福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2010年 03月 10日

長いですが~~雑感書きなぐり

 八日の産経新聞に掲載された東京大学教授山内昌之氏のコラムで知つたが、「外交フォーラム」が廃刊になつたといふ。冷戦終結後、日本外交の海外への発信媒体としては貴重な存在だつた。これもあの事業仕分けのおかげださうだ。山内氏のコラムによると、事業仕分けとは直接関係ないが、海外に向けて我が国のことを発信してきた二つの媒体、「ジャパン・エコー」(英・仏語の他、アラビア語でも発刊されてゐた)と、国際交流基金の「をちこち(遠近)」も既に廃刊とのことだ。

 正月に海外から届いたカードの一つに、「当地にゐて最近気になるのは、日本の姿が見えにくくなつたことです」と書いてきたものがある。ヨーロッパの主要国に赴任してゐる特命全権大使からのものである。どこの国か、あへて書かぬが、おそらくどこの国にゐても、外交官は同じことを感じてゐるだらう。

 インド洋からの海自の引き揚げ等々、昨今の無定見な外交安保に関する姿勢にしろ、内向きのままただただ迷走を続け、なほかつ閣僚間に全く意思の疎通が感じられない現政権がいつまで保つか知らぬが、その受け皿一つ作れぬ野党は言ふまでもなく、現今の政治家にこの国を託す気にはなれない。あへて時流に逆らふが、いつそのこと政治家主導をやめて官僚主導にしたら如何かとすら考へてしまふ。国家を担つて来たといふ意味では官僚こそ政治のエリートとも言ひ得る。国を担ふ気概においては、いはゆる政治家より遥かに上である。私の知人に限定しても、どうも政治家よりは官僚の方が常識があり教養(知性)があると思へる事さへしばしばである。もつとも、その官僚上がりの政治家たちが日本をこんな国にしてしまつたとも言へるし、政治家の中にも話してゐて頼もしいと思へる人がゐないでもないが。

 「外交フォーラム」は一九八八年創刊といふ。私がその存在を知つたのは、その二年後になるが、つまりこの媒体はベルリンの壁崩壊、冷戦終結、湾岸戦争からイラク紛争まで、世紀の変はり目に、ただでさへ存在感の薄い我が国を海外にアピールして来た貴重な発信源の一つだつた。「ジャパン・エコー」にしても、「をちこち」にしても、海外にわが国の実情を伝へる、外交のみではない日本社会や文化の発信源だつたのだ。(「外交フォーラム」にしても別に小難しい外交の話だけを取り上げるものではない。私が英国に滞在した折、ロンドン在住の日本人演劇評論家とミュージカル「ミス・サイゴン」に出てゐた日本人女優、そして私と上記の大使の四人でロンドンと日本の演劇事情について話した座談会なども載せてゐる。)さういふ発信も外交の一つだといふことが分からぬ、又は考へぬ政治家にこの国を託してはならない。

 これらはスーパー・コンピューターや防衛予算と共に、絶対に事業仕分けの対象にしてはいけない。これらの「事業」を削つて、「子ども手当」とは何事か。「高校授業料無償化」などと、現政権は何を考へてゐるのか。

 かたや、世の中はグローバル化グローバル化と念仏のごとく唱へる。グローバルとは、まさか地球上に国境が無くなつたといふ意味ではなからう。憲法前文のごとく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ゐる国家や国民など地球上にありはしない。北朝鮮と拉致を考へれば、簡単に分かる道理だ。

 冷戦構造が「支へて」ゐた世界の安定が失せ、アメリカの「一極支配」など寝言のごときもの、中国の大国化は言ふまでもなく、「戦争の世紀」としての二十世紀がテロの世紀に変つた現在、複雑な国家の力学の中で各国が鬩ぎ合ひ、しかもテロリストといふ国家の枠をはみ出した人間たちと地球規模で対決せざるを得なくなつたこと、それこそグローバル化の真の意味だと私は考へてゐる。この日本国内に中国や北朝鮮の諜報機関がしつかりと存在してゐるばかりか、イスラムのテロリストすら潜入し得る、それがグローバル化だと、とりあへず私は定義しておく。

 そのグローバルな世界で日本が生き抜くには、子ども手当や高校の授業料あるいは高速道路料金の問題より外に、考へ対処せねばならぬこと、国家の予算を回さねばならぬことがあるのではないか。それ思考し手を打てぬ政権は消えて欲しい。現政権が、例へば共産化を望むといふならそれでもよい。アメリカと手を切るといふなら、それもよからう。

 何でもいいから、この国をかうしたいと、はつきりして貰へまいか。それがあればまだましだ。「外国人参政権は愛のテーマ」だとか「いのちを守りたい」だとかの御託で首相は務まらない。首相が確信犯的に左翼全体主義に向かふといふなら、それはそれだ。

