということの意味をもう少し考えれば、そういうことが何か役に立つかどうか疑問だけれど、そこに自分というものを見出せるのではないか。
福田 つまり否定を通じて、否定作業が結果として肯定になるようなことしか考えられないでしょう。だけど、いまの人は否定を通過していない感じですね。
中村 そうですね、通過しているようだけど、通過していない。
福田 自己肯定に好都合な観念の発明をオピニオン・リーダーにやってもらっているでしょう。だから自己否定がなく、いつも手放しの自己肯定に転ずる。それでは終りですよ。否定から出発すれば希望が持てるけれども、野放図の自己肯定を辿っている人が壁にぶつかってはじかれたらどうなるのだろうという感じがしますね。≫

 人間はどうあつても自己肯定したい、さういふところに立つ。が、自省、自意識を持つ人間は必ず自己肯定の居心地の悪さにゐたたまれなくなつて、千万の紆余曲折を経て成長する。なぜこんなつまらぬことを書きだしたかといふと、昭和43年に、この対談の二人をして「いまの人」と言はしめたのは他ならぬ私の世代、つまり全共闘世代であるからだ。

 それで、このゲラを読んでゐてふと思つたのが、菅直人のことだ。あれが自己肯定のなれの果て、哀れな末路の惨めな姿なのだと思つたわけである。友愛を叫んだ鳩山も同じ穴のムジナで、「命を守りた~い」と虚ろな目で叫んだのも、到底自己否定から生まれる精神のなせる業とは言ひ難い。勿論鳩山は平田オリザを一種のオピニオン・リーダーと考へたのだらう。今も昔もオピニオン・リーダーとは進歩的文化人であり、今の進歩的メディアもこのオピニオン・リーダーを恐らく自任してゐるであらう。

 (ゲラの校正に戻らねばならず)あまり多くを書くつもりはないが、反原発も脱原発もオピニオン・リーダーの振る旗であり、個々人の思考停止を招くのみだ。ファッションとしての脱原発。思考の停止。このお気楽な自己肯定がどこへ行くか、余りにも分かりやすい。

 郵政民営化選挙、政権交代、原発反対(脱原発も)、全ては思考停止のヒステリー現象ではないか。いはば、条件反射のやうな思考。ことの本質に目を向ける作業を怠たり、まづ自分の生きる座標軸を見定めることをしないで、つまり生きて行く上での拠るべき価値を見出さぬままに、あれにもこれにも反射的な反応をするばかりではないか。座標軸も価値も、見出すためには否定から入れねばならない、それでなければ「自分というものを見出せ」ないと中村光夫は言つてゐるのだ。「無制限の自己肯定」は「危なっかしくて見ていられない」。無制限に自己を祭り上げ後生大事に抱へ込むと、とどのつまりゴキブリと何ら変るところのない人類ばかりを自己肯定してしまふ事になるのではないか。昨今、自己などといふ言葉自体死語になりかねぬ、そんなご時世ではあるが。
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by dokudankoji | 2011-06-24 01:23 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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