2010年 02月 04日
前掲の「箴言に対する箴言」を書いてゐて思い出したことを簡単に記す。恆存はその万博のキリスト教館でエリオットの「寺院の殺人」を演出した。主人公のトマス・ベケットは芥川比呂志。キリスト教館の祭壇を囲む客席(といふよりは教会の礼拝席か)で観る、カンタベリーの大司教ベケットの殉教は、その秋、東京の日経ホールの額縁舞台に場所を移しての公演とは比較にならぬ臨場感があつた。十二世紀の英国、国王ヘンリー二世の放つた刺客に聖堂内で暗殺された大司教の殉教を扱つた詩劇である。 観客は十二世紀のカンタベリーへと、その大聖堂内へといざなはれ、コーラス役のカンタベリーの市民と共にベケットの殉教を見守らされる。殉教によつて聖者となることを自らは懸命に避けようとする強い意思と、その結果の必然として起こる殉教に、観客は息をのみ、息を詰めて見入つてゐた。否応なしに殉教の厳しい姿の目撃者にされ、事件に立ち合はされる。 舞台と客席の仕切りがなく、カンタベーリーの市民の立場で大司教の死に立ち会つた、キリスト教館での三時間をまざまざと思ひ出す。後年、私はこの戯曲を再演する時、エリオットを理解できずに、自分で演出する事を避け、英国の演出家を呼んで日本語の担当として協力した。その時のベケットは、昨年まで二年に亙つて私の演出した「白鳥の歌」で主人公を演じた西本裕行である。彼とは「マクベス」でも一緒だつた。マクベスとベケットは西本にとつて六十年近い舞台歴のなかでも五指に入る舞台ではないかと思ふ。 さて、芥川の「寺院の殺人」の東京での初日前日の舞台稽古の日が、忘れもしない、忘れようもない、十一月二十五日だつた。すなはち三島由紀夫の自決の日である。ベケットの殉教と何ら通ずるところはないと、今でこそ分かるのだが、その時は、自ら死を招くがごとき行動を取るベケット、あるいは死を回避しようとはせぬベケットの姿と、三島の死へと突き進む姿とが重ならざるを得なかつた。その日の稽古は異様な雰囲気としか言ひやうのないものだつた。あの日は、それを経験した人の数だけの異様な経験となつた日なのだらう。しかし、ほんの五年前に、多くの人が知らぬ間に、静かに、恐らくは三島の後に従つた割腹自決が決行されてゐることを、殆どの日本人は知らずにゐる。 ここまで書いて、読みなおしてみて思ひついたことだが、「マクベス」と「寺院の殺人」と、全く異なる作品だが、主人公二人は案外近いところにゐるのかもしれない。自らの運命的な死に向かつて突き進む強固な意思または意地といふところでは、二人は甚だ近いところにゐるのではないか、少なくとも、自らは避けようとした道筋を辿らざるを得なつた宿命といふことにおいては相似形をなしてゐまいか。そして、これはあらゆる人間が辿る人生、われわれ人間といふものの宿命なのかもしれない。 人間に普遍的な、宿命への共感が悲劇といふジャンルを成立せしめてゐるのではないか。巨大な存在の滅亡の姿に、われわれは小さな己の姿を重ね合はせるとともに、その滅亡にどこか安堵してゐる。この共感と安堵の感情ほど、人間らしいものはない。
by dokudankoji
| 2010-02-04 16:21
| 芸術
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七年前に更新を止めたブログ「福田逸の備忘録~独断と偏見」ーー装いも新たにタイトルを変更して再開します。これからは、残された日々の徒然を気の向くまま、心の赴くままに綴っていきます。更新は不定期です、悪しからず。(なお、「独断と偏見」時代の記事も取捨選択して、少しづつ見えるようにしてきます。) by dokudankoji カレンダー
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