 となると、そこに透けて見える左翼全体主義への傾斜を、聡明なる国民がいち早く気づき現政権を押しとどめるしか手はない。いやいや、昨年の選挙であれだけ雪崩を打つて民主に傾いた国民だ、今更現政権にケチを附けるわけはない? 国民は戦時中の軍による右翼全体主義に今時になつて懲り懲りして、今度は左翼全体主義に走らうといふのだらうか。それなら、それもよろしい。私はこの国の国民がそれを望んでさうなるといふなら、何も言はぬ。しかし、望みもせず、さうなる危険を感じもせず、国の壊れることを気にも止めずに左傾化することは避けたい。敵としての左翼なり全体主義なら、あつぱれだと思つてゐる。否定などしない。こちらも闘ふだけだ。

 さらに恐れるのは、全体主義は左だけの特許ではないこと。日本の中にあるあらゆる偏狭な全体主義の可能性を私は恐れてゐる。現今の政治状況への鬱憤がいつか最大値に達した時、国民自身が英雄待望に傾き、メディアがそれを煽る、さういふ状況はあり得ぬと誰が断言できるのか。私は、小澤は近々潰れると思つてゐる。好事魔多しといふではないか。それにしても、ではあるが――小澤が目指してゐるとしか思へぬ左翼全体主義を国民は本気で願つて、民主政権を、政権交代を望んだのか。夫婦別姓も外国人参政権も人権擁護法も、すべて国家解体と左翼全体主義につながる。それを望んで民主政権を誕生させたのか。

 警察の捜査令状・逮捕令状もなしに、ある日一般人からなる人権擁護委員会のいひなりに連行される社会を望む国民がこの日本にゐるとは思ひたくない。しかも、その擁護委員には外国人でもなれるといふ。そんな法律が自民政権下ですら成立する危ふさがあつた。現政権下ではなほのことである。しかも、たかだか隣家の騒音が煩い、それだけで人権侵害だと各地に出来る擁護委員会に訴へられる、それだけで家宅捜査から連行も可能となる、そんなことが起つてしまつてから、そんなつもりではなかつたでは済まされなからう。暗黒の恐怖政治、全体主義国家、それが現実のものとなりかねないのに――

 話題を変へる――橋下大阪府知事は昨年だつたか、文楽興行への大阪府からの補助を大幅に削減した。同じことが、今年度から現政権下で国家規模で行はれる公算が大である。既に演劇界ではそのことによる興行の不採算・赤字に頭を抱へてゐる。おそらく、演劇興行の主催者は、例へばより小さな安い劇場での興行を企画し、俳優へのギャランティーを低く抑へようとするに違ひない。それは現在の劇場の経営にも影響する。多くの中劇場が経営不振から閉鎖になることも考へられる。潰れる劇団、潰れる劇場も出てくるかもしれない。この種のことは音楽界においても同じだらう。

 しかし、私はそれも仕方ないことと考へる。国の歳入がここまで落ちた時、何を切るか。そこに、その国がどこに向かはうとしてゐるかが見える。国を失つて国民は存在するか。民族は存在するか。地球市民? 冗談ではない。誰にも守つて貰へぬ、どこにも属さぬ人種。その存続は不可能だらう。ベトナム戦争のボートピープルを忘れてはならない。

 子ども手当も高校の授業料無償化も要らぬ。義務教育でもない高校の授業料を、なぜ無償化しなくてはならないか、納得のいく説明を政府はしてゐるか。それぞれが自己で負担すべきものを他人の財布を当てにするがごとき甘へをなくすことから始めてほしい。民主党のばら撒き政策のツケは、税金以外の何で賄へるのか。結局手当を貰つて育てた子供たちが、将来負担しなくてはならない国債におんぶしようといふのか。その子供らに、やがて親が、「日本をこんな国にして、俺達に高負担をおつ被せて高い税金を払へといふのか」と指弾されはしないか。もしも選択性夫婦別姓案が通つてしまひ、親子の絆も薄れて来たら、今子供を育ててゐる親が、その子供から「名字の違ふ親なんてカンケーネー」、さう言はれるのが落ちではあるまいか。

 と、書いたところで、岡田外相が核の密約がやはりありましたと、言つてしまつたといふニュース。しかも、有識者会議の結論は産経の記事に従へば、かういふことになる。つまり、≪昭和35(1960)年の日米安保条約改定時に、核兵器搭載艦船の寄港・通過を事前協議の対象外とする了解の有無については、「暗黙の合意」による「広義の密約」があったと考へられるが、一方、昭和44年の沖縄返還決定時の、有事の際の沖縄への核再配備の「合意」の評価は、政府内で引き継がれていないことなどを理由に、(有識者会議は)密約と認定しなかった≫となる。つまり、前者は広義の密約、後者は認定せずといふことになる。何とも不得要領だが、そのことはともかくとして――

