福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2010年 01月 21日

言葉遣ひ

 以前麻生太郎が総理の時、漢字が読めないと散々叩かれてゐたが、鳩山の言葉遣ひについては余り騒がれないのは何故だらう。言葉以前にニュースとして取り上げることが多すぎるからなのか?

 いやいや、さうではないでせう。皆さん、鳩山の言葉遣ひの酷さに気がついてゐないのではあるまいか。一例を挙げる。二十日の参議院における代表質問に答へて、鳩山さん、かう言つてゐた。「国旗に対する尊厳、さういふものは持ち合はせてゐる」。国旗に尊厳があるなら分るが、「対する尊厳」となると、この尊厳は鳩山さんの側にあるわけか。自分に尊厳があるとは変ではありませんか。仮に「国旗に対する尊崇の念」といふつもりだつたとしても、後がいけない。「持ち合はせてゐる」とはどういふ料簡か。小銭の「持ち合はせ」ならよい、実際に身につけてゐるなら本なりペンなり、なんでも持ち合はせてもをかしくない。後は辞書を引いて下さい。

 しかし、国旗なり国家なり天皇なり、これらのものへの尊敬や尊崇といふ抽象的なものは普通持ち合はせるとは言はない。さういふ、言葉の遣ひ方に対する感覚のないマスコミが麻生の未曾有をあげつらふのは変でせうが。私もかうして人の言葉遣ひにケチを付けるのが実は少々コハいのだが、なに、構ふものか、この際書いておく。鳩山さんは、この種の曖昧な言ひ回しをよくなさる。誤用とは違ふが「国民の命を守る」とか「友愛の海」とか、これら、具体的に何を言ひたいのか、私にはまるで分らない。

 ところで、十九日は日米安保の五十周年だつたとか。その記念式典も国レヴェルでは何もなく、私の知りえた限りでは、日本国内での儀式は厚木基地においてのみだつたらしい。そのことの是非は、この際、措く。冷え切つた日米同盟への憂慮も、別の機会に触れたい。

 で、厚木基地に五十周年を記念して Alliance Park なるものが出来たといふ。それが、あらうことか、日本語では「友好広場」となつてゐる。何故、「同盟広場」と呼ばないのか。軍隊を自衛隊と呼び、国防省を防衛省と呼ぶ。同じ発想だらう。かうやつて、言葉を曖昧に遣つて、物事を曖昧にする。対象を不明確にする。言葉を曖昧に遣へば、思考が曖昧になる。 Alliance を友好と呼ぶことで有事に互いの命を捨てねばならぬ同盟関係を胡麻化す。
やはり「有事」が起きた方がよい。テポドンが飛来して、日本の国民が命を落として、その時「自衛隊」では国民を守りきれぬ状態が出現して、初めて「同盟」国のなんたるかが分るのだらう。

 友好広場で思ひ出した。私の住む町に「ふれあい広場」と「ふれいあい会館」なるものがある。およそ三十年ほど前に出来たと記憶する。出来た当初、私はその名称に嫌悪を覚えた。今でこそ私自身まったく麻痺して、それらの言葉を口にしてゐるが、初めて聞いたとき、なんとまあ気色の悪い名前かと思つた。それどころか、嘘くさく厭らしい名前だと感じたことをよく憶えてゐる。

 ここまで読んで大方の読者は、何がをかしい、気色が悪いつて何が?とお感じになるだらう。私も慣れ切つてしまひ、自分の昔の感覚が間違つてゐるのかと思ひながら、いや、そんなことはないはず、自分の感覚は間違つてゐなかつたはずと思ひ返しつつ、念のため、辞書を調べた。私の感覚は間違つてゐなかったと信ずる。

 「ふれあひ・ふれあふ」といふ言葉が遣はれ出したのがそもそも二十世紀の半ばからと思はれ、小学館の日本国語大辞典のそれ以前の用例は漱石の引用が一つ、これは単純な「接触」の意味で遣はれてゐる。「肩が触れ合はない限りは」(永日小品・1909)がそれである。1953年に中村光夫が志賀直哉論で遣つた例として「非凡な人間と直接ふれあうような」といふ用法も出てゐるが、1960年代になると突然「心の触れ合ひ」的な陰影を帯びるやうになる。一番いやらしいと私が感じるのは、「折角あなたと会いながら、少しも気持ちが触れ合ってこないことには堪えられませんでした」といふ例、なるほど柴田翔らしい遣ひ方だ。

 この辺りから、「ふれあひ・ふれあふ」に単なる肩の接触的な遣はれ方ではなく、「心と心の触れ合ひ」的な陰影が出て来たのだらう。そこが私といふ偏屈な人間の癇に触つたのだらう。広場や公民館会館の類に「ふれあひ」などと、「友好」や「友愛」と同じで言葉が大仰過ぎて実態が曖昧になるだけだ。あるいは、人と人がいとも容易に友好関係や友愛を築けるといふ欺瞞が嫌ひだ、人の心が容易に「ふれあへ」るなどと思ひ込むのがをかしい。。気楽に広場や会館に名付ける気が知れない、その感覚が気持ち悪い。さう言つて分つて頂けない方にどう説明しても無意味かもしれないが。

 この種の欺瞞に満ちた、あるいは、さうまで厳しく言はなくとも、人間の善意にしか基づかない甘つたれた命名を私は嫌ふ。友好にせよ友愛にせよ、これらの善意溢れる言葉は人間の悪意を忘れるための胡麻化しに過ぎない。一方で敵意の存在を認めないといふなら国境はいらない。人の悪意の存在を見ないならば、家に鍵をかける必要も防犯カメラもなにも要りはしない。言葉の遣ひ方でいくら胡麻化しても、現実は変はらない。人間の本質も世界情勢も、隣国の敵意も言葉で変へられるものではない。言葉遣ひをないがしろにする人々は必ず言葉に裏切られる。言葉は生きてゐる。言葉が人を造り人を育てる。その言葉を大事にしない国民は、自分の思考の曖昧にいづれ必ず裏切られる。
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by dokudankoji | 2010-01-21 02:26 | 雑感


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