2011年 04月 28日

両陛下にカメラを向ける若者に思ふ

 週刊新潮で読んだのだが、避難所を慰問なさつた両陛下に至近距離で携帯のカメラを向ける輩がゐるとか。年輩の被災者は概ね感謝してゐたやうだが、若者のマナーを新潮が嘆いてゐる。福島県二葉町の人々が避難した埼玉県の旧騎西高校でのことださうだが、町役場の担当者は、近くで両陛下にカメラ向けるのは失礼だから控へるやう、前以て注意はしてゐたらしい。一二週間前の、やはり新潮だつたか、被災者の若者が両陛下の前で胡坐をかいてゐたと写真入りで報じてゐた。

 新潮は「マナー」といふ言葉で片づけてゐる。カタカナ語で片づけるところなど如何にも週刊誌的だが、私はやはりせめて礼儀・礼節と言ひかへたい。さらに言へば、人間のあり様とでもいふべき問題だと思つてゐる。人との付き合ひ方、人との距離の取り方とでもいふものが、昨今まるで意識されず、無視されるやうになつてゐはしないか。そんな躾も無くなつて久しいといふことか。

 陛下をなんと心得る、さう詰るのも、それはそれでよいのだが、その前に一つ考へておきたい。これを読んでゐる方にお聞きする。あなたは、見ず知らずの人間にカメラを向けることが出来るか? 見ず知らずの人間にカメラを向けられたら、どんな気持がするか?私だつたら、無言で向けられたカメラなら、無言で引つ手繰る、とまでは言はぬが、そのくらゐ不愉快だ。しかも新潮の記事では、「50センチもないかと思えるほどの至近距離に近づき、カシャカシャやる10代の若者もいた」とのこと。

 両陛下に対して不敬だといつたことをここで書くつもりはない。それ以前の問題だといふことだ。その場その場の「あるべき姿・形」、さういふものを私たちの時代は失つてしまつたといふことだ。ある状況では如何に振る舞ふべきか、いかなる振る舞ひは恥づべきか、さういふ物差しを私達は失つた。生きる基準たる物差しを失ふ――ひとことで言へば、醜悪といふことだ。

 日本人が、どうして「ガマン」といふ美徳の持ち主であり得よう。海外のメディアが如何に感動しようが知つたことではない。私には余りにも醜悪な「無神経」としか思へない。

 公に書くつもりはなかつたのだが、私的なこと最近の私自身の経験を書いておく。先週二泊三日で、「被災」した知人を仙台に見舞つた。仙台市内在住だが、幸ひ家も流されず地震の被害も殆どなく、「被災」らしきことは、最初の一週間近く電気が通じず、暗闇の中で寒さをしのがざるを得なかつたことと、ガスが復旧するまで約一月は風呂にもまともに入れなかつたといふ程度のことで、避難所暮らしが続く人々に比べれば遥かにましな生活を送つてゐる。

 その知人が、遠路見舞つた私達を歓迎して、ちょうど満開だつた桜を見ようと船岡城址に誘つてくれた。その帰路、知人も初めてださうだが、仙台空港の南、名取川の北の辺りの津波被災地に連れて行つてくれた。その悲惨な状況をここで克明に描写するつもりはない。ただ、ありきたりな言ひ方だが、四角いテレビの画面や新聞雑誌の映像では絶対に伝へられぬものがあるといふこと。四方に広がる空気。言葉では現せぬし映像でも伝へることは絶対に不可能だらう。恐らく私は、そのことが確かめたくて、あるいは何かを確認したくて現地に行つたのだと思ふ。

 その「廃墟」の中に立ち尽くした一行四人は終始ほとんど無言だつた。言葉が出ない。涙が出る、それだけだ。知人が押し殺したやうな声で呟いた、「これは……、カメラはなぁ……」。相手に聞こえたか、私は小さな声で応じた、「それはやめようよ」。

