福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2010年 01月 24日

再び承前

 前掲記事を掲載したのが二十一日の深夜といふか日付としては二十二日になる。その二十二日の読売新聞東京版の夕刊を見て驚いた。金曜の読売の夕刊は時々目にする程度だが、私の好きな記事に「いやはや語辞典」といふコラムがある。毎回、各界で活躍する方が気に食はない言葉や言葉遣ひを一つ取り上げる短いエッセイだが頷ける意見が多い。

 二十二日はノンフィクション作家の工藤美代子が書いてゐて何とそれが「ふれあい」について。しかもサブタイトルまで、「現実をごまかす作為」となつてゐる。私が書いた一昨日の記事と符牒を合はせるやうな内容で偶然にしても出来すぎてゐると思つた。氏とは私も面識もあり、ある会では何度かご一緒してゐる。

 早速工藤氏にメールをした。一部引用をお許し頂いて書く。掻い摘んでいふと、新宿を歩いてゐて「ふれあい通り」と書いたプレートに行き合つて「奇異な」感じがしたといふ書き出しで、昨今「ふれあいという言葉が安易に」使はれすぎる、文化センターとかホールとかなんでもふれあひといふ冠がついてゐるが、「そんなに簡単に人間は誰かとふれあえるものなのか」と疑問を呈し、「『ふれあい通り』などといわれたら痴漢でも出そうな気がする」と続く。読みやすく、文章のリズムが心地よい。ノンフィクション作家の面目躍如といふ読みごこちである。

 そして、さらに続けて「心と心のふれあいなどというけれど、赤の他人とのふれあいを誰がそれほど望むのか」、一方的にふれあひを求めたらそれはストーカーだとあつて、ふれあふと言ふことについて、かう断言している、「人生の長い間には、誰かとふれあう喜びが生まれることを私は否定しない。しかし、それは自分が抱く感情であって、他人から押し付けられるものではないはずだ」と。正論といふほかない。そして、「不特定多数の人々が出入りする道路やホールで、いったいどうやってふれあえというのか」とジャブを繰り出す。

 三十年前にわが町に「ふれあい会館」と「ふれあい広場」ができたときに私が感じた気色の悪さとは、まさにここに書かれたままのものであつた。「ふれあい広場」と聞いた時に最初に頭に浮かんだのが痴漢と痴女が犇めいて触りあつてゐるイメージ。「ふれあい会館」に集合する変質者たち。

 工藤氏はこの言葉の蔓延のみの話題で終はらせず、後半は、ふれあひといふ発想が「なんでもかでも話し合えば問題は解決する」という発想に似てゐると言ひ、話しあひで戦争やテロまで起きなくなるかの如き現今の世相の欺瞞を指摘、「人間と人間の距離の取り方は非常に難しい……(略)……軽々しくふれあいがあれば世の中は平和だなどと思い込まないで欲しい」と結んでゐる。

 このエッセイを読んで私はほつとしたといふのが実感である。「ふれあい広場」について書いた時、頭の隅に私の語感が間違つてゐるのだらうかといふ、僅かとはいへ不安がよぎつたからだ。さうしたら、翌日の新聞で工藤氏のエッセイに出会つたわけで、ああ、同世代で同じやうな感じを抱いた方がゐると思ふとともに、三十年前、確かに「ふれあひ」は広場や会館の名前に使はれるべきではないといふ語感があつたといふ確信が持てた。あの頃から日本人は安易に人とふれあはうとしたか、ふれあへると考へたか、やたらにこの言葉を遣ひ出したのだ。

 これでも、ピンとこない方にはかう考へて頂きたい、あなたの住む街にある日、会館や広場ができ、あるいは新しい通りができ、そこに「さわりあい通り」と名づけられたら、どう感ずるか。それと同じ違和感と気色の悪さを私は三十年前に「ふれあい広場」に感じたのである。

 同じやうに、今、鳩山の発する言葉に虫唾が走るわけで、母親からの「献金」だか「手当」だかは私にはどうでもよい、むしろ母親からの資金提供を知つてゐたのではと聞かれて、「天地神明に誓ってまったく存じ上げなかった」などと言つてしまふ言語能力で首相を務め、毎日のやうに変な言葉遣ひをすることに、気色悪さを感ずるのだ。「存じ上げる」は謙譲語、したがつて自分を卑下し、もしくは、へりくだつて相手を立てる敬語の一種である。やはり、お手当を下さるお母様を御尊敬申し上げますとでも言ひたいのか、それとも提供された資金そのものを畏れかしこくも敬つてしまつたといふわけか。

 「させていただく」のやうに、この人は昔から敬語や丁寧語がまるで使へない人だつた。菅さんが、まあ、冗談のつもりだつたのだらうが、「宇宙人」は我々「地球人」と言葉遣ひが違ふからと副総理として軽率なことをのたまはつたらしいが、なに、多くの地球人、いや日本人が今やまともに日本語を喋れなくなつてゐるだけのこと。しかも、政治家が事態の深刻さに気付いてゐないだけのことである。解決策など簡単なことで、小中学校で読書の時間を増やすだけでよい。そこで古典から近代までの文学に触れさせれば十分であらう。いや幼稚園児でもよい。実際にそれを実践してゐるところでは幼児の行儀まで良くなるといふ。英語など小学校で教へることはない。そんな時間があつたら母国語と母国の歴史を叩き込んだらよいのだ。

 選挙のために日教組とつるんでゐる政党に政権を渡してはならぬことの大きな理由の一つがここにある、つまりここに言語教育ひいては教育全般の劣化の問題が潜んでゐることを忘れてはならない。自民も大して変はらぬと言へるかもしれぬが、民主ほどではない。その民主党を政権の座につかせた国民を私は信じない。普段いかに教育を論じ偉さうなことを言はうと民主がさういふ文化破壊を是とする集団だと言ふことは、小沢の疑惑同様に明白なことだつただらうに。 

 最後に引用を許可して下さつた工藤氏に御礼申し上げるとともに、多岐に亙る氏の著作に敬意を表する次第である。
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by dokudankoji | 2010-01-24 18:54 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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