2010年 01月 29日

北海道砂川市空知太神社

 最高裁が違憲判決を出した空知太神社のことだが、ばかばかしいの一言に尽きる。合憲とした堀籠判事以外には、いづれ×をつけさせてもらふ。市有地を無償で神社に貸与してゐることに地元のクリスチャンが文句をつけた裁判で政教分離に反するといふのだ。尤も、産経新聞の記事によれば高裁への差し戻しは、逆の意味で信教の自由を脅かさないかとの疑念から、一定の配慮を見せた判決だといふ。つまり、神社の鳥居撤去などといふ事態に至れば氏子たちの信教の自由を阻害しかねないといふことらしい。さうであるにしても、政教分離に違反するといふそもそもの判決は独り歩きしないか、私は危惧する。

 この問題で考へるべきことが二つあると思ふ。第一は、神社と憲法とどちらが先に存在したかといふ問題。第二が、日本人にとつて神道は信仰なりや、といふ問題である。

 現行の憲法はいふまでもなく戦後生まれ。明治の大日本帝国憲法にしても、憲法があつて神社がその支配下に生み出されたのではない。神社も神社に纏はる日本人の生活も、近代の法律より遥か昔から存在した。そして、これは第二の問題に直結する。神社信仰は明治の遥か昔から存在し、日本人の生活に密接に繋がつてゐた。私は神道学の専門でもないし、神社について日頃勉強してゐるわけでもない。そんな私なりの感覚から言へば、神社信仰は日本人の生活文化でああり、つまり文化そのものであり、いはゆる西洋的な宗教の概念とは無縁のものではないかといふこと。普通の日本人の信仰は宗教といふより生活に密着した倫理であり生活道徳に近いものではないか。いはば、人智を超えたものへの謙虚な尊敬や畏怖の念であり、人間を包み育むものへの感謝の念のやうなものではないかと思つてゐる。

 そんなことを考へてゐたら、前にも触れたことのあるブログ「本からの贈り物」で、春日大社の宮司、葉室頼昭著『神道〈いのち〉を伝える』を紹介してゐた。是非、読んで頂きたい。私も早速アマゾンに注文したがまだ届いてゐないので、「本からの贈り物」に引用されてゐる葉室宮司の一文を孫引きする。≪神道というのは宗教ではないんです。神道というのは、日本人が昔から伝えてきた生き方であり、人生観なんですね。≫

 やはりさうなんだなと妙に納得してゐるが、葉室宮司は他にも神道や神社に纏はる本を書いてゐる。是非、参考にすべきであらう。

 「生き方・人生観」とは、つまりその民族の文化そのものに他ならない。となると、GHQの神道指令は、信教の自由を保障したり政教分離を目指したものなどではなく、まさしく日本の文化そのもの、そして文化の根底である生活習慣を破壊しよう企んだものと言へる。皇室の在り方を歪め、神社と皇室と神話の世界の結びつきを希薄にさせた。日本人の生活や意識と皇室や神社とを結ぶ紐帯を失はしめた。あるいは、日本人から「人生観」を奪ひ去つた行為といふべきだ。

 皇室(皇室典範)や神社といふ、日本人の歴史そのものを、ぽつと出の憲法の下位に置くことが間違つてゐる。それにしても戦争に負けるといふことは、かういふことなのか。恐ろしいことだ、民族の文化そのものを失ふ事になり得るのだから。
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by dokudankoji | 2010-01-29 18:42 | 雑感 | Trackback | Comments(1)
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Commented by 世留 at 2010-01-30 13:54 x
戦争に負けるなんて大したことありません。次に勝てばいいのですから(次よ早く来い)。敗北を悪とする、即ち無謬をもって善とする脆弱な神経が良くありません。時々、その弱さを神道の儀式に見てしまいます。例えば式年遷宮です。素晴らしい仕来りなのだけれど、弱いでしょ。我々にしてもほら、一寸汚れると禊(風呂・シャワー)です。汚れに耐えられませんね。戦の勝ち負けなんぞは、その時々です。でも負けが汚れになって、戦そのものまでもが穢れたものとなり、それに耐えられず不道徳の判定を下してしまう。米国がいくら周到であった(周到であるべきですよ、リアリズムですもの)にせよ、やはり勝ち負けを清濁で判断してしまう我々の神経(これは精神ではありません)がなければ、現在のような状況にはならなかったはずです。そこで精神はきっと言います。「戦争大好き!」


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