 なんと外相は記者会見で、「一般的に考へると密約だ」と断定してしまつた。有識者の報告書とは食ひ違ふ。食ひ違ふ事はともかくとして、さらに、首相と声をそろへて「非核三原則」は守るとのたまふ。二人ともバカか白痴か。密約でも何でもアメリカと何の相談もなしに、密約を否定的に騒ぎ立て、一方では非核三原則だといふ。密約は本当に過ちなのか。密約の何が悪い。政治の世界はおろか、国家間であれ社会であれ家庭であれ、秘密や密約なしに成り立つか。誰であれ、あるいは大なり小なりこの世は嘘と秘密で成り立つてゐる。過去の政治家が国のため已むを得ざる選択として密約を選んだなら、私はそれを尊重する。それを相手方(アメリカの立場も)無視して曝け出す。露悪趣味に似た醜悪な自己欺瞞としか思へぬ。個人であれ、国家であれ、嘘も秘密も一度持つたら墓場まで持つて行くことだ。

 普天間移転にせよ、核の密約にせよ、自分で騒ぎ立て事態を肥大化させて、自分の首を絞めてゐることに気がつかぬとしたら気がふれてゐる以外の何物でもない。自民政治の総括のつもりかもしれないが、民主党や現政権が自分で自分の首を絞めてくれるのは一向に構はぬが、ビー玉のやうなうつろな目の首相と下三白の据つたやうな目つきの外相に日本の首を絞められては、国民が堪つたものではないと思ふが、いかが。

 一つ、提案、普天間からも日本国内からもアメリカ軍には「撤退」して頂かうではないか。核も絶対に持ち込ませないどころか、日本領海内に入らせない。つまり日米同盟の解消を現政権は申し出たらいかが。普天間問題と密約問題とでそれと同等の提案をしてしまつたことに、あの人達は気がついてゐるのだらうか。気がついてゐるなら意図的に中国の支配下に入りたいと、全世界に表明してゐることにならう。意図的ではないなら、政治音痴の阿呆といふ外ない。

 それとも、その先に、核保有と自衛隊の軍隊化、軍事予算の大幅増と福祉切り捨てを既に考へた上での蛮勇か? それならそれで見上げたものだが……。
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by dokudankoji | 2010-03-10 02:21 | 落書帳 | Trackback(2) | Comments(6)
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Commented at 2010-03-11 09:37 x
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Commented at 2010-03-11 16:36 x
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Commented by dokudankoji at 2010-03-11 17:52
諒軒さま
いつもながらの変換ミス等の御指摘恐縮。あまりお気遣ひなく。
もちろん、訂正しておきました。
ただ、小生自身はあまりこの種のミスを、気にしないことにしてゐます。さもないと、書くのに時間を取られすぎますので。また、正仮名正漢字への変換ソフトといふかHPがあるのも存じてをりますが、それを使つては味気なく、正仮名を書く意識も薄れます。

なほ、「~ほしい」については私はわかりません。他の読者の方、いかがでせう、「~してほしい」といふ言ひ回しは関東人の伝統的な語法にはなかつたといふ御指摘なのですが。小学館の日本語大辞典を見ると、「好色五人女」の、つまり一六〇〇年代からの用例が出てゐます。三浦朱門さんの例まで出てゐますが、三浦さんでは頼りなさすぎですが、どなたか、専門家の方に確たる根拠とを教へて貰ひたい。と、するのと、教へてほしいとするのと、一体どちらが……。
Commented at 2010-03-11 21:43 x
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Commented by dokudankoji at 2010-03-11 22:55
N・I様
鍵付きコメント、有難う存じます。
記事の更新がはなはだ不規則ですが、よろしく。
「若者も、中高年も、生き様が美しくなくなってきた」といふお言葉、肝に銘じます。私自身、折々吾身を振り返つて、昔はもう少しましだつたのではと、忸怩たる気分に陥ることがあります。
Commented by 諒軒 at 2010-03-12 06:59 x
戰後高知で生まれ、大學に入る時に上京した私自身は知らなかつたのですが、大正六年生まれの恩師に言はれたことです。その後、山本夏彦さんが同じ趣旨のことを書いてゐるのを讀んで、なるほどと思つたことがあります。
今、探してみると、「私の文章作法(一)」(『愚圖の大いそがし』所收)にありました。曰く「水上龍太郎はその名高い「貝殻追放」のなかで、東京では何々してもらひたいと言つて、何々してほしいとは言はない。ほしいは武者小路實篤から出た。武者小路はその名の通り公??の出である。だから上方言葉を用ゐても自然でありをかしくないと書いたが、これが日本中を覆ふとは思はなかつた」と。


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