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福田逸の備忘録――残日録縹渺

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2011年 06月 04日

三島さん~個人的感想

 角川シネマ有楽町で三島由紀夫の映画特集が終つた。行かう行かうと思ひつつ殆ど果たせず、2日に授業の合間を縫つて(と言へば聞こえが良いが、実際は逆で映画の合間を縫つて授業をしたのだが)、漸く二本だけ観た。昼過ぎから「憂国」、授業からとんぼ返りで夜は「人斬り」。

 映画評をするつもりはない。

 「人斬り」を観て、さすが三島の殺陣は見事と感心しきり。様になつてゐるどころか、他の出演者を圧してゐる。群を抜いて美しい、型が決まる美しさといふべきだらう。また、剣を使ふ時の三島の目がいい、気合ひが違ふ。気迫が違ふ。澄んだ眼をしてゐる。自決を内に秘めてゐる、などと言ふつもりは毛頭ない。

 三島ファンに期待を持たせておいて、肩透かしを食はせるやうなことを書くことになる。この映画を無理して観ておいてよかつたと痛切に感じてゐる。どういふことかはさておき――

 三島といふと、どうしても、その最期が強烈なイメージとして残る。昭和45年の11月25日を経験した者にとつては、それ以前の三島、昭和30年代までの三島の記憶のみに戻ることはできない。そして私もその例外ではない。三島といへば、まさに憂国の士であり、一命を賭してこの国を覚醒させやうとした、あるいは覚醒の望み無きことを憂ひて死を選んだ、さういつたイメージが浮かぶし、それを払ひのけることも難しい。

 だが、彼の死につて、解釈はどうにでも出来るし、同時に、人の死はいかなる解釈も拒絶する。殊に三島のあの死についてはさう言へる。私は何の解釈もしない。ただ、この40年といふもの、いつも私の心の中に何か澱のごときものを感じ、三島といふとどうにも落ち着かない。受け止めきれないものを感じてゐたとでもいはうか。

 そして、このひと月、プリントアウトした映画のスケジュールと自分の都合とにらめつこしつつ、2日まで足を運べずに漸く最後の最後に二本だけ観たといふ次第である。

 「人斬り」。薩摩藩士の人斬り新兵衛を三島が演じてゐるわけだが、その立ち回りを私は大いに楽しんだ、が、何よりも驚いたのは、生身の三島が演じてゐるのを見るうちに、自分が子供だつた時に僅かながら触れた三島本人が急に懐かしく思ひ出されたことだつた。

 殊に勝新太郎演ずる岡田以蔵が土佐藩(武市半平太)から酷く扱はれ、酒屋の飲み代すら出してもらへ無くなつて、酒に酔つたまま男泣きに泣き続ける場で、新兵衛が「お前の飲み代くらゐ俺が全部出してやるよ」と言つて慰める(このセリフ回し、下手だつた)のだが、その場の三島が実に「よい」。

 不器用な人柄、真面目で誠実で照れ屋で……三島由紀夫が素になつてゐる姿がちらちら見える。演ずることのプロではない三島が、剣を取る場面では得意の太刀捌きや構へを披露してくれるわけだが、それは居合といふ形に従へるだけに、型に嵌るだけに、つまり型に支へられてゐるだけに破綻がない。ところが、以蔵に優しくする場面では従ふべき型がないだけに、三島は素面を見せてしまふ。

 この瞬間の三島の照れは、他人がどう言はうと私には確信がある。芝居の稽古場で役者の演ずる姿と表情を見続けて来た身としては、その演技の背後に、役者が隠しおほせずに垣間見せる生身の肉体と精神が必ずある。それを見抜く自信だけは私にもある。監督の五社英雄は恐らく、その生の三島を気に入つてゐたに相違ない。

 さて、その素面の三島、仮面の告白ならぬ、素面での告白――さう、三島さん、あなたは優しい人だ。これは私の思ひこみなのだらうか。そんなことはどうでもよい。その場面を観ながら、私は「ああ、これだ、これが昔知つてゐた三島さんだ、長い間、あの事件以来、その衝撃に私の内心に封じ込められてゐた三島さん、その三島さんがここにゐる」、さう得心し、何とも言へぬ愉快な暖かな空気を味はつた。ホッとしたといふのが一番近いかもしれない。

 結局、人は人を思想で理解などできはしない、さういふことなのではないか。思想を超えた、思想の根つ子に存在する人そのもの。そこまで降りて行けたら幸せといふものだらう。他の人々が三島由紀夫をどう理解しどう愛しどう付き合ふか、そこまで立ち入るつもりは私には毛頭ない。ただ、「人斬り」を観て、三島由紀夫が私の中で漸く「三島さん」に戻つてくれた。それだけのことだ。さうであつても、その切つ掛けが自決前年制作の「人斬り」であり、「人斬り新兵衛」役だつたといふのは随分皮肉な話なのだらうか。

by dokudankoji | 2011-06-04 01:56 | 日常雑感


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