 避難所の若者にもこのことを分かつて欲しい。してはいけないことが世の中にはある。こちらの立場、相手の立場、その相関的関係の中に生まれるのが人間の付き合ひであり、礼節だらう。これは社会で生きて行く上に最低限必要なものではないのか。人間関係だけではなく、置かれた状況を適切に把握すること、自分が如何なる立場に置かれてゐるか、それを瞬間瞬間受け取つて行くことが、その場その場の礼儀なのではないか。同時にその礼を守ることが、翻つて必ず自分の身を守ることにも繋がるのだ。

 私はジャーナリストでもカメラマンでもない。さうであつたなら、私は恐らくシャッターを切り続けたであらうし、彼等がさうしても、私はそれを不快には思はない。批判するつもりもない。その立場がそれを許す。それはその人の仕事であり宿命ですらある。

 凄絶な災害に遭つて、家を失ひ肉親を失ふ、あるいは今なほ家族がみな行方不明かもしれない。その現場に普通の人間がカメラを向けるのは、犯罪行為、人非人の所業と私には思はれたといふこと。ほぼ死と絶望とが覆ひ尽くしてゐる、その場にカメラを向けることは私はしたくない。その場その状況への私の礼儀・礼節、平たく言へば「附き合ひ方」とでもいふ問題なのだ。

 被災した人々を避難所に慰問なさる両陛下に被災者が取るべき態度、抱くべき思ひは感謝の念よりほかにないではないか。若者が成長していつかそのことに気づく時が来ることを祈るのみ。
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by dokudankoji | 2011-04-28 02:31 | 雑感 | Trackback | Comments(3)
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Commented by ubonibihc at 2011-04-28 07:10 x
仙台のある避難所の運営を支援しています。生憎両陛下のお見舞先とは違いましたが、お見舞いのニュースが流れると当避難所でも年配の方を中心にテレビに集まり、静かに見入っている様子が印象的でした。自然と両陛下の生活の話になり、常日頃からの両陛下の祭祀活動にも話題が及んでいました。
今朝の河北新報(地域紙)を見ても、両陛下の訪問を素直に、そして謙虚に喜んでいる様子が感じられます。
http://www.kahoku.co.jp/column/syunju/20110428_01.htm
このことのみではありませんが、よく言われる東北の方々の静かな謙虚さ、忍耐強さに触れ、頭の下がる思いです。
Commented by ubonibihc at 2011-04-28 07:11 x
(続き)両陛下にカメラを向ける若者(時にはオバサンたち?)には悲しくなりますが、東北には常識ある謙虚な方々も多くいらっしゃるように感じています。若者たちがいつか自らの行為の醜さに思い至るとよいですね。
被災地での撮影についても時折避難所で話題に上りますが、思いは様々ながら、勿論皆さん物見遊山の撮影を歓迎するわけもありません。しかし、やはりこの凄まじさは日本の皆さんに見てもらいたい、という思いの方も多くいらっしゃるようです。正解はありませんが、被災地を訪れるならば、決して突き放して第三者として見るのでもなく、あるいは逆にわかったつもりで見るのでもなく、飽くまでも謙虚に「ここに自分の家があったとしたら、ここに自分の家族がいたら」と思いめぐらしつつ見て、受け止める以外にないのでは、と感じております。
Commented by dokudankoji at 2011-04-28 20:27
ubonibihc様
仰る通りかとも思ひますが、私はカメラを向けて被災地を写しても、私が現場で感じたものは写し取れないといふこと。その途端にその映像は、単なる好奇心の対象になりかねない。多分、私はその時被災地で自分が感じた衝撃や静寂をその場の「空気」として記憶すると思ひます。映像に残す必要もないと判断したのです。
そして、あの凄まじさは、メディアが世界に向けて十分発信、伝へてゐます。
避難所支援、しつかりとなさつて下さい。気持ちはあつても、誰にでもできることではない、さういふ人々の分も宜しくご活躍を。


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