福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2010年 02月 09日

箴言に対する箴言(二)

 ロシュフコオの箴言の中で恆存が丸印(◎)を附したものでも、比較的短いもの、なほかつ私が気に入つたものか、あるいは恆存の書き込みがあるものを挙げる(原文正漢字、一部かなに直す)。

◎[二六] 凝(ぢつ)と見てゐられないもの、太陽と死。

◎[三四] 若し我々が高慢でなかつたら、他人の高慢を慨歎しないであらう。

◎[四二] 我々は理性のすべてに従ふだけの力を持たぬ。

◎[四九] 人は決して自ら想像するほど幸福でも不幸でもないものだ。

◎[七四] 恋愛には一種類しかない。が、無数の写し(コピー)がある。

 次の一節には丸印は附してゐないが、書き込みがたくさんある(★印を付ける)。
[八一] 我々は何ものも我々のためにしか愛することが出来ない。己れ自身よりも友人を本位にする場合も実は自分の好みと自分の快楽を追つてゐるに過ぎぬ。とは言へ、真にまつたき友情といふものは、この友人本位によつてのみ存在し得る。(★以下恆存書き込み★)自我愛はそのままでは卑しい/自我愛のない人間は他人を愛しえない/自我愛のない人間を愛する事も出来ない/もし真の愛があるとするなら、それを教へるものは自我愛である。

◎[八四] 友を疑ふことは友に欺かれるよりも恥づべきことだ。

◎[八六] 我々の猜疑は他人の欺瞞を正当化する。

◎[九三] 老人はお説教を好む。もはや悪いお手本の出来る年ではないのを自ら慰むるためである。

◎[一〇七] 決して嬌態をしないことを注目せしめるのは一種の嬌態だ。

◎[一一六] 意見を求めたり与へたりするやりかたほど不真面目なものはない。それを求める者は友の意向に敬意ある謙譲を持つかに見えるが、実は唯己が意見を是認せしめ、己が行為を保證せしむることしか考へてゐない。一方、意見する者は示された信頼に、熱烈にして私心なき情熱を報いる。ところが最も多くの場合、与へる意見のなかに己が誉しか索(もと)めてゐないのだ。

◎[一一八] 決して瞞されまいとする注意は屢々我々を瞞される危険に曝す。

◎[一三〇] 弱さは矯正できない唯一の欠点である。

◎[二〇八] 馬鹿者には自らを識り、その馬鹿さを巧みに用ふる者がある。

◎[二〇九] 狂気なしに生活する者は、自分が信ずるほど賢明ではない。

◎[二一六] 完き勇気とは、萬人の前で為し得ることを立会人なしに為すことだ。

 次の数節にも○印がなく書き込みのみである。
[二六四] 憐憫は屢々他人の不幸に於ける我々自身の不幸に対する感情である。それは我々の陥るかもしれない災難の巧みな先見だ。我々が他人に救ひを与へるのは、同じやうな境遇に際して彼らをしてそれを我々に与へしめんがためである。で、我々が彼等に為す斯かる奉仕は、的確に言へば、我々が予め我々自身に為す恩恵である。(★)ニーチェ流に――/憐憫は苦悩者に対して、助力の出来ぬ云ひわけだとする方がまだ真理だ。/しかし、私は憐憫の感情を知らぬ、故に、何も云ふ権利はないかもしれない。

[二七七] 女人は愛してゐなくとも、屢々愛してゐると信じてゐる。秘め事への没頭、慇懃(ギャラントリー)に与へられる精神の動揺、愛されるといふ逸楽に対する天性の傾向、それから拒むといふ苦痛が、彼女等に、単にコケットリイしか持つてゐない場合に情熱を持つてゐるのだと思ひ込ませる。(★)cf. Lawrence’s “Lady Chatterley’s Lover”

[二八六] 真に愛することをやめたものを、二度(ふたたび)愛することは不可能だ。(★)愛する力のないものを愛する事は困難だ。

[三〇三] 人が我々のことをどんなによく言はうと、我々は何ら新たに教はるところがない。(★)鋭い精神(自意識の強い精神)には、むしろ反対の箴言が必要だ。

◎[三一三] 何故に我々は、我々に起つた事件の委細枝葉に至るまでも覚えるほどの記憶力を持ちながら、而も、その事件を同じ人間に幾度語つたかといふことを思出すほどの記憶力も持たないのか?(★)宮廷人、ラ・ロシュフコオ! サロンの萌芽! フランス人!

 次の三連の節には、見出し番号から線が引いてあり、纏めて一つの書き込みがある。このページには栞まで挿んである。
◎[三三二] 女性は自らの嬌態(コケットリイ)のすべてを識らぬ。
◎[三三三] 女性は嫌悪の情なくしては完全な無情(つれなさ)を持たぬ。
◎[三三四] 女性は情熱(パッション)よりも嬌態(コケットリイ)を制することが困難である。(★)女性のみ?

[三六一] 嫉妬は常に愛と共に生れる。だが常に愛と共に死ぬものではない。(★)うがつてゐる様でうそだ。

[三六二] 殆んどあらゆる場合、女性がその恋人の死を痛哭するのは、彼等を愛してゐたためよりも、寧ろ、さらに愛される価値があつたかの如く思はれんがためである。(★)こんな点に至ると、ロシュフウコオは箴言をつくる病にとらはれてゐる様に思はれる/いやみがある。(上記二編のあるページにも栞が挿んである。それともその栞は同じページにある次の箴言のためのものか?)

◎[三六四] 妻の話をしてはならぬことは充分知つてゐる。が、己れ自身のことは尚更語つてならぬことを案外御存知ない。

 箴言に食傷しつつも、恆存がこの項目に○を付けてゐるところが面白い。以下(三)に続く。
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by dokudankoji | 2010-02-09 23:03 | 雑感


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