福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2010年 03月 07日

附き合ふこと、信ずること

 六日の産経に論説委員の福島敏雄氏が「遠野物語」に触れた論説を書いてゐた。その内容はともあれ、私の連想は遠野の河童の存在の真偽から、信ずることとはどういふことかへと向かつてしまひ、福島氏が何を書かうとしたのか、その論説を読み終へず、かうしてパソコンに向かつてゐる。

 河童の存在を信ずるなど、今時バカバカしい、ましてや河童の子を孕んだ女の話など信ずるも何もない程バカバカしいといふのが、恐らく昨今では真つ当な感じ方なのだらう。そこで私は考へる。今時バカバカしいといふ話が、昔はバカバカしくなかつたとしたら、それはなぜなのかといふこと。昔バカバカしくなく人々が現実のことと信じてゐたことが、なぜ、今、それ程バカバカしくて現実のこととは思へなくなつてしまふのか。

 今も昔も、私たちは子供たちに月には兎がゐると話して聞かせ、キリスト教国でもない日本でサンタクロースのプレゼントを心待ちにする子供たちが大勢ゐる。私達は兎を信じてゐたのかゐないのか。サンタクロースはゐるのかゐないのか。

 私事に亙るが、この正月五日の夕刻のこと。犬を連れて街を歩いてゐた。大磯の鴫立庵から駅に向かひ、そのまま駅の方へ行くつもりでゐた。駅の二百メートルほど手前を左に折れて東海道線のガードを潜る裏道がある。その角に来た瞬間、なんの前触れもなく、私を包む空気がフッと変はつた。街の色合ひまで僅かに変はつた心持がし、私は何とも言へぬ、柔かな空気を感じた。相当に寒い夕暮れであつたのに。穏やかな温かさを感じた。私は死んだ父親が近くにゐると思つた。信ずる信じないと言つてみても始らない。事実、ゐたのである。姿は見えない、しかし、その瞬間、父は現実にそこにゐた。私の心の中になどといふセンチメンタリズムではない。実在してゐた。さう言ひ表すしかない感覚。父が死んでから十五年余りの間、正直のところ父を「身近に感じた」などといふ洒落た経験など一度もなかつたのだが。

 父親のことを考へながら歩いてゐたのでも何でもない。私はただ犬と歩くことが楽しく、忙しい仕事の気分転換に、犬を相手に益体もないことをぺちやくちやと喋りながら、自宅に戻る道筋を考へてゐたに過ぎない。その私を、いはば唐突に襲つたあの感覚は何だつたのか。私は単純に父親が私に会ひに来た、さう「信じて」ゐる。

 これを馬鹿げた話と言つて済ませられるだらうか。その数日前、多分正月二日のことと思ふが、父の評論集第十六巻の再校の校正をしてゐて、あるエッセイを読みながら自分が生前の父と会話してゐることに気がついた。といふか、四十年以上前、高校や大学の頃、父と議論した記憶を辿つてゐたのかもしれない。さういふ経験、つまり、嘗て父親と会話したり、父親の書いたものを読み直したり、その中に生前の父親を生々しく思い出したり、あるいは、無意識に生前の父親とあれこれ対話したり――さういふ経験や記憶や空想の会話を「偽物」だとか絵空事だと断定できるものだらうか。それらの過去も記憶も空想も私にとつて紛れもない現実なのだ。その思ひ出や会話の中に存在する父親は紛れもなく生きてゐる。その瞬間の父親は、少なくとも私にとつて実在してゐる。

 言葉を変へてみよう。私は父の文章に接する時、その文章に正対して附き合つてゐる。父に問ひかけ、返答を予測し、その返答に反論し……。父が生きてゐた時と同じことをしてゐる。まさに紛れもなくと言ふほかなく、そこにあるのは父親との附き合ひそのものだ。かう反論する人もゐよう。私の問ひかけに父がどう答へるか、それはお前が都合よく造り出した答へさと。さう言つて済ませられるだらうか。

 生きてゐた時に私が附き合つた父、あるいは私が書物や舞台を通じて嘗て附き合つた父は紛れもなく現在の私と共に存在してゐるとも言へるが、一方、私がその存在に正対して附き合ふつもりがない限り決してさういふ父は姿を現さない、存在しない。さらに附け加へるならば運と時の要素も重なつて来るのではないか。こちらが正月の二日に父親と対話しながらの読書をしてゐなければ、五日に街を歩いてゐて父親の存在を空気の中に感じ取ることもなかつたらう。さういふ意味で物事に偶然はない。さらに言へば、おそらく評論集の編纂で、うんざりするほど父のものを読み続けるといふ経験をしてゐなかつたら、五日に父親と実際に「出会ふ」こともなかつたと思ふ。

 この評論集も、偶然のやうで偶然ではない。今回の話があるまで、幾つかの出版の話や評論集の話を父の死後何度か断つて来た。今回の出版の企画を受けたのも、劇団といふ「荷物」がなくなつたり、父の死から一定の時間が経つたことなど様々な決断の要素があつた。そのタイミングも偶然のやうであつて、しかし偶然ではないと私は感じてゐる。

