福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2011年 05月 08日

曖昧な言葉~「安全神話」と「想定外」

 ≪安全神話≫
 殆ど流行語。「安全神話が崩れた」と、あちこちで色々な方が色々な立場でお使ひになる。でも、何か変ぢやありません? そんなこと、論理的にあり得ません。神話が崩れる? みなさん、神話は神話でせう。まさか本気で神話を史実や事実や真実とは取り違へたなんてことはないでせう。我が国の皇室が神話の世界に繋がつてゐることを私は幸せな国柄と寿ぐのにやぶさかではない。でも、まさに「あり得ない」くらゐに「有難い」から神話なので、あり得てしまつたら、神話ではあり得ない。言葉を遊んでゐるのではありません(いや、ちょつと遊んでゐます)。

 もう一度――絶対にあり得ないか、あり得ないくらいに有難いから、神話と呼ぶ。そこで、本題。「原発の安全神話」といふ言ひ方だが、「あり得ないから神話と呼ぶ」といふ私の「現代的」命題が正しければ、「原発の安全神話」といふ言ひ回し自体に、既に「原発には絶対の安全などあり得ない」といふ意味を込めて使つて来たはずでせう? それが「崩壊」するとどうなります? 「絶対に安全はあり得ない」といふ概念が「崩壊」したといふことだから――つまり「あり得ない」といふ概念が「崩壊」したのだから、「絶対の安全」は「ある」となつてしまひませんか? すなはち、「安全神話」が「崩壊」したなら、残るのは「絶対的安全」のみとなる。

 「安全神話」などといふ四字熟語を曖昧に使つてゐるから、「神話」を信じ込むか、信じたふりをするのです(原発推進派は前者、メディアは後者、いやどちらも後者か)。さて、さうなると、「安全神話が崩れた」などと今更のやうに騒ぎ立てるのは、メディアにしても原発反対派にしても余りにもわざとらしくはありませんか?

 元々、私達は原発の危険を、それぞれの立場でそれなりに認識してゐたのでは? 後進国ロシアはさておき、アメリカがスリーマイルでドジを踏んだ。同じやうなことが日本に起きないと本気で思ひ込んでゐたとしたら、それは相当の愛国者なのでせうね、自国を信じ過ぎです。

 原発に頼る外には我々が享受してきた贅沢な科学文明はあり得ない。それこそ「神話」の世界だ――ともあれ、資源貧国の我が国では化石燃料に頼るわけにいかず、といつて太陽熱などのクリーンエネルギーはまだ代替エネルギーとして実用には程遠い――そこで、仕方なしに危険でも原発に頼るしかない、さう思つて来たのが昭和から平成への半世紀ではなかつたのか。あるいは、今回の事故を経てもなほ、原発全廃は不可能と分かつてゐる、だから当座は頼らざるを得ないことも分かつてゐるではないか。

 言葉の綾といふものがある。そんなものは文学の世界に任せておけばよろしい。この二カ月で我々が思ひ知つたのは、政治家と科学者とメディアの世界は言葉の綾の世界にゐてはいけないといふことだらう。「安全神話」などといふ、本来何を意味してゐるのか、曖昧を通り越して意味不明の言葉で原発を語ること自体、無責任のそしりを免れない。

 「安全神話」ではなく、「原発への安全信仰」とでも言つてゐたなら、信仰が崩れるのは少しも無理はなく、原発教(狂)の信仰崩壊は無理な言ひ回しではなかつた。あるいは、「原発の安全はやはり神話だつた」と言へば、少しもをかしくもないし、曖昧でもなく矛盾もなかつたのだが。

 ≪想定外≫ 
 これも、バカバカしい。政治家や科学者に軽々しく使つて欲しくない。曖昧な言葉、あるいは言葉の曖昧な使ひ方なら、私のやうな文学畑(お花畑みたやうなもの)にゐるおめでたい人間に任せておきなさい。

 ただ、この言葉も一度よく考へておきませう。今回の地震も津波も「想定外」だと多くの人々が口にした。地震学者、歴史家、政治家、メディア、それこそうんざりするほど目にもしたし耳にもした。確かに千年に一度の巨大な災害は想定外だつたかもしれない。マグニチュード9も15メートル20メートルの津波も想定は出来なかつたらう。日本人全て、我々一人の例外もなく、想定出来なかつた、想像できなかつた。

 しかし、「政治家や科学者は」、とメディアも≪友愛の伝道師≫鳩山も宣ふ、「想定外といふ言葉は使つてはならない」と。その限りにおいてその通りである。
 
 私はここで文学畑の立場を発揮して呟きたくなる。「人生、すべて想定外なんだがなぁ」。政治家も科学者もメディアも、この大震災を経験して、今後はあらゆる事態を想定出来るのだらうか。浜岡原発を止めさせれば、それで事足りるのだらうか。

