2010年 01月 07日

語らずに語る

 語らずに語る。禅問答のやうな言葉だが、昨六日、大阪の文楽劇場の楽屋で住大夫が口にした言葉である。

 伽羅先代萩、御殿の段の出を前に楽屋を訪れた知人と私を前にしてのことだ。住大夫が語る前半は、俗に「まま炊き」と呼ばれる。政岡役は、せりふのやりとりといふものはほとんど無く、あつても子供をあやしたり窘めたりするばかりで、子役二人を相手に一人で無言で演ずるのと大差ない、いや、確かに会話はある、かなり喋りはするのだが、喋る言葉とは裏腹の気持ちを現はさなくてはならない。言つて見れば腹ができてゐなければ勤まらない役といはうか。腹芸といふのではない。心の苦悩を言外に語り続ける。

 住大夫は「難しい」と一言。それを聞いた時には私は御殿の段全体を考へ、何を難しいといふのか、ぴんとこなかつた。ところが幕が開いてなるほどと思つた。これは難しい。ことに住大夫の声質と八十代半ばになんなんとする大夫ににはつらい役だといふことをまざまざと感じさせられた。老けは一人も無く、立役も出ず、二人の頑是ない子供と現代でいへば三十前後の乳人(めのと)、この三人しか出てこない。

 子役の声は甲高くなくてはならず、住大夫は自分の声が向いてゐないことは百も承知。それをともかく息と音遣ひでこなして行く。政岡といふ役は、いはゆる演じどころがないといふのとは大違ひだが、難しい。耐えに耐えなくてはならない。大見えを切れる役でもなければ、泣くことはあつてもおいおいと大仰に泣ける役でもない。徹頭徹尾心の内を押し隠さねばならない役どころである。

 この三人のみの場を私が納得して観た(聴いた)ことは殆どない。大抵が押し隠すのではなく、なにも出来ずに段取りだけで終はる、そんな「まま炊き」ばかり観てきた。一度だけ、堪能したのが玉三郎演ずる政岡、これには役の苦悩が切々と伝はり涙が出さうになつた。そして、昨日の住大夫。本人が「難しい」といふのは確かに分かる。確かにその語りは慎重を極める語りと言つたらよいのか、丁寧に丁寧に一つ一つの言葉を紡いて行くやうな語りだつた。平凡だが、私は堪能した。東京であつたなら、もう一度聴きに行く。

 さて、ここまでは「余談」。書きたかつたのは冒頭の禅問答について。実はこの言葉を住大夫の口から聞いた時、え、と思つた。そして、偉さうな一言を口にしようと思ひつつ、切掛けを失つたまま話題は十二月博多座での櫻丸切腹の段へと移つてしまつた。

 私が住大夫に伝へようとしたのは、同じ経験を私もしてをり、演ずるということは常に「演じずに演ずる」といふことではないかといふ、恐らく言語芸術すべてに共通の問題に思はれるといふことである。

 チェーホフ、ことに「白鳥の歌」を二年間に亙つて演出してきて、以前にもましてその感を強くしてゐる。語らずに語る。技巧に走らず、説明的な演技をしない。つまり、造らうとし過ぎないこと。稽古場で私が役者に言ふことはほぼそれに尽きてゐる。オーバーなことはしないでくれ、泣きすぎる、大袈裟大仰。年寄りにしすぎ。どれもこれも、とどのつまりは、何もするなの一言に集約される。

 二年間の、東京、ブルガリア、東京、そして地方公演を締めくくつた京都の宿で、白鳥の歌の役者と二人で話した時、どちらからともなくしみじみと口にしたのは、作品が良いときは何もしない方がいいね、といふ一言だつた。その作品に身を委ねることだねと。

 それまで、ああでもないかうでもない、もつと年寄りの役作りをしようだの情けないお爺さんにしようだの、あれこれ散々経廻つた後の結論が、わざと造らないといふことであり、これは住大夫の語らずに語ると全く同じことなのだ。そしてこれは福田恆存の演技論「醒めて踊れ」にも通ずる。意識的な技巧に走るなと言つてもよからう。

 住大夫は「先代萩」御殿の段の前の竹の間の段で若い太夫たちが、揃ひも揃つて俺が俺がと皆で主役を演ずるやうな語りをするから、人物が分からなくなるとも言つてゐた。実際に聴いてみるとその通りだつた。咲甫大夫がことに酷い。あの八汐といふ素敵な悪党の役を、ただ悪党に仕立てようとこねくり回して、結果は惨憺たる下卑た遣手婆の如き騒々しいだけの、性格の悪いだけの人物にしてしまつてゐた。

 演者に必要なのはあくまで、作品の中でその役がどういふ「役回り」なのかを考へることだらう。八汐は自分の「正義」を信じてゐれば、それで十分、後は筋立てが自然に悪の色を浮かび上がらせてくれる。さあ、こんなに悪党なんだぞと演じ、語り、説明すればするほど、役の本質から離れ性根が見えなくなる。結果は、悪党を演じてゐるのではなく、ただ悪党ぶつて見せてゐる演者がゐるだけだ。これがつまり、説明過剰の演技といふわけだ。語り過ぎ、語らうとし過ぎてゐるわけだ。だから語らずに語れ、といふわけだ。

 役者や大夫が演じて人物を造形すると思ふからあやまつ。作者が、あるいは作品が役者を動かしてくれることを信ずるところから始めたらよい。受動の中の能動、能動的にみえても受動の立場を失はない舞台造りを目指すこと。語らずに語るとはさういふことだ。そこにしかおそらく演技のリアリズムは見出せないはずである。

 かういふ比喩にしてもよい。われわれ人間が言葉を操るのではない。言葉がわれわれを操り育む。人間が歴史を作るのではない。歴史がわれわれを育てる。これらのことが通じない人間とは、もはや私は共に舞台を造る気にはなれない。言葉の本質を分からぬ人と文学についても演劇についても語り合ふ気にはなれない。
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by dokudankoji | 2010-01-07 23:55 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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