 ある時、玉三郎がかう言つたことがある。確か演劇教育について話してゐた時だと思ふ。「福田さん、物事つて、思ひついてから辿りつくまで十年掛りますね。」私は「さう、十年先に自分がどうなるか、そこを見てゐないと今の自分も、ゐないも同然でせうね」と答へた。もう二十年余り前のことだが、いろいろ話した中でこの「十年説」は妙に頭に残つてゐる。父の評論集も父が死んで暫くするとあれやこれや企画が持ち込まれたが、どれもその当時の私には違ふと思はれた。

 不思議なものだが、三百人劇場の売却と劇団の在り方にけりを附けるのと、父の十三回忌が同じ時期だつた。その三百人劇場の売却にしても、思ひ立つてからまさしく十年掛けての難事業だつた。一方、父を様々な方角から眺め出版を思ひ定めるのに、やはり十年余りを要したのだと思ふ。その節目の時に齎された評論集の出版話しを、今となつては、偶然とは思へないのである。

 話が横道に逸れたやうに思つてゐる方もあるかもしれないが、さうではない。何かと出合ふ、ある機会に巡り合ふ、人と出合ふといふのは単なる偶然ではない。父と再び巡り合ふまで十三回忌を済ませなくてはならなかつたことと、譬へばアルバン・ベルク弦楽四重奏団が奏するベートーベンの十五番に私が出合ふのに、様々の「偶然」といふ名の必然を重ね、ある時ある状況に置かれて初めて名演奏を体に受け止め、心が応じるといふ経験をするわけだが、そこに辿り着くまでには曲がりくねつた遠い道のりを歩かねばならぬといふことと同断ではないか。実際その演奏に出合ふのも、私が何百といふ曲目と演奏に出合つた揚句なわけだ。

 ある時ある美術展である絵画と出会ふ。前にも見た絵であるにも拘らず、ある時突然その絵が語りかけて来る。さういふ経験は誰にでもあり得る。そんな場合を考へたらいい。その美術館に足を運んだその日の朝からの過ごしやう――慌ただしい一日だつたのか、ゆつたりした日曜の午後なのか。前の日までがせはしない日々だつたのか、せはしないがゆゑに、その日が貴重に思はれ、心の落ち着きを取り戻してゐたか。孤独だつたか否か、よき友とのよき交わりの後だつたか否か。ありとあらゆる「偶然」が、必然の一瞬を齎す。その時に、目の前の絵画に正対できるか否か。偶然の集積として目の前の絵と附き合へるか、絵を信じられるか。

 それは、我々がそこに辿り着くまでの、個人個人の人生の集積にほかならず、その個々人の人生の集積の背後には、その個人を育んだ家庭、社会そして国そのものの経験の集積、つまり歴史の集積があらねばならぬはずではないか。つまり、何かと附き合ふためには、いくつもの「偶然」の重なりが作用した集積としての必然的な出会ひの瞬間を必要とするのであり、対象が人であれ物であれ芸術であれ、あるいは今は亡き人であれ、その対象と正対して附き合へる必然の巡り合はせ、即ちその対象の存在を信じられる必然の出合ひが必要であらう、そんなことを昨今の私は考へてゐる。

 ここまで書いても、悲しいかな私は自分の書きたいことが書けないもどかしさに、実は切歯扼腕する。自分の表現力を棚に上げて、言葉による伝達の限界を、ひいては言葉自体の限界まで考へ出す。数日前に急に読み直した小林秀雄の「モオツァルト」を思い出した。小林秀雄は、美を前にした「沈黙」について語り、かう言つてゐる。「……一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちてゐるから、何かを語らうとする衝動を抑へ難く、而も、口を開けば嘘になるといふ意識を眠らせてはならぬ。」(原文は正漢字)……何か書く時、私がいつも考へること、それがこの「口を開けば嘘になる」といふことだ。以前玉三郎の「二人道成寺」について書いた時の文章も、住大夫の「寺子屋」について書いた時の文章も、その饒舌に私は堪へがたい程の嘘を感じる。

 対象への感動にせよ、その大いなる美そのものにせよ、言葉に乗せて語らうとした瞬間に、あゝ、言葉にすると嘘になると思はざるを得ないことは間々ある。そして、街角で父に「会つた」などといふことも、どう書いても嘘にならうが、それでも私はその時の感覚を信じ、さういふ父親との附き合ひを現実のものと受け止め、その偶然は必然の結果なのだと考へてゐる。

 付記――先日、知人が名指揮者ギュンター・ヴァントとの出合ひをミクシィに記してゐた。その出合ひもやはり、偶然の重なりとしての必然であり、対象たる演奏にどう附き合ひ、いかにそれを信じたかを物語るものだつた。私も早速ヴァントのCDを数枚購入した。ベートーベンの交響曲を聴いて驚愕した。そのことについては、いづれさらにヴァントを聴きこんで書いてみたいと思ふ。
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by dokudankoji | 2010-03-07 15:00 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
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Commented by 世留 at 2010-03-08 19:02 x
すみませんねぇ・・・。お邪魔します。
ヴァントさんですか?
あの、チューバの咆哮に箱鳴りを起こしてしまう柔なオペラシチーの大ホールで聴いたシューベルトの「未完成」を、そしてブルックナーの九番を、おホホホのホ!どのようにお伝えすれば宜しいでしょうか?!
思わず「あぁ、ヨーロッパ!」と呟いた後に、「行ったことないけど。」と念押ししてしまいました。
「あぁ、ヨーロッパ!!」


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