 今回の大震災を、少なくともその結果としての被害を、人間は想定できなかつた。そのことはこれからも同じではないか。これ以上の被害が起こることを私達は想定出来るのか? 言葉の綾で書いておく。想定といふ言葉が存在するといふことは、私達が想定以上・想定外のことを既に想定してゐるといふことだらう。「安全神話」と同じロジックだ。

 福島の海岸線に20メートルの津波の再来を想定しようと、浜岡原発を襲ふマグニチュード9の地震と15メートの津波を想定しようと、もしもマグニチュード9.5とか10とかの異常な規模の地震が起こつたら、もしも50メートルの巨大津波が起こつたら、再び「想定外」とメディアも政治家も科学者も言ふのだらうか。想定出来なかつた科学者や行政をメディアが批判するのだらうか。

 そんな巨大なものはあり得ないと、そこまで大げさに言つてあげつらふ必要はないと、さう言つた途端に、我々はこの間の出来事を想定外と呼ぶ自由を容認してしまふことにならないか。つまりマグニチュード10や50メートルの津波をバカバカしいといふなら、今回の地震も津波もやはり、想定するのがバカバカしい程の「想定外」だつたと言つても許されることになる。これは言葉の綾だらうか。

    ************************************

 民主党政権がここまで酷いとは思はなかつた、こればかりは想定外だつた、などといふことも言つてはなるまい。メディアも有権者も一度考へておいてほしい。民主党政権ではなかつたら、震災と原発事故の初動において、災害をここまで大きくしたか、殊に原発の冷却水の放水の順序を間違へたこと、そしてパフォーマンスとして自衛隊のヘリによる放水を命じて、貴重な時間をロスした民主党政権が国民を危険に曝し、海外の不信を買つて国の名誉を汚したことは否定できまい。多くの識者が言ふがごとく、放水の専門は消防庁であらう。

 ついでに書いておくが、自衛隊は災害救助隊ではない。それが第一の使命ではない。今回十万人といふ全兵力の半分近くが駆り出された。国防が手薄になつたことは否定できない。それでも、なんとかこの国が存在するがごとくに見えるのは、アメリカがゐるから、それだけのことだ。

 ついでにこれも想定してみて頂きたい。数ヵ月後、南海・東南海に、或は首都直下に巨大地震が起きたら、十万人の「災害救助隊」で事足りるのか? 自衛隊を今の倍の組織にしなければ、到底この国は自国の力で救助も復興も出来ない。その程度のことは大人なら、いやせめて政治家は「想定」しておいてほしい。

 それを自民党も含め、年々防衛予算を削り、仕分け、自衛隊の兵員削減をしてきた。想定外のことではなく、容易に想定出来ることを想定しないのであれば、政治家もメディアも相当程度劣悪といふことであり、それを生み出した我々国民も、それらに相応しい劣悪な国民だといふことであり、私達はさういふ劣化した時代を生きてゐるといふ、せめてその程度の認識はしておくべきだらう。

 さうなると、七日付朝日新聞朝刊のオピニオンのMなる早稲田大学教授の言論は寝言としか思はれない。引用する。≪……災害派遣活動の評価は自衛隊の「軍」としての肯定を意味しない。/日本がいま直面する危機は、未曾有の大災害と原子力災害である。自衛隊の「軍」としての属性を徐々に縮小し、将来的には海外にも展開できる、非軍事の多機能的な災害救援隊に転換すべきではないだろうか。≫

 寝惚けてゐるのか、世界の現実を知らずに書いたのか。今回の災害で自衛隊があれだけの活躍をしてくれたのは、まさに「軍」としての属性を有してゐたればこそ、この余りにも自明のことが憲法大好き人間には分からないと見える。迅速大規模な機動力は軍事訓練ゆゑの規律から生まれたものである。その議論は措くとしても、例へば十万人が出動できる「救援隊」を維持し続けるとして、その出動が千年に一度の災害を想定してゐたら、国民は一体総員何人の救援組織を維持し続ける気になるだらうか。それが何万人であらうと、簡単に仕分けられて、一万人程度を維持する意思すら国民は失ふであらう。

 二十万、三十万の軍隊を維持して初めて、未曾有の災害になんとか対処できた(出来たのかどうかの検証は今後の絶対条件だが)といふ現実が、このMといふ憲法学者には見えない。多くの国民が今回漸く気がついた現実に学者は未だ目をつぶる。嗚呼。
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by dokudankoji | 2011-05-08 21:45 | 